第39話 次に読む封は、私の家のもの
――次に読む封は、君の家のものだ。
王宮高等審問院の階段下で、その一文を読んだ瞬間、セラフィナの足が止まった。
護衛が差し出した封書には、折れた剣を添えた狼の印が押されている。
オスカー・ヴァイスの私印。
クラウス商会本店の焼け跡から見つかったという黒い封書は、まるで初めからセラフィナの手に渡ることを待っていたようだった。
「触るな」
隣から、レオンハルトの声が落ちた。
セラフィナは、封書へ伸びかけていた手を止める。
「まだ触れていません」
「触れようとした」
「表面の状態を確認しようとしただけです」
「その包帯でか」
白手袋の下には、まだ両手の指先を覆う包帯がある。
白鹿と小さな狼の封を読んだ代償は、完全には抜けていなかった。
痛みは弱くなっている。
けれど、封蝋読みを重ねてよい状態ではない。
何より、この封書はあからさまな誘いだった。
封蝋読みの令嬢へ。
そう宛名が記されている。
読むことそのものが、相手の狙いである可能性が高い。
「保全箱へ入れてください」
セラフィナは護衛へ告げた。
レオンハルトの目が、わずかに和らぐ。
「賢明だ」
「屋敷へ戻ったら、立会人を揃えて確認します」
「休んだ後だ」
「緊急性があります」
「休んだ後だ」
即答だった。
「レオン様」
「昨夜、何を約束した」
セラフィナは黙った。
封蝋読みを行う時は、一人で限界を決めない。
体温が下がった時は中断する。
レオンハルトや医師が止めた場合は従う。
何度も確認され、記録まで取られた約束だ。
「……休んだ後です」
「よろしい」
レオンハルトは護衛へ向き直った。
「審問院の受領仮封を求める。ヴァイス家の保全封と二重にしろ。屋敷の封印室へ運ぶまで、誰にも触れさせるな」
「承知いたしました」
革手袋をはめた係官が、黒い封書を透明な薄革袋へ収める。
その上から王宮高等審問院の仮封と、ヴァイス家の白銀の狼が押された。
セラフィナは自分の小鳥の封を押さなかった。
オスカーが求めているのは、封蝋読みの反応だ。
ならば、簡単には与えない。
レオンハルトが低く尋ねる。
「君の家、とは何を指すと思う」
ロウエル家。
その名を心の中で思い浮かべただけで、胸の奥に古い痛みが蘇った。
父グレゴール。
義妹ミリア。
偽造された叔父の遺言書。
精神的に不安定で、虚偽を口にする娘だと王宮文書局へ提出された照会文。
そして昨日届いた、ミリアの看病をするために帰宅せよという要請。
「叔父様の遺言書だと思います」
セラフィナは答えた。
「本物は、まだロウエル家にある可能性があります。叔父様が私に残したとされる文書箱も、見つかっていません」
「父親が隠していると?」
「父か、ミリアか。あるいは、王宮文書局の誰かが預けたままにしているか」
叔父は、セラフィナの職能を初めて認めてくれた人だった。
古い封蝋道具を与え、傷んだ文書を任せてくれた。
亡くなる前には、財産だけでなく蔵書と文書箱をセラフィナへ残すと言っていた。
だが、夜会でミリアが持ち出した遺言書には、その内容が書き換えられていた。
セラフィナが叔父の遺言書を偽造した。
そう罪を着せる内容へ。
「ミリアの体調不良も、無関係とは思えません」
セラフィナが言うと、レオンハルトの目が細くなった。
「病気が嘘だと?」
「嘘だけなら、まだよいのですが」
リックを眠らせるための薬。
エリシアへ長く投与されていた薬。
ノアを連れ去ろうとした者が持っていた黒紫の薬瓶。
敵は、都合の悪い者を眠らせ、記憶を濁らせ、証言できない状態にする。
「ミリア自身も、証拠として処分される可能性があります」
「彼女は君を陥れた」
「はい」
「それでも心配するのか」
セラフィナは少し考えた。
夜会で嘘泣きをしたミリア。
父と共に公爵邸へ押しかけ、セラフィナを引き渡せと要求したミリア。
叔父の遺言書を書き換え、婚約も居場所も奪おうとした妹。
許せない。
助けたいとは、思わない。
「死んでもよいとは思いません」
セラフィナは静かに答えた。
「罪があるなら、生きて証言し、生きて責任を取るべきです」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
「君は優しいな」
「違います」
セラフィナは首を振る。
「死なれたら、誰が何をさせたのか分からなくなります」
「そういうことにしておこう」
少しだけ柔らかな声だった。
レオンハルトはオルデンへ指示する。
「ロウエル家へ監視を出せ。表立って包囲はするな。人と荷物の出入りを記録する」
「承知いたしました」
「特に王宮文書局、グレン家、クラウス商会関係者。医師、薬師、文書箱、封蝋器具、焼却物も確認しろ」
