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第41話 叔父の小鳥封

 高等審問院の緊急保全令状が発行されたのは、それから半刻も経たないうちだった。


 対象は、ロウエル家の文書庫、当主書斎、ミリアの私室、裏庭の焼却炉、封蝋器具、薬剤、そして故人の遺品。


 令状には高等審問院の裁可印、教会監査の立会い印、王都警備隊の執行印が並んでいる。


 グレゴールがどれほど「我が家の問題だ」と叫んでも、もう止めることはできなかった。


「捜索ではありません」


 審問院書記官は令状を読み上げた後、淡々と告げた。


「証拠の緊急保全です。封書および文書の内容確認は、原則として立会人の前で行います」


「同じことだろう!」


「違います」


 セラフィナは静かに言った。


「誰かを罪人と決めつけて探すのではなく、消される可能性がある記録を守るのです」


 グレゴールが娘を睨む。


「お前がそれを言うのか」


「はい」


 もう視線を逸らさなかった。


 かつては父が怒っているだけで、自分が間違っているような気持ちになった。


 けれど今、間違っているのは怒りの強さでは決まらないと知っている。


 誰が何をしたのか。


 何を残し、何を消そうとしたのか。


 それを記録が示す。


 裏庭の焼却炉前には、古紙の束と小さな文書箱が置かれていた。


 焦げた紙の匂いが残っている。


 だが、王都警備隊が早く止めたため、箱そのものには火が移っていなかった。


 煤が表面へ付着しているだけだ。


「これです」


 警備隊員が示す。


 箱は両手で抱えられるほどの大きさだった。


 古い濃茶色の木。


 角には真鍮の補強。


 正面の鍵穴をまたぐように、褐色の封蝋が押されている。


 蔦に囲まれ、翼を閉じた小鳥。


 叔父の印だった。


「叔父様のものです」


 セラフィナは、触れずに答えた。


「間違いないのか」


 審問院書記官が尋ねる。


「はい。私が使っている小鳥は片翼を開いています。叔父様の小鳥は、両方の翼を閉じています」


 叔父は笑って言っていた。


 自分はもう飛び回る年齢ではない。


 だから、翼を休めた鳥にする。


 けれどセラフィナの鳥は、飛び立つ途中がいい。


 いつか自分で行き先を選べるように。


 当時は、単なる意匠の違いだと思っていた。


 今は、その願いが胸に刺さる。


 書記官が拡大鏡で印影を調べた。


「確かに、セラフィナ嬢の封印具とは羽根の向きが異なります」


 教会監査官も封蝋の縁を確認する。


「再加熱の痕があります」


 蝋の表面は本来なら、自然に冷えてわずかな波を作る。


 だがこの封の右側だけは、不自然に平らだった。


「開封しようとしたのでしょうか」


「完全には開いていません」


 監査官が答える。


「温めて印を剥がし、再び戻そうとした。しかし途中で中止したようです」


 セラフィナはグレゴールを見た。


「なぜ、この箱を開けようとしたのですか」


「知らん」


「焼却炉へ運んだことも?」


「使用人が古い箱を間違えたのだ」


「使用人の名は」


「覚えていない」


「誰から焼却を命じられましたか」


「知らんと言っている!」


 声を荒らげても、今度は誰も怯まなかった。


 書記官がグレゴールの発言を記録する。


 知らない。


 覚えていない。


 使用人が勝手にした。


 それらもすべて、後で確認される言葉になる。


「開封前の現状記録を終了します」


 書記官が告げた。


「セラフィナ嬢。職能を使用しますか」


 レオンハルトの視線が横から向けられる。


 顔色を確認しているのだろう。


 セラフィナは自分の指先を見た。


 包帯の下に、まだ薄い痛みがある。


「封の目的だけを確認します」


「それ以上は」


 レオンハルトが言う。


「文書を目で読めるなら、封から読む必要はない」


「はい」


 約束した。


 一人で限界を決めないと。


 セラフィナは白手袋の指先を、叔父の小鳥封へそっと置いた。


 静かな温かさが流れ込んでくる。


 古い書斎。


 乾いた紙の匂い。


 叔父が使っていた青い陶器の茶器。


 窓辺に積まれた本。


 そして、少し困ったような笑い声。


 ――セラフィナへ。


 懐かしい声に、胸が詰まった。


 ――この箱は、お前のものだ。


 ――誰かに命じられて開けるな。


 ――お前自身が、開けると決めた時に開けなさい。


 それ以上は追わなかった。


 自分から手を離す。


「私宛ての箱です」


 セラフィナは言った。


「そして、開封条件は私自身の意思です」


「体温は」


 レオンハルトが尋ねる。


「下がっていません」


