第38話 封蝋読みの審問
翌朝、王宮高等審問院の空は、雨上がりの青をしていた。
濡れた石畳に朝日が反射し、白い柱がまぶしく光っている。
けれど、その美しさとは裏腹に、建物の中の空気は冷たかった。
王宮高等審問院。
貴族間の重大紛争、王宮機関の不正、家門相続に関わる疑義を扱う場所。
本来なら、下級貴族令嬢である私が立つような場ではない。
ましてや、婚約破棄された翌々日に、職能乱用疑義で呼び出される場所では。
私は銀灰色のドレスの袖口をそっと整えた。
昨日のドレスは雨と泥で汚れてしまったため、マーサさんが別の衣装を用意してくれた。
色は同じ銀灰色。
ただし今日は、昨日より少し濃い。
朝の光の下では柔らかく見えるが、審問院の白い石壁の中では、冷静さを示す色になる。
胸元には小さな蔦と小鳥の飾り。
腰には文書用の薄い鞄。
手には、包帯の上から特別に仕立てられた白手袋。
指先はまだ痛む。
封蝋読みは今日はできるだけしない。
昨夜、何度も約束させられた。
マーサさんに。
オルデン様に。
そして、レオン様に。
「顔色は」
隣から低い声がした。
レオン様だ。
黒い礼装に、白銀の狼の胸飾り。
顔色は完全ではない。
けれど昨日よりずっと整っている。
薬湯を飲み、少し眠ったのだろう。
目元に疲れはあるが、立つ姿は揺らがない。
「問題ありません」
「無効」
「まだ何もしていません」
「昨日からの積み重ねだ」
「では、少し冷えています」
「正直でよろしい」
そう言って、レオン様は自分の外套を私へかけようとした。
「ここでですか」
「寒いのだろう」
「審問院の前で公爵様の外套を着ると、目立ちます」
「すでに目立っている」
その通りだった。
周囲の視線が集まっている。
王宮文官。
貴族の代理人。
審問院の書記官。
誰もがこちらを見ている。
婚約破棄された下級令嬢。
呪われ公爵の正式婚約者。
封蝋読み。
王宮文書局を揺るがす事件の中心。
噂は一夜で王宮中を駆け巡ったのだろう。
私は外套を断るのを諦めた。
レオン様の外套が肩にかかる。
温かい。
悔しいほどに。
「ありがとうございます」
「ああ」
「でも、審問中はお返しします」
「冷えたら戻す」
「審問中に?」
「必要なら」
「目立ちます」
「先ほど言った」
すでに目立っている。
たしかに。
少しだけ笑いそうになったが、すぐに扉が開いた。
審問院の係官が現れる。
「ヴァイス公爵レオンハルト様。セラフィナ・ロウエル様。ご入室ください」
私の名に、ロウエルがつく。
まだ法的にはそうだ。
けれど、その名はもう、私を縛る鎖ではない。
私は一歩踏み出した。
レオン様が半歩横に並ぶ。
後ろにはオルデン様。
文箱を持つ護衛。
クラリッサ夫人。
セルジオ司祭。
そして、別馬車で来たエリシア様とノアさん、リックさんは、審問院の控え室で待機している。
エリシア様の体調を考え、最初から場に出すわけにはいかなかった。
けれど、必要なら証言する。
昨夜、彼女は弱い身体でそう言った。
ノアさんも、リックさんも。
怖いはずなのに。
それでも、消されかけた名前を取り戻すために、ここへ来てくれた。
だから、私は逃げない。
審問室は広かった。
中央に証言台。
奥に三人の審問官。
左右に記録官と立会人席。
傍聴は制限されているが、それでも王宮関係者や貴族代理人が何人もいる。
視線が刺さる。
その中に、ヴィクトル・グレンがいた。
王宮文書局長代理。
硬い顔で座っている。
その隣にはイザーク・メルヴィン。
青い文官服、細い銀の指輪。
さらに少し離れた席に、オスカー・ヴァイス。
