第40話 もう、帰る家ではありません
ロウエル家の鉄門は、あの夜と何も変わっていなかった。
色の剥げた家紋。
片方だけ軋む門扉。
手入れの行き届かない生垣。
婚約を破棄され、父から除籍を告げられた夜、セラフィナはこの門を一人で出た。
雨の中、わずかな荷物だけを抱えて。
誰も追ってこなかった。
けれど今、セラフィナの隣にはレオンハルトがいる。
後ろにはオルデン、高等審問院の書記官、教会監査の薬剤官、王都警備隊、そしてヴァイス公爵家の護衛が続いていた。
家へ戻ってきたのではない。
証人を守り、記録を保全するために来たのだ。
「止まれ!」
門前では、すでに王都警備隊が馬車を囲んでいた。
窓を厚い黒布で覆われた小型馬車。
御者台には、クラウス商会の元雇用人。
扉の前には、グレン家の紋を外した護衛が二人立っている。
「病人の移送だ!」
馬車の横で、父グレゴールが怒鳴っていた。
「娘をどこへ運ぼうと、父親である私の自由だろう!」
その声を聞いた瞬間、セラフィナの身体はわずかに強張った。
昔から変わらない声。
反論を許さず、先に罪悪感を植えつける声。
だが、レオンハルトが半歩横へ並ぶ。
それだけで、足は止まらなかった。
「ロウエル男爵」
セラフィナが呼ぶと、グレゴールが振り返った。
「セラフィナ!」
父の顔に、安堵と怒りが同時に浮かぶ。
「ようやく戻ったか。すぐにこの者たちを下がらせろ!」
「戻ったのではありません」
「何?」
「高等審問院の臨時保護命令に同行した文書監査人として来ました」
セラフィナは父ではなく、審問院書記官へ視線を向けた。
書記官が封付きの命令書を広げる。
「ミリア・ロウエル嬢について、本人の意思確認不能、違法薬物投与および証言妨害の疑義が認められるため、高等審問院の臨時保護対象とします」
「ふざけるな!」
グレゴールが命令書を奪おうとした。
警備隊員が一歩前へ出て、その手を止める。
「正式な命令書です。触れないでください」
「我が家の娘だぞ!」
「だからこそ、本人の意思を確認します」
セラフィナは馬車を見た。
「ミリアは、自分でこの移送に同意しましたか」
「病人に署名を求めるつもりか!」
「同意書がないのですね」
「緊急だったのだ!」
「では、主治医の診断書は?」
父の口が止まる。
「移送先の受入証明。使用薬剤の一覧。投与時刻。本人の意識状態。緊急移送を必要とする医学的根拠はありますか」
「細かいことを」
「人を連れていく記録です」
セラフィナは静かに言った。
「細かくて当然です」
かつて父に何かを尋ねるたび、口答えをするなと言われた。
だが今、父は答えられない。
答えの代わりに、怒鳴ることしかできない。
馬車の扉が開かれた。
教会薬剤官が、防護布を口元へ当てながら中へ入る。
セラフィナも近づこうとしたが、レオンハルトの手がそっと腕を止めた。
「薬がある」
「分かっています」
「ここで待て」
反論しかけて、やめた。
薬剤の確認は専門家に任せるべきだ。
封蝋読みが必要な場面ではない。
しばらくして、薬剤官が馬車から降りてきた。
表情は険しい。
「女性一名。呼吸はありますが、呼びかけに反応しません。強い鎮静薬を投与されています」
「一般的な薬です」
馬車の中から、中年の男が降りてきた。
細い目をした医師、ドミニク・ヘイル。
「患者は興奮状態にありました。安全のために眠らせただけです」
「投与量は」
薬剤官が尋ねる。
「適量です」
「薬剤名を」
「鎮静用の混合薬です」
「成分を答えてください」
ドミニクは黙った。
薬剤官が馬車から一本の小瓶を運び出す。
瓶の底には、黒紫の沈殿が残っている。
「施療院薬剤希釈事件で回収された薬と、同じ基剤が使われています」
周囲の空気が冷えた。
「長時間作用型の鎮静剤です。繰り返し投与すれば、記憶の混濁や言語障害を起こす可能性があります」
「そんなはずは」
ドミニクが一歩下がる。
「薬瓶と医師を保全対象とします」
審問院書記官が告げた。
「ドミニク・ヘイル。使用薬剤、依頼者、投与時刻について聴取を受けていただきます」
「私は医師として」
「ならば、記録を提示してください」
提示できるものはなかった。
グレン家の護衛二人も、移送許可書を持っていない。
御者はクラウス商会の元雇用人であることを認めたが、誰から依頼されたかについては口を閉ざした。
すべてが、エリシアを運んだ黒馬車と似ていた。
眠らせる。
窓を閉ざす。
記録を残さず、別の場所へ移す。
「ミリアをどこへ連れていく予定だったのですか」
セラフィナが問う。
ドミニクは答えない。
父が代わりに言った。
「グレン家の別邸だ。静養に適している」
「なぜグレン家なのですか」
「エリアス殿との縁がある!」
「婚約は成立していません」
「いずれ正式に」
「エリアス様は現在、高等審問院へ証言を提出しています」