「接触は」
「令状なしで屋敷内へ入るな。外へ出る者も、現時点では拘束するな」
セラフィナが続けた。
「ただし、火が出た場合、誰かが意識のない状態で運び出された場合、封付き文書が焼却されようとした場合は、王都警備隊へ通報してください」
オルデンが一礼する。
「そのように手配いたします」
自分で帰るつもりはなかった。
父に命じられた娘として。
ミリアを看病する姉として。
家族の問題を話し合うために。
あの家へ戻れば、すべてがまた「ロウエル家の内輪の問題」にされる。
セラフィナが怒っているだけ。
婚約破棄の恨み。
妹への嫉妬。
そう塗り替えられる。
だから戻らない。
まずは外から記録する。
必要なら、正式な令状を持って入る。
あの夜とは違う方法で。
* * *
ヴァイス公爵邸へ戻ると、玄関でマーサが待ち構えていた。
「セラフィナ様」
「はい」
「お休みください」
「封書の確認を」
「お休みください」
「ですが、オスカー様から」
「お休みください」
三度目は、さらに低かった。
セラフィナは隣のレオンハルトを見る。
助けを求めたつもりだった。
「休め」
味方はいなかった。
「レオン様もです」
セラフィナが言うと、マーサはすぐさま頷いた。
「旦那様もでございます」
「私は書斎で」
「お部屋へ」
「告発状の追加が」
「お部屋へ」
レオンハルトが黙る。
今度はセラフィナの側に味方が戻った。
結局、二人ともそれぞれの部屋へ送られた。
黒い封書は、封印室の中央に置かれた。
高等審問院の派遣書記官。
教会監査補助官。
ヴァイス家のオルデン。
三者が揃うまで開封しない。
正しい手続きだった。
セラフィナは薬湯を飲み、包帯を交換され、寝台へ入った。
けれど、目を閉じても眠りはすぐには訪れなかった。
オスカーの言葉が浮かぶ。
次に読む封は、君の家のものだ。
叔父の文書箱は、まだ残っているのか。
父は何を知っているのか。
ミリアは、自分が誰に利用されているか理解しているのか。
それとも、薬で眠らされているのか。
考えれば考えるほど、身体を起こしたくなる。
今すぐロウエル家へ行きたくなる。
けれど、セラフィナは毛布の中で包帯の巻かれた手を見た。
昨日までなら、止まれなかった。
誰かの封が助けを求めれば、自分の身体など後回しにした。
だが今は、一人ではない。
監視は出ている。
レオンハルトも、オルデンも、マーサもいる。
自分が眠っている間に、誰も動かないわけではない。
「休むのも、仕事……」
小さく呟く。
それはまだ、セラフィナにとって難しい仕事だった。
* * *
次に目を覚ました時、窓の外は夕暮れの色に染まっていた。
枕元の椅子には、レオンハルトが座っている。
黒い上着ではなく、屋敷用の簡素な服。
彼自身も、少しは休んだらしい。
「起きたか」
「はい」
セラフィナは身体を起こそうとする。
レオンハルトが背へ枕を入れた。
「ロウエル家から報告が来た」
一瞬で眠気が消える。
「何がありましたか」
レオンハルトは紙を開いた。
「午後、王宮文書局の下級書記官が二人、ロウエル家の裏口から入った」
「名前は」
「一人はハロルド・ケイン。もう一人は、グレン家の使用人服へ着替えていて確認できていない」
「持ち物は」
「封付き文書箱。薬師用の革鞄。それと、携帯式の封蝋温め器」
セラフィナの胸が沈む。
ミリアが叔父の遺言書を偽造した時に使った可能性がある器具。
エリアスが、その存在を教えたと証言した器具。
「屋敷から出ましたか」
「まだだ。入った後、ロウエル家は使用人の多くを帰宅させ、門を閉じた」
「証拠を作り替えるつもりです」
「同感だ」
「紙の焼却は」
「屋敷裏の焼却炉へ古紙が運ばれた。王都警備隊が火災予防確認の名目で止めている」
レオンハルトは先回りしていた。
セラフィナが眠っている間に。
「ありがとうございます」
「ああ」
「次は起こしてください」
「却下する」
「なぜですか」
「起きたら君が行くと言うからだ」
反論できなかった。
きっと言った。
「ミリアの状態は確認できましたか」
レオンハルトの表情が険しくなる。
「ロウエル家の常勤医ではない男が入った。ドミニク・ヘイル。クラウス商会系列の施療院に所属していた医師だ」
「薬は」
「革鞄に複数の瓶。中身は見えていない」
ミリアの病気は、演技ではないかもしれない。
病人に見せるため、薬を飲まされている。
あるいは、証言できない状態へするために。
「教会の薬剤監査を入れてください」
「セルジオ司祭へ連絡済みだ」
「本当に全部先に」
「君が考えそうなことは、少し分かるようになった」
セラフィナは、返事に困った。
嬉しい。
けれど、それを素直に認めると頬が熱くなりそうだった。