灰青色の瞳は穏やかに見える。
だが、昨日の雨の丘陵道で見た冷たい本性を、もう私は知っている。
そして後方には、エリアス様がいた。
青ざめた顔で、手元の証言書を握っている。
父から離された席。
それだけで、彼の立場が変わりつつあることが分かる。
審問長が木槌を鳴らした。
「これより、王宮高等審問院臨時審問を開く」
低い声が響く。
「本件は、王宮文書局より提出された訴えに基づく。対象は、セラフィナ・ロウエルの職能乱用疑義、およびヴァイス公爵家による王宮文書局保管文書への不当干渉疑義である」
私の名が響く。
昨日までなら、その言葉だけで足がすくんだかもしれない。
でも今は違う。
隣にレオン様がいる。
後ろに記録がある。
そして、消されかけた人たちの声がある。
「王宮文書局側、申し立てを」
ヴィクトル・グレンが立ち上がった。
背筋を伸ばし、いかにも公正な文官の顔をしている。
「王宮文書局長代理ヴィクトル・グレンでございます」
彼は礼をし、静かに話し始めた。
「昨日、ヴァイス公爵家一行は第七封庫において、保管文書の確認を行いました。その際、セラフィナ・ロウエル嬢は、正式許可なき職能行使により封庫内文書へ干渉し、未確認の紙片を根拠に王宮文書局、教会関係者、商会、および貴族家門に重大な疑義を向けました」
未確認の紙片。
職能乱用。
そう来るのは分かっていた。
「さらに、その後、ヴァイス公爵家は白鹿修道院関係者を強引に連れ去り、王宮文書局の確認を経ずに証拠と称する文書を持ち出しております」
強引に連れ去り。
エリシア様を救出したことを、そう呼ぶのか。
私は手袋の中で指先を少し握った。
痛い。
でも、その痛みがかえって私を冷静にした。
「本件は、婚約破棄直後の令嬢が、私怨により特殊職能を乱用し、ヴァイス公爵家の相続争いに干渉した疑いが強いものです」
来た。
私怨。
婚約破棄。
相続争い。
予想通りの筋書き。
ヴィクトルは私を見た。
その目には、昨日扉の外で聞いた怒りがある。
「王宮文書局としては、セラフィナ・ロウエル嬢の職能行使記録、精神状態、およびヴァイス公爵家との急な婚約契約の有効性について、厳正な審問を求めます」
審問室がざわついた。
急な婚約契約。
そこも突いてくる。
レオン様の気配が冷える。
だが、彼はまだ口を開かない。
審問長が私へ視線を向けた。
「セラフィナ・ロウエル。申し立て内容を聞いたか」
「はい」
「職能乱用疑義について、まず弁明するか」
私は一歩前へ出た。
証言台の前に立つ。
心臓は速い。
けれど、声は震えなかった。
「弁明の前に、提出すべき告発状がございます」
審問長の眉が動いた。
「告発状?」
「はい。ヴァイス公爵家、教会監査、王宮礼法顧問の三方向より、同時提出いたします」
ヴィクトルの顔がわずかに歪む。
オルデン様が文箱を開いた。
三つの封書が取り出される。
白銀の狼。
聖杯印。
百合と秤。
審問室の空気が変わった。
クラリッサ夫人が立ち上がる。
「王宮礼法顧問クラリッサ・フォン・ルヴェールです。昨日の第七封庫立会い、ならびに白鹿修道院道中での手続き妨害について、正式記録を提出いたします」
セルジオ司祭も立ち上がる。
「教会監査司祭セルジオです。孤児院死亡者名義受領、施療院薬剤希釈、エリシア・ヴァイス死亡記録偽造疑義、白鹿修道院北棟管理費および監禁疑義について、緊急監査報告を提出いたします」
最後に、レオン様が静かに立った。