 彼が手袋越しの指へ一瞬だけ触れる。


「……今回は有効だ」


 珍しく認められた。


 少しだけおかしくなったが、今は笑わず、書記官へ頷いた。


「開けてください」


 封蝋の周囲が慎重に切り離された。


 印影そのものは証拠として残される。


 鍵穴には小さな真鍮の鍵が差し込まれた。


 鍵は、箱の底へ紐で固定されていたものだ。


 蓋が開く。


 中には、文書が種類ごとに紐で束ねられていた。


 一番上にあったのは、叔父の遺言書原本。


 証人封。


 家門封。


 王宮提出前の原本であることを示す記録。


 書記官が内容を読み上げる。


「故人の蔵書、封蝋道具、文書保管箱、王都南区の小屋敷および預金の一部を、姪セラフィナ・ロウエルへ遺贈する」


 偽造された遺言書では消されていた内容。


 叔父が、本当に残してくれたもの。


「理由」


 書記官が続ける。


「セラフィナは、他者が捨てる紙に残された声を聞く。彼女の職能は外れではなく、消される記録を守るために必要なものである」


 文字が滲んだ。


 泣かないつもりだった。


 父の前で。


 調査の途中で。


 けれど、目の奥が熱くなるのを止められなかった。


 誰も認めなかった頃から、叔父だけは知っていた。


 紙くずなどではないと。


 レオンハルトは慰めの言葉を口にしなかった。


 ただ半歩横に立ったまま、セラフィナが顔を上げるまで待ってくれた。


 次の束には、ロウエル家と王宮文書局の間で交わされた書簡があった。


 差出人はヴィクトル・グレン。


 宛先はグレゴール・ロウエル。


 内容は露骨ではない。


 王宮での地位。


 グレン家との縁。


 ロウエル家の家格上昇。


 その見返りとして、叔父の保管文書を渡し、セラフィナの職能の信用性を下げることが求められていた。


「紙くず令嬢という呼び方も、ここにあります」


 書記官が一枚を示した。


 ――娘の言葉は、日頃より空想癖のある者の戯言として扱うこと。

 ――封蝋読みではなく、紙くずに執着する不安定な娘との印象を広めること。


 ヴィクトルの筆跡。


 日付は、婚約破棄より半年も前。


 セラフィナを黙らせる準備は、ずっと前から始まっていたのだ。


「父上」


 昔の呼び方が、思わず口から出た。


 グレゴールが顔を上げる。


「これを受け取りましたか」


「……王宮文書局からの一般的な助言だ」


「私の信用を失わせることが?」


「家のためだ」


「叔父様の遺言を隠すことも?」


「それはミリアが」


「ミリア一人に、この箱を焼却炉へ運べません」


 父は黙った。


 セラフィナは、深追いしなかった。


 今ここで無理に自白させる必要はない。


 書簡がある。


 金銭記録もある。


 ミリアが目覚めれば、証言も取れる。


 嘘をつくほど、記録との矛盾が増えるだけだ。


 箱の底には、叔父自身の手紙が一通あった。


 宛名はセラフィナ。


 これは封蝋を使わず、紙紐だけで閉じられている。


 彼女が目で読めるように残したのだろう。


 セラフィナは書記官の許可を得て、手紙を開いた。


『セラフィナへ。


 もしお前がこれを読んでいるなら、私は自分の口で説明できなかったのだと思う。


 アルベルト・ヴァイス公爵から、妹エリシアとその子に関する記録の写しを預かった。


 公爵は王宮文書局内に、家門の記録を改めようとする者がいると疑っていた。


 私は写しを守ると約束した。


 だが、最も大切なことを紙だけで判断してはいけない。


 エリシアが生きているなら、まず本人に聞きなさい。


 母親が知っている名を、他人の紙が決めるべきではない。


 ここにあるのは、彼女と子が北方港を通ったことを示す記録だけだ。


 その子の父が誰であるかを公に証明する原本は、北方港の旧税関礼拝室へ預けられた。


 父親の名を知るためではない。


 その名を、誰にも書き換えさせないための原本だ。』


 セラフィナは、そこで読むのを止めた。


 エリシア本人に聞く。


 当たり前のことだった。


 生きている本人がいるのに、紙だけを追ってはいけない。


 叔父は、自分が紙を信じすぎることまで分かっていたのかもしれない。


「北方港」


 レオンハルトが低く言った。


「旧税関礼拝室なら、現在は使われていません。港湾記録の一部だけが保管されているはずです」


 オルデンが頷く。


「先代様の時代には、密輸品や身分秘匿を要する避難者の文書を、一時的に預ける場所として使われておりました」


 叔父の手紙には、さらに続きがあった。


『アルベルト公爵が恐れていたのは、子の存在ではない。


 偽造された出生登録によって、罪のない者へ汚名が着せられることだ。


 父親欄だけを見てはいけない。


