第50話 契約ではない言葉を
契約婚約が終わった翌朝、セラフィナはいつもより早く目を覚ました。
窓の外には、淡い朝日が差している。
雨でもない。
追っ手もいない。
急いで開かなければならない封もない。
それなのに、胸の内だけが落ち着かなかった。
寝台脇の小卓には、昨夜マーサが置いていった蜂蜜湯と、一枚の紙がある。
紙には、整った文字で短く記されていた。
――本日の予定。
一、朝食を取ること。
二、薬湯を残さないこと。
三、荷造りを勝手に始めないこと。
四、旦那様と話すこと。
「最後だけ、予定ではありませんよね……」
思わず呟く。
紙の下には、針と糸車の小さな印。
マーサの封だった。
命令書ではない。
けれど、逆らえる気もしない。
セラフィナは蜂蜜湯を飲み、薬湯も顔をしかめながら飲み切った。
それから白手袋をつける。
指先の赤い封蝋痕は、かなり薄くなっていた。
完全に消えるには、もう少しかかるだろう。
叔父の小屋敷へ移った後は、しばらく大きな封を読まず、書類整理と鑑定補助だけに留める。
そう予定を立てていた。
予定。
これからの暮らし。
自分で選んだ仕事。
すべて整っている。
なのに、部屋の中にはまだ開けられていない箱が一つ残っているような感覚があった。
それが何かは、分かっている。
レオンハルトとのことだ。
契約婚約は終わった。
正しい手続きで。
双方の合意で。
署名と封を残して。
だから、もう公爵邸にいる理由はない。
文書監査人として働くなら、別の雇用契約を結べばいい。
それで十分なはずだった。
扉が叩かれた。
「セラフィナ様。お目覚めでございますか」
「はい」
マーサが入ってくる。
彼女は室内を見回し、荷物がまとめられていないことを確認すると、満足そうに頷いた。
「三つ目まではお守りいただけたようですね」
「四つ目は、相手がいなければ実行できません」
「旦那様なら、夜明け前から起きておられます」
「眠られたのですか」
「三時間ほど」
「足りません」
「セラフィナ様に言われたくはないと申しておりました」
先に言われてしまった。
「どちらにいらっしゃいますか」
「西庭でございます」
「執務室ではなく?」
「はい」
珍しい。
西庭は、先代公爵が好んだ庭だ。
冬の間は花が少ないが、古い温室と小さな池がある。
「一人で?」
「オルデン様が途中までご一緒でしたが、今はお一人でございます」
話してこい、ということなのだろう。
マーサは何も強制しなかった。
ただ、外套を差し出した。
「今日は冷えます」
「ありがとうございます」
「旦那様の外套ではございませんので、ご安心ください」
「何を心配しているのですか」
「さあ」
マーサは涼しい顔で退室した。
セラフィナは外套を羽織り、西庭へ向かった。
廊下を歩く間、使用人たちがいつも通り頭を下げる。
婚約契約が終わったことは、すでに屋敷内へ伝わっているはずだ。
それでも、誰も態度を変えなかった。
文書監査人として。
エリシアとノアを救った者として。
あるいは、ただセラフィナとして。
ここへいてよいと認められているように感じた。
西庭へ出る。
朝の空気は冷たい。
芝には薄く霜が降り、池の表面が銀色に光っている。
レオンハルトは、温室前の石卓に立っていた。
黒い上着。
手には、一冊の薄い書類綴り。
こちらに気づき、顔を上げる。
「起きたか」
「はい」
「体調は」
「問題ありません」
彼はしばらく顔色を確認した。
「有効だな」
「ありがとうございます」
昨日までなら、婚約者として当然のように気遣われていた。
今は違う。
それでも彼は、同じように尋ねた。
「レオン様は、三時間しか眠っていないと聞きました」
「マーサか」
「はい」
「余計なことを」
「紙は、余計なことを覚えていますから」
「マーサは紙ではない」
「紙より詳しく覚えています」
レオンハルトの口元が、少しだけ緩む。