「ヴァイス公爵家当主レオンハルト・ヴァイスとして、王宮文書局長代理ヴィクトル・グレン、補佐官イザーク・メルヴィン、オスカー・ヴァイス、クラウス商会、ベルナール・ダレス司祭らに対し、相続妨害、文書偽造、証人殺害未遂、死亡記録偽造、領地支援金横領、監禁および薬物投与疑義で正式告発を行う」
審問室が大きくざわめいた。
審問長が木槌を鳴らす。
「静粛に」
ヴィクトルがすぐに声を上げた。
「本件審問はセラフィナ・ロウエル嬢の職能乱用に関するものです。別件の告発を持ち込むのは」
「別件ではありません」
私は言った。
審問長が私を見る。
「続けよ」
「私の職能乱用疑義は、昨日の確認記録に基づいています。その昨日の確認で発見された文書、証言、物証が、今提出した告発状の根拠です」
私はヴィクトルの方を見ず、審問官へ向けて話した。
「つまり、私の職能行使が乱用だったかどうかを判断するには、その行使により発見された事実が虚偽であったのか、または物理証拠によって裏付けられたのかを確認する必要があります」
クラリッサ夫人が小さく頷く。
審問長の目が細くなった。
「その主張は認める。提出物を確認する」
書記官たちが三つの封書を受け取り、審問官へ回す。
封が切られる。
紙の音だけが審問室に響いた。
まず読まれたのは、ヴァイス公爵家の告発状だった。
孤児院への支援金未着。
死者名義受領。
施療院薬剤希釈。
リックさんの拉致と黒い帳簿。
ノアさんへの襲撃未遂。
エリシア様の死亡記録偽造疑義。
相続調査制限契約。
そして、白鹿修道院からの救出。
順番は昨夜整えた通り。
相続争いからではない。
被害から始まる。
パンが届かなかった子どもたち。
薄められた薬を飲まされた患者たち。
死者名義で奪われた物資。
そこから、記録偽造へ。
そして最後に、相続妨害へ。
審問官たちの顔が、読み進めるほど険しくなっていく。
ヴィクトルは黙っている。
オスカーも黙っている。
イザークは指輪を触っていた。
「証拠目録にある黒い帳簿は」
審問官の一人が問う。
オルデン様が答える。
「原本はヴァイス公爵家保全箱にございます。本日は写し三部、およびリック本人の証言を提出可能です」
「リックとは、逃亡した帳簿係か」
「逃亡ではありません。拉致されておりました」
リックさんが呼ばれた。
彼はまだ怪我をしている。
腕に包帯を巻き、顔色も良くない。
けれど、証言台に立った。
「リック。証言できるか」
審問長が問う。
「はい」
リックさんは緊張した顔で、しかしはっきり話し始めた。
黒い帳簿を見つけたこと。
クラウス商会の馬車に連れ去られたこと。
薬を使われそうになったこと。
逃げ出し、帳簿を持って屋敷へ戻ったこと。
屋敷裏門でノアさんを連れ去ろうとする者たちと遭遇したこと。
「帳簿の内容は」
「孤児院と施療院への支援金の流れです。死者名義で受領され、クラウス商会、教会のベルナール司祭、王宮文書局関係者へ分配されていました」
「王宮文書局関係者とは」
リックさんは一瞬だけ息を呑んだ。
それでも言った。
「イザーク・メルヴィン様。ヴィクトル・グレン様の名に繋がる手数料記録があります」
審問室がざわめく。
イザークが立ち上がった。
「帳簿係の証言だけで」
「座りなさい」
審問長が言った。
「後で発言を認める」
イザークは唇を噛み、座った。
次に、屋敷襲撃未遂の偽命令書と薬瓶片が提出された。
マーサさんの針と糸車の仮封。
ヴァイス家保全封。
教会監査封。
封じられた証拠箱が開かれ、記録官が確認していく。
「王宮文書局名義の緊急移送命令。対象者ノア。引渡先、王宮文書局長代理室。署名、ヴィクトル・グレン」