「黒い封書は」
「立会人が揃った。君の体調がよければ、確認できる」
「できます」
「封蝋読みは最小限だ」
「はい」
「私の判断でも止める」
セラフィナは一瞬黙った。
「返事が遅い」
「まだ読めるのに、止められる可能性があるので」
「まだ読めると、読んでよいは違う」
静かな声だった。
「君は昨日、倒れる直前まで大丈夫だと言った」
「はい」
「だから、君だけの判断には任せない」
正しい。
痛いほど正しい。
セラフィナは包帯の指先を見つめた。
「分かりました」
「約束できるか」
「はい。レオン様が止めた時も中断します」
「覚えておく」
「記録しないのですか」
「私が覚えていれば十分だ」
その言葉が、妙に温かく残った。
* * *
封印室には、黒い封書が置かれていた。
高等審問院の書記官が現状を読み上げる。
「黒色蝋。印影は、折れた剣を添えた狼。封書表面に破損なし。ヴァイス公爵家保全封、高等審問院受領仮封、ともに異常なし」
教会監査補助官が魔術具を近づける。
淡い光が、封書の縁をなぞった。
「発火、毒霧、直接拘束の術式は確認されません。ただし、封蝋内部に極細の連動線があります」
「連動先は分かりますか」
セラフィナが尋ねる。
「この場からは特定できません。別の封、あるいは封蝋器具と繋がっている可能性があります」
君の家のもの。
ロウエル家で封蝋温め器が持ち込まれた。
偶然ではない。
「この封を開けば、ロウエル家にある別の封が反応するかもしれません」
「破損や発火の可能性は」
「否定できません」
セラフィナは黒い封書を見つめた。
読むべきではない。
少なくとも、ロウエル家側の保全が整うまでは。
「今日は開けません」
セラフィナが言うと、審問院書記官が少し意外そうに顔を上げた。
「よろしいのですか」
「相手は、私に今すぐ読ませたがっています」
封蝋読みの令嬢へ。
わざわざ、そう宛てられた。
「ならば、相手が望む順番では開けません。先に連動先を保全します」
レオンハルトが静かに頷いた。
「そうしよう」
その時、封印室の扉が激しく叩かれた。
「緊急報告です!」
オルデンが扉を開く。
入ってきた護衛は、息を切らしていた。
「ロウエル家裏門より、馬車が出ようとしています」
セラフィナの胸が強く鳴る。
「積み荷は」
「布で窓を覆われているため確認できません。ただし、女性一名が運び込まれました」
「意識は」
「ありません。自力では歩いておりません」
「ミリア……」
セラフィナが呟く。
護衛は続けた。
「同乗者は医師ドミニク・ヘイル。護衛はグレン家の者二名。御者はクラウス商会の元雇用人です」
証人を移す。
エリシアと同じ方法で。
薬を使い、窓を閉ざし、別の場所へ運ぶ。
「行き先は」
レオンハルトが問う。
「グレン家別邸と主張しておりますが、移送許可書も、本人の同意書もありません」
「王都警備隊に止めさせろ」
「すでに道を塞いでおります。ただし、ロウエル男爵が家族の療養移送だと抗議しています」
レオンハルトは高等審問院書記官を見る。
「証人保護の緊急令状を求める」
「根拠は十分です」
書記官はすぐに紙を広げた。
「違法薬物投与疑義、本人意思確認不能、グレン家およびクラウス商会関係者による移送。臨時保護命令を発行します」
筆が走る。
教会監査補助官が薬剤確認の必要性を追記する。
レオンハルトが白銀の狼を押す。
審問院の仮裁可印が並ぶ。
セラフィナは椅子から立ち上がった。
「私も行きます」
レオンハルトがこちらを見る。
「体調は」
「休みました。封蝋も読んでいません」
「ロウエル家へ戻ることになる」
「戻るのではありません」
セラフィナは、はっきり言った。
「父に呼ばれた娘としてではなく、証人移送を確認する文書監査人として行きます」
あの夜、追い出された。
今度は呼び戻されるのではない。
正式な命令書を持ち、自分の意思で門をくぐる。
「ミリアを助けるためか」
「いいえ」
セラフィナは首を横に振った。
「証言できる状態で保護するためです」
レオンハルトは、しばらくセラフィナを見た。
「一人にはしない」
「はい」
「半歩横だ」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
けれど、それを表情には出さず、セラフィナは頷いた。
「お願いします」
黒い封書は、開かれないまま封印室へ残された。
相手が用意した順番には従わない。
まず、生きている証人を守る。
それから、消されかけた文書を取り戻す。
ロウエル家の鉄門へ向かう馬車の中で、セラフィナは包帯の巻かれた手を見つめた。
もう、あの家の言葉に従うためには戻らない。
今度は、自分の名で封を開くために行くのだ。