その表情を見て、胸の緊張がわずかにほどけた。
石卓の上には、二つの封書が置かれていた。
一つは高等審問院から。
もう一つは王宮から。
「正式裁定が届いた」
レオンハルトが告げる。
「もうですか」
「主要証拠が揃っている。逃亡や証拠隠滅の危険がある者について、先に処分が決まった」
セラフィナは石卓の前へ進んだ。
高等審問院の裁定書には、関係者ごとの処分が記されている。
オスカー・ヴァイス。
相続妨害、監禁、殺人指示、密輸、横領、不法契約、王宮および教会記録偽造、証拠隠滅未遂。
爵位継承権の永久剥奪。
全財産の差し押さえ。
終身拘禁。
ユリウス・フェルン殺害については、実行者の追跡と共に刑事審問が継続される。
ヴィクトル・グレン。
王宮文書局長代理職の罷免。
爵位特権停止。
出生・死亡記録偽造、信用毀損工作、相続妨害、不法契約承認について正式起訴。
イザーク・メルヴィン。
公職剥奪。
契約偽造および記録改変の実行責任。
マルコ・クラウス。
商会認可取消。
全関連倉庫の封鎖。
横領財産は被害を受けた孤児院、施療院、ヴァイス公爵領へ返還。
ベルナール司祭。
聖職停止。
教会大監査院で審問。
死者名義を利用した受領記録と、エリシアの偽死亡記録への責任を問われる。
「グレゴール・ロウエルは」
セラフィナは父の名前を探した。
「当主権限の一時停止」
レオンハルトが答える。
「叔父君の遺産隠匿、信用毀損文書への署名、証拠焼却未遂について審問を受ける。ロウエル家財産のうち、叔父君の遺産分はすべて君へ返還される」
「男爵位は」
「現時点では保留だ。直接関与の範囲によって決まる」
父は、すべてを失ったわけではない。
だが、何もなかったことにはできない。
ミリアについては、解毒後の証言が記されていた。
封蝋温め器を使ったこと。
叔父の遺言書を差し替えたこと。
セラフィナを偽造犯に仕立てる言葉を、ヴィクトル側から渡されたこと。
自分の意思で嫉妬と欲に従ったこと。
その後、口封じのために薬を飲まされたこと。
双方が分けて記録されている。
「ミリアは、身分を利用した文書偽造への加担で有罪となる見込みです」
「はい」
「ただし、自ら証言し、薬物投与事件の捜査へ協力した点は考慮される」
「それでよいと思います」
許したわけではない。
それでも、したことより重く罰せられることを望んでいるわけでもない。
「エリアス・グレンは、王宮文書局への就任資格を失った」
レオンハルトが続ける。
「クラウス商会への名義貸しと信用毀損への加担について、罰金と一定期間の公職禁止。父親に対する証言協力は考慮された」
「そうですか」
「謝罪したいと、書面を預かっている」
レオンハルトが一通の封書を示す。
エリアスの印。
以前なら、見るだけで胸がざわついただろう。
今は、不思議なほど静かだった。
「後で読みます」
「今でなくていいのか」
「はい」
謝罪を急いで受け取る必要はない。
受け取らない選択もある。
読んでから決めればいい。
「エリシア叔母上とノアについても、王宮の裁定が出た」
レオンハルトが二つ目の書類を開く。
エリシア・ヴァイスの死亡記録は取り消し。
ユリウス・フェルンとの婚姻が正式に回復。
ノア・エリシア・フェルンの出生登録も、原本通りに訂正される。
ただし、エリシア本人の希望により、公爵家の相続権は主張しない。
ノアも同じ。
証人保護が終了した後は、ヴァイス公爵領内で自由に暮らせる。
「ノアさんの名前が戻ったのですね」
「ああ」
「ユリウス様の名も」
「ああ」
死者の名も。
生きている者の名も。
ようやく、正しい場所へ戻った。
「リックさんは」
「北方港の会計監査官補佐として働きたいそうだ」
「腕が治ってからですね」
「本人にもそう言った。非常に不満そうだった」
「ノアさんのお兄さんですから」
「似た者が多いな」
誰のことかは聞かなかった。
おそらく、自分たちも含まれている。