審問長の視線がヴィクトルへ向いた。
ヴィクトルは静かに言った。
「偽造です」
「ならば、王宮文書局長代理の名を騙った偽命令書が、証人を連れ去るために用いられたということになる」
審問長の声は冷たい。
「いずれにせよ重大だ」
ヴィクトルは答えなかった。
次に、黒紫の薬瓶片。
施療院で見つかった薬瓶との照合記録。
そして、事故死命令控え。
クラウス商会印。
王宮文書局確認印。
オスカー様の私印。
オスカーが初めて口を開いた。
「私印は偽造だ」
その声は穏やかだった。
だが、昨日より少しだけ硬い。
審問長が問う。
「オスカー・ヴァイス。あなたは公式には死亡記録がある」
「事情があった」
「では、まずあなたの生存記録そのものが問題となる」
オスカーの目が細くなった。
「私は本件の被告ではないはずだ」
「提出告発状に名がある。さらに、あなたの私印とされるものが証拠に含まれている」
審問長は静かに告げた。
「この場での発言は記録される」
オスカーは黙った。
その沈黙を破ったのは、セルジオ司祭だった。
「教会監査報告を補足します」
彼は立ち上がり、教会記録を示した。
「エリシア・ヴァイス様の死亡記録について、白鹿修道院関連記録と照合したところ、死亡年月と同時期に、別名義の長期静養登録が作成されています」
審問室が再びざわつく。
「別名義とは」
「エレナ・ヴェール。頭文字はE.V.。白鹿修道院北棟に、長期管理対象として記録されています」
E.V.
エリシア・ヴァイス。
私は息を整えた。
ここからだ。
「さらに、三か月前まで北棟管理費が支払われていました。支払経路はクラウス商会。備考欄に、王宮文書局確認済みの印があります」
審問官の一人が低く言った。
「死亡記録がある者に、静養管理費が支払われ続けていた、と」
「はい」
「本人は」
セルジオ司祭はレオン様を見た。
レオン様が頷く。
「証言可能です。ただし、体調に配慮を」
審問長はしばらく考え、頷いた。
「エリシア・ヴァイスを入廷させよ」
扉が開いた。
審問室の空気が、はっきり変わった。
担架ではなく、椅子に座った状態で、エリシア様が運ばれてくる。
薄い白の外套。
痩せた顔。
けれど、灰青色の瞳はまっすぐ前を見ていた。
その後ろにはノアさん。
リックさんがそっと支えている。
エリシア様が入った瞬間、オスカーの顔が変わった。
初めて。
本当に初めて、彼の仮面が剥がれた。
「エリシア」
低い声。
怒りか、驚きか、恐怖か。
どれにも聞こえた。
エリシア様は、ゆっくりオスカーを見た。
「久しぶりね、オスカー兄様」
審問室に衝撃が走った。
死んだはずのエリシア・ヴァイス。
彼女が、オスカーを兄と呼んだ。
つまり、本物だ。
審問長も息を呑んだように見えた。
「あなたは、エリシア・ヴァイス本人か」
「はい」
エリシア様の声は弱い。
それでも、はっきりしていた。
「私はエリシア・ヴァイス。先代公爵アルベルト・ヴァイスの妹です。二十年前に病死したことにされましたが、生きています」
記録官の筆が走る音が響く。
「誰により、死亡記録を偽造されたか分かるか」
エリシア様は少し目を伏せた。
ノアさんが彼女の手を握る。
彼女はその温かさを確かめるように、握り返した。
「オスカー兄様。ヴィクトル・グレン。ベルナール・ダレス司祭。少なくとも、この三名は関与していました」
ヴィクトルが立ち上がりかけた。
「虚偽だ!」
審問長が木槌を鳴らす。
「静粛に」
エリシア様は続けた。
「私は、子を産みました。名はノア。正式には、ノア・エリシア・ヴァイス」
ノアさんの肩が震える。