 婚姻の記録、本人の署名、教会証人封を合わせなさい。


 名だけなら、いくらでも書き換えられる。


 封と署名と、生きた証言が揃って、初めて真実になる。』


 それが、叔父の残した最後の忠告だった。


 箱の一番下には、北方港の古い地図と、赤い蝋で閉じられた薄い封筒があった。


 封筒には、先代公爵アルベルトの筆跡で書かれている。


 ――エリシア本人の証言後に開封すること。


 順番まで指定されていた。


 まず、生きているエリシアへ聞く。


 その後に、先代公爵の封を開く。


 今までのセラフィナなら、すぐにでも読みたいと思ったかもしれない。


 けれど、今日は手を伸ばさなかった。


「この封は、屋敷へ持ち帰ります」


「今、読まないのか」


 グレゴールが尋ねた。


 驚いているようだった。


 セラフィナなら、封があれば必ず読むと思っていたのだろう。


「開封条件が満たされていません」


「お前の力なら、何か分かるのだろう」


「分かることと、読んでよいことは違います」


 レオンハルトが、ほんのわずかに口元を緩めた。


 昨日、彼に言われた言葉だった。


 セラフィナは叔父の文書箱を見つめる。


 欲しい答えをすぐに取るのではない。


 正しい順番で確かめる。


 それもまた、文書を守る仕事なのだ。


 審問院書記官が、発見された文書を一つずつ証拠目録へ記載していく。


 叔父の遺言書原本。


 ヴィクトルとグレゴールの書簡。


 金銭授受記録。


 北方港の地図。


 先代公爵の条件付き封書。


 すべてに番号が振られ、審問院封とヴァイス家の保全封が押された。


 最後に書記官がグレゴールへ告げる。


「ロウエル男爵。これらの文書は高等審問院が保全します。今後、関係者への接触および証拠への干渉を禁じます」


「我が家の文書だ」


「故人の遺言により、正当な受取人はセラフィナ・ロウエル嬢です」


 グレゴールは娘を見た。


 怒り。


 不安。


 そして、初めて見るような戸惑い。


「セラフィナ」


 呼ばれても、昔のようには胸が縮まなかった。


「何でしょう、ロウエル男爵」


「その箱を持っていけば、我が家は」


「私が持っていくのではありません」


 セラフィナは答えた。


「高等審問院が保全します」


「その後だ」


 家の地位。


 財産。


 評判。


 父が心配しているのは、結局そこなのだ。


「叔父様の遺言に従います」


「家族なのだぞ」


「叔父様も家族でした」


 グレゴールは言葉を失った。


「でも、あなたは叔父様の願いを隠しました」


 責める声ではなく、確認する声で言った。


「だから、もうあなたへ預けません」


 それだけだった。


 怒鳴る必要はない。


 泣いて理解を求める必要もない。


 線を引けばいい。


 文書箱が運び出される。


 叔父の小鳥封は割れてしまった。


 けれど、その中の言葉は残った。


 セラフィナは屋敷を出る前、一度だけ振り返った。


 生まれ育った家。


 悲しい記憶ばかりではない。


 叔父と本を読んだ部屋もある。


 初めて小鳥の封印具を受け取った庭もある。


 だからこそ、すべてを憎まなくてもいいと思えた。


 ただ、戻らなければいい。


「行こう」


 レオンハルトが言った。


「はい」


 半歩横へ並ぶ。


 今度は、自分から。


 門を出る時、空は夕暮れに染まり始めていた。


 あの雨の夜とは違う。


 手には叔父の遺言がある。


 行き先も、自分で決められる。


 馬車へ乗る直前、オルデンが新たな報告書を差し出した。


「ミリア嬢が、指定施療所で一度だけ意識を取り戻したそうです」


「話せましたか」


「短い言葉だけですが」


 オルデンは記録を読む。


「『お姉様の箱を燃やせと言ったのは、お父様ではない』と」


 グレゴールではない。


 では、誰か。


「続きは」


「『青い服の人が、黒い狼の手紙を持ってきた』と申しております」


 王宮文書局。


 オスカーの私印。


 やはり、ロウエル家だけで完結する事件ではない。


 だが、今すぐ新しい封を追う必要はない。


 セラフィナは叔父の手紙を思い出した。


 まず本人に聞きなさい。


「屋敷へ戻りましょう」


 セラフィナは言った。


「エリシア様に、ノアさんのお父様について尋ねます」


 レオンハルトが頷く。


「ああ」


 答えを知るためではない。


 生きている人の言葉を、最初に聞くために。


 その後で、北方港に残された原本を取り戻す。


 叔父の小鳥は、正しい順番まで守ってくれていた。

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