父の顔色が変わった。
知らなかったらしい。
「何を証言した」
「王宮文書局とクラウス商会に関することです。それから、ミリアが封蝋の温め直しについて相談していたことも」
「エリアスが、そんな」
父は周囲を見た。
王都警備隊。
審問院書記官。
教会薬剤官。
以前なら圧力をかけられた相手ばかりだった。
だが、今は誰も父の怒声に従わない。
「ミリア嬢を移します」
書記官が言った。
「高等審問院指定施療所へ。王都警備隊と教会監査の共同保護下に置きます」
「許さん!」
「あなたの許可を必要としません」
グレゴールがセラフィナを睨みつけた。
「お前が仕組んだのか」
胸の奥に古い痛みが走った。
お前のせいだ。
お前が家を壊す。
何度も言われた。
でも、今は違う。
「いいえ」
セラフィナは父の目を見た。
「あなた方が残した記録が、ここへ連れてきました」
「姉のくせに、ミリアを連れ去るのか」
「姉だから来たのではありません」
「では、なぜだ!」
「証言者を、生きたまま保護するためです」
セラフィナは馬車の中のミリアを見た。
青白い顔。
閉じた瞳。
嘘泣きも、勝ち誇った微笑みもない。
今はただ、誰かに薬を使われた一人の娘だった。
「ミリアが目を覚ましたら、叔父様の遺言書を誰が書き換えたのか。誰に封蝋温め器を渡されたのか。私を偽造犯にするよう、誰から指示されたのか。すべて証言してもらいます」
「妹を脅すつもりか」
「いいえ」
セラフィナは首を横に振った。
「罪があるなら、その責任を取ってもらうだけです」
「家族を売るのか!」
「私を除籍したのは、あなたです」
父の顔が固まる。
オルデンが除籍届の写しを広げた。
グレゴール本人の署名。
ロウエル家の家門封。
「あなたは、私を娘ではないと書面で宣言しました」
「あれは一時の感情で」
「書面は、都合に合わせて家族を出し入れする道具ではありません」
「親子の縁は紙一枚で」
「ならば、なぜ紙一枚で私を追い出したのですか」
父は答えなかった。
セラフィナは続ける。
「あなたが私を追放したことを、私はもう恨みません」
グレゴールの顔に、一瞬だけ期待が浮かんだ。
「では」
「許すという意味ではありません」
期待が消える。
「私はもう、あなたの言葉で自分の価値を決めないという意味です」
紙くず令嬢。
恩知らず。
家を乱す娘。
何度も浴びせられた言葉。
「私は、もうこの家へ帰りません」
「セラフィナ」
「戻る場所でもありません」
セラフィナは静かに言った。
「ここは今、文書偽造と証人移送の疑義がある調査対象です」
レオンハルトが半歩横で、何も言わず立っている。
守ってくれる。
だが、セラフィナの代わりに父と決別しようとはしない。
自分の言葉で終わらせる機会を、残してくれている。
グレゴールは唇を震わせた。
「公爵家に取り入ったから、そんな態度を」
周囲の空気が凍った。
レオンハルトの瞳が冷える。
だが、セラフィナは先に口を開いた。
「違います」
「何がだ」
「レオン様がいらっしゃらなくても、私は同じことを言います」
それだけは、はっきりさせたかった。
レオンハルトに救われた。
守られた。
けれど、父から離れることを選んだのは自分だ。
「ただ、一人では言えなかったかもしれません」
正直に認める。
「半歩横に立ってくださる人がいるから、言葉にできました」
レオンハルトの視線が、ほんの少し揺れた。
グレゴールは何も言えなくなった。
ミリアを乗せた馬車は、高等審問院指定施療所へ向けて動き出した。
教会薬剤官が同乗し、王都警備隊が前後を固める。
ドミニク医師と護衛たちは、別の馬車で聴取施設へ運ばれることになった。
セラフィナは、遠ざかっていく馬車を見送った。
助けたのではない。
許したのでもない。
ただ、誰かの都合で証言を奪われることを止めた。
それでいい。
「屋敷内の保全へ移ります」
審問院書記官が言った。
「王宮文書局関係者二名、携帯式封蝋温め器、焼却予定文書について、緊急保全令状を申請します」
「我が家へ入れるつもりか!」
グレゴールが再び怒鳴る。
「根拠があります」
書記官は淡々と答えた。
「証人移送、違法薬物、文書偽造器具、焼却準備。十分です」
その時、門の内側から警備隊員が駆けてきた。
「書記官殿!」
「何があった」
「裏庭の焼却炉前で、封付きの小箱を発見しました」
セラフィナの胸が鳴る。
「印は」
警備隊員は答えた。
「蔦に囲まれた、小さな鳥です」
叔父がセラフィナへ贈ってくれた意匠。
翼を閉じた小鳥。
消えた文書箱。
セラフィナは門の奥を見た。
自分が暮らしていた屋敷。
けれど、懐かしさより先に、確かな決意があった。
「令状を取ってください」
セラフィナは言った。
「今度こそ、叔父様の封を正式に開きます」
父グレゴールの顔から、血の気が引いた。