審問室中の視線が彼へ向かった。
少年は怯えたが、逃げなかった。
リックさんがそっと背中に手を添える。
「その子を奪われました。私は病死したことにされ、白鹿修道院の地下と北棟に閉じ込められました。手紙は検閲され、名は変えられ、薬で眠らされることもありました」
声は弱い。
でも、一言ずつ、確かに落ちる。
紙に。
記録に。
歴史に。
「昨日、セラフィナ・ロウエル様とレオンハルトが、私を救い出してくれました」
エリシア様は私を見た。
「セラフィナ様は、私が残した逃がし封を開いてくださいました。扉の罠を避けて」
審問長が私へ視線を向ける。
「逃がし封とは」
私は一歩前へ出た。
「黒馬車の後部扉には、黒紫の封による開封反応がありました。直接開ければ、中のエリシア様へ薬または拘束反応が向かう仕掛けです」
「それを確認するために職能を使ったのか」
「はい。ただし、開封の前にエリシア様本人が床下の逃がし封を示しました。私はその封を読み、床下の脱出口を開けました」
ヴィクトルがすぐに言う。
「それこそ職能乱用です。許可なき封蝋読み」
「人命救助です」
私は答えた。
「扉を開ければエリシア様に危害が及ぶ可能性がありました。現場にはセルジオ司祭、クラリッサ夫人、ヴァイス公爵家護衛が立ち会っています」
クラリッサ夫人が立った。
「証言します。あの場で扉を開けていれば、エリシア様への危険がありました。セラフィナ嬢の判断により床下の逃がし封が開かれ、救出に成功しました」
セルジオ司祭も続く。
「私も証言します。救出後、エリシア様には薬物投与の痕跡がありました。黒馬車から薬瓶も保全されています。職能行使は人命保護の範囲と判断します」
審問官たちは互いに顔を見合わせた。
ヴィクトルの主張が、少しずつ薄くなっていく。
私怨。
乱用。
不当干渉。
それに対して、こちらは人命、証拠、立会い、保全記録。
言葉ではなく、積み上げたものがある。
審問長が言った。
「セラフィナ・ロウエル。昨日の第七封庫での職能行使について説明せよ」
「はい」
私は深く息を吸った。
ここが本題だ。
「第七封庫では、当初イザーク・メルヴィン様より、文書に触れることを禁じられました。そのため私は、触れずに棚札、埃、封蝋の亀裂、箱底の移動痕、台帳の差し替え跡を確認しました」
「それは職能か」
「一部は観察です。一部は封蝋読みの感応です」
「許可は」
「王宮保管封の確認立会いとして入室許可を得ており、私の職能は先代公爵の指定に基づきます。また、職能行使禁止について明確な法的根拠は提示されませんでした」
クラリッサ夫人が補足する。
「記録上、セラフィナ嬢は第七封庫入室時、文書確認立会人でした。花嫁候補審査は入室資格を妨げるものではなく、職能行使禁止の根拠も提示されていません」
審問官が頷く。
「続けよ」
「第七封庫内で、相続調査制限契約が確認されました。対象者はレオンハルト・ヴァイス様。発動条件は、先代公爵遺言、エリシア・ヴァイス様に関する出生登録、孤児院名簿、王宮保管封の改変疑義へ接近した場合、身体拘束反応を発生させること」
審問室がざわめく。
「対象者本人の署名はありませんでした」
私は続けた。
「本人の同意なき契約です」
レオン様が隣で静かに立っている。
審問長が彼へ問う。
「ヴァイス公爵。あなたはその契約に同意したか」
「していない」
「署名、封蝋を押した覚えは」
「ない」
「契約反応は実際にあったか」
「あった。真実に近づくたび、身体が拘束されるような発作が起きた」
レオン様の声は低い。
怒りを抑えている。
「昨日も、第七封庫内で発動した」
審問官の顔が険しくなる。
次に、削られた署名欄。
ヴィクトル・グレン。
オスカー・ヴァイス。
それが読み取られたことを説明する。
ヴィクトルは当然反論した。
「封蝋読みの主観に過ぎません」
「物理鑑定を求めます」
私は即座に答えた。
「封蝋粉、筆圧痕、インク溝、削り跡は保全済みです。王宮文書局単独ではなく、審問院指定の独立鑑定を求めます」
審問長が頷く。
「認める。契約原本は審問院保全とする」
イザークの顔色が変わった。
王宮文書局単独では触れなくなる。
それだけで大きい。
さらに、橋の封鎖札。
白鹿修道院へ向かう道を止めた不備ある命令書。
青い封の下に黒紫の粉が混じっていたこと。
それを形式上無効として通行したこと。
クラリッサ夫人が立会い記録を示す。
「封鎖命令には橋梁管理官印、土木庁添え印、対岸封鎖確認、教会通知、緊急通行例外の記載がありませんでした」
審問官の一人が言った。
「老朽化点検としては不備が多い」
「はい。さらに封鎖は片側のみで、ヴァイス公爵家および教会監査の通行を妨げる形になっていました」
ヴィクトルは沈黙した。
沈黙ばかりだ。
彼の用意した筋書きは、もう崩れ始めている。
その時、審問長がエリアス様の方を見た。
「エリアス・グレン。あなたの証言書が提出されている」
エリアス様がびくりと肩を震わせた。
「はい」
「口頭で証言できるか」
彼は顔を青ざめさせたまま、立ち上がった。
父であるヴィクトルが、鋭い視線を向ける。
けれど、エリアス様はそちらを見なかった。
「できます」
彼は証言台に立つ。
かつて夜会場で私を見下ろしていた人。
今は、審問院の前で震えている。
「父ヴィクトル・グレンより、私はセラフィナ・ロウエルを婚約関係から切り離し、職能行使を封じる内容の確認書に署名させるよう命じられました」
声は震えている。
でも、言葉は出た。
「また、クラウス商会の慈善活動に後援者として名を貸しました。支援活動だと説明されていましたが、実際の資金の流れは知りませんでした」
ヴィクトルが低く言う。
「エリアス、よく考えて話せ」
審問長が木槌を鳴らす。
「証人への威圧を禁ずる」
エリアス様は目を閉じ、続けた。
「ミリア・ロウエルから、封蝋を温め直す方法について相談されました。私は王宮文書局で使われる封蝋温め器の話をしました」
私の胸が少しだけ痛んだ。
でも、もう揺れない。
「ロウエル家から提出されたセラフィナの精神状態に関する照会文と同じ文面を、父の書斎で見ました。父は、『紙くず令嬢の言葉は先に狂言として潰せ』と言っていました」
審問室がざわついた。
紙くず令嬢。
その言葉が公の記録に残る。
恥ずかしくないと言えば嘘になる。
でも、同時に思った。
残ればいい。
彼らがどう私を扱ったか。
それが記録に残ればいい。
レオン様の気配が冷える。
私はそっと目だけで彼を見る。
彼は私を見て、ほんの少しだけ頷いた。
大丈夫か、と。
私は頷き返した。
大丈夫。
今度は、本当に。
エリアス様の証言が終わると、ヴィクトルは立ち上がった。
「息子は混乱しております。婚約破棄の件で、セラフィナ嬢への負い目もある。証言の信用性は低い」
「負い目を生じさせたのは、誰の指示ですか」
私が静かに問うと、ヴィクトルは私を睨んだ。
「あなたに発言権は」
「あります」
審問長が言った。
ヴィクトルの顔が歪む。
審問長は私を見た。
「セラフィナ・ロウエル。問いたいことがあるなら、簡潔に」
「ありがとうございます」
私はエリアス様へ向き直った。
「エリアス様。あなたは、私への謝罪のために虚偽証言をしていますか」
「していない」
「私に許されたいから、父君を陥れていますか」
彼の顔が歪む。
「違う」
「では、なぜ証言するのですか」
エリアス様は、唇を震わせた。
しばらく言葉が出ない。
それでも、彼は言った。
「……自分が、何に名を貸したのか、分かったからです」
静かだった。
「知らなかったでは済まないと思ったからです」
私は頷いた。
「以上です」
許したわけではない。
でも、その証言は記録に必要だった。
ヴィクトルはもう、息子の証言を簡単には消せない。
審問長が重い声で言った。
「本審問の当初目的は、セラフィナ・ロウエルの職能乱用疑義であった」
室内が静まる。
「しかし、提出された証拠、証言、および三機関の記録により、本件は王宮文書局、教会記録、ヴァイス公爵家相続、商会横領を含む重大複合事件である可能性が高い」
ヴィクトルの顔が強張る。
イザークは目を伏せる。
オスカーは無表情。
「現時点で、セラフィナ・ロウエルの職能行使を乱用と断じることはできない。むしろ、人命救助および文書不正発見に寄与した可能性がある」
胸の奥から、静かに息が抜けた。
まだ完全な勝利ではない。
でも、少なくともこの場で断罪されることは避けられた。
審問長は続ける。
「相続調査制限契約原本、黒い帳簿写し、白鹿修道院記録、偽命令書、薬瓶片、黒馬車関連証拠は、審問院保全とする」
木槌が鳴る。
「王宮文書局による単独保管、再封、改変を禁ずる」
イザークの指が震えた。
「ヴィクトル・グレン、イザーク・メルヴィンは、審問院の許可なく本件関連文書へ接触することを禁ずる」
ヴィクトルが叫ぶ。
「審問長、それは」
「さらに、オスカー・ヴァイス」
審問長の視線が移る。
「あなたは死亡記録と生存事実に重大な矛盾があり、エリシア・ヴァイスの証言、私印付き命令控え、黒い帳簿に名がある。審問院の管理下に置く」
オスカーはゆっくり立ち上がった。
「私を拘束するのか」
「任意滞在を命じる。拒否する場合、拘束に切り替える」
オスカーはしばらく審問長を見ていた。
そして、薄く笑った。
「なるほど。兄の紙切れに、王宮がここまで踊らされるとは」
その瞬間、エリシア様が静かに言った。
「兄様の紙だけではないわ」
オスカーが彼女を見る。
エリシア様は弱い身体で、それでも顔を上げていた。
「私が生きている。ノアも生きている。リックも、ミーナも、生きている」
彼女の声は震えていた。
けれど、まっすぐだった。
「あなたが消そうとした人たちは、紙ではないわ」
審問室が静まり返った。
オスカーの顔から、笑みが消えた。
エリシア様は続けた。
「私たちは、生きてここにいる」
その言葉は、何より強かった。
封蝋より。
契約より。
帳簿より。
生きている人の声。
それが、死者の名で嘘を重ねてきた者たちを突き刺した。
審問長が木槌を鳴らした。
「本日の審問はここまでとする。以後、本件は高等審問院主導の正式調査に移行する」
またざわめきが起きる。
「セラフィナ・ロウエルへの職能乱用疑義については、調査継続。ただし、現時点で身柄拘束、職能停止、またはヴァイス公爵家からの引き離しは認めない」
レオン様の肩の力が、ほんの少し抜けたのが分かった。
「ノア・エリシア・ヴァイスおよびエリシア・ヴァイスは、証人保護対象とする。ヴァイス公爵家保護下に置き、審問院の許可なき接触を禁ずる」
ノアさんがエリシア様の手をぎゅっと握った。
「以上」
木槌が、強く鳴った。
審問は終わった。
私を裁くために始まった場は、敵の証拠を公的保全へ移す場になった。
扉が開く。
人々が動き出す。
ヴィクトルは硬い顔で立ち去ろうとしたが、審問院の係官に止められた。
イザークも同じ。
オスカーはまだこちらを見ていた。
その目は、ひどく冷たい。
追い詰めた。
でも、終わっていない。
むしろ、これから本気で反撃してくる。
そう感じた。
レオン様が私の横へ来る。
「立てるか」
「はい」
「無効」
「本当に立てます」
「審問中、指先を二度握っていた」
「見ていたのですか」
「見ていた」
「……少し痛いだけです」
「なら外套だ」
「またですか」
「まただ」
外套が肩にかかる。
今度は、誰の目があっても断らなかった。
温かかったから。
そして、もう恥ずかしさより安心の方が勝っていたから。
「セラフィナ」
背後から声がした。
振り返ると、エリアス様が立っていた。
青ざめた顔。
でも、昨日より少しだけ目が定まっている。
「証言、ありがとうございました」
私は先に言った。
彼は苦しげに顔を歪めた。
「礼を言われることじゃない。私は……」
「謝罪は、まだ受け取りません」
彼は言葉を止めた。
「これからも証言が必要になります。すべて終わってから、聞きます」
「……分かった」
彼は小さく頷いた。
その横を、係官に囲まれたヴィクトルが通る。
エリアス様は父を見た。
ヴィクトルも彼を見た。
父子の間にあるものは、もう以前とは違っていた。
信頼ではない。
支配でも、完全ではない。
亀裂だ。
その亀裂も、記録の一部になる。
審問院の外へ出ると、朝の光はさらに強くなっていた。
雨上がりの空。
石畳に白い雲が映っている。
ノアさんがエリシア様の椅子の横に立ち、ずっと手を握っている。
リックさんがその後ろで見守る。
ミーナさんは屋敷で待っている。
マーサさんも、きっと帰ったら薬湯を持って仁王立ちしている。
私はその光景を見て、少しだけ息をついた。
「勝ちましたか」
思わず呟くと、レオン様が横で答えた。
「一つは」
「一つ」
「ああ。だが、大きい一つだ」
たしかに。
今日、私は断罪されなかった。
証拠は保全された。
エリシア様とノアさんは証人保護対象になった。
王宮文書局の単独介入は止められた。
これは大きい。
でも、まだロウエル家が残っている。
クラウス商会が残っている。
ベルナール司祭も。
そして何より、オスカー様。
彼は、ただ拘束されるような人ではない。
きっと次の手を残している。
その予感は、すぐに現実になった。
王宮高等審問院の階段を降りたところで、ヴァイス家の護衛が駆け込んできた。
息を切らし、顔色を変えている。
「旦那様!」
「何だ」
「クラウス商会の本店が、今朝未明に火災を起こしました」
全員の足が止まる。
「火災?」
「はい。帳簿庫が焼け、商会主マルコ・クラウスは行方不明です」
証拠隠滅。
逃亡。
予想していたはずなのに、胸が冷える。
護衛はさらに続けた。
「そして、焼け跡から一枚の封書が見つかりました。宛名はセラフィナ様です」
私の名。
レオン様の顔が険しくなる。
「誰からだ」
護衛は震える手で封書を差し出した。
封蝋は黒。
麦と天秤ではない。
折れた剣を添えた狼。
オスカー様の私印。
封書の表には、細い筆跡でこう書かれていた。
――封蝋読みの令嬢へ。
――次に読む封は、君の家のものだ。
ロウエル家。
胸の奥が、静かに冷えた。
父。
ミリア。
偽造遺言書。
私を狂言にしようとした照会文。
そして、まだ開いていない封。
オスカー様の反撃は、もう始まっていた。