レオンハルトは最後の書類綴りを石卓へ置いた。
「領民への返還計画だ」
クラウス商会とオスカーの差し押さえ財産。
回収された港湾税。
横領された鉱山収益。
それらを使い、孤児院と施療院へ不足分を返す。
薄められた薬を受け取った者へ治療費を支給する。
死亡者名義を使われた家族へ正式な謝罪と記録訂正を行う。
北方港の労働者へ未払い賃金を払う。
「すべてを返すには時間がかかる」
レオンハルトが言う。
「ですが、始められます」
「ああ」
「これからが、公爵として一番大変かもしれません」
「分かっている」
「文書も増えます」
「それも分かっている」
「監査人が必要ですね」
自分で言ってから、少しだけ緊張した。
レオンハルトはすぐには答えなかった。
「雇用契約を結ぶつもりか」
「必要であれば」
「必要だ」
「では」
「だが、その前に話すことがある」
レオンハルトは書類綴りを閉じた。
朝の風が庭を抜ける。
温室のガラスが、かすかに鳴った。
「昨日、契約を終わらせた」
「はい」
「君は、終わらせるべきだと言った」
「はい」
「私は、終わらせたいかと聞いた」
答えられなかった問い。
「今も、分からないか」
逃げることはできた。
仕事の話へ戻すことも。
けれど、契約はもうない。
何を言っても、誰かに強制された答えにはならない。
だからこそ、自分で選ばなければならない。
「怖いです」
セラフィナは正直に言った。
「何が」
「契約でなければ、終わる条件が書かれていません」
レオンハルトは黙って聞いている。
「私は、書かれた役割があれば動けます。監査人として。共同署名者として。婚約契約の相手として」
守るべき文書。
果たすべき義務。
使ってよい権限。
それらが書かれていれば迷わない。
「でも、好きだからそばにいたいという理由だけでは、何をすればよいか分かりません」
言った後で、意味に気づいた。
頬が一気に熱くなる。
今、好きだと言った。
セラフィナは目を伏せた。
「今のは」
「記録した」
レオンハルトが言った。
「オルデン様はいません」
「私が覚えている」
以前にも聞いた言葉。
胸がさらに熱くなる。
「忘れてください」
「断る」
「契約は終了しています」
「だから、私の意思で断る」
ずるい。
けれど、それは確かに契約ではない言葉だった。
レオンハルトは石卓を回り、セラフィナの前へ来た。
「私も怖い」
意外な言葉だった。
「レオン様が?」
「ああ」
彼は何度も死線を越えた。
呪いに近い強制契約に耐え、王宮文書局と争い、オスカーと向き合った。
そんな人が、今は少しだけ言葉を探している。
「君が契約を終えれば、当然ここに残ると思っていた」
「それは、とても身勝手です」
「分かっている」
「私の意思を確認せずに?」
「ああ」
「公爵として命じるつもりでしたか」
「命令できないと気づいた」
レオンハルトは静かに息を吐く。
「契約がなくなった時、君をここへ留める理由が、私の願いしか残っていなかった」
「はい」
「それを口にするのが、怖かった」
彼も同じだった。
書かれた義務の外へ出ることが。
拒まれる可能性のある言葉を口にすることが。
「私は君にいてほしい」
氷青の瞳が、まっすぐセラフィナを見る。
「文書監査人としてだけではない」
朝の光が、彼の黒い髪へ差す。
「共同署名者としてでもない」
レオンハルトは一度言葉を切った。
「私の婚約者として」
心臓が強く鳴った。
「昨日、終了しました」
「ああ」
「もう契約上の婚約者ではありません」
「だから、契約ではない婚約を申し込んでいる」
あまりに真っ直ぐで、理解が少し遅れた。
「それは……正式な求婚ですか」
「そのつもりだ」
「指輪も、証人もありません」
「必要なら用意する」
「書類は」
「後で作る」
「後で?」
「先に君の意思を聞く」
今までとは逆だった。
契約書を先に作り、その中で関係を定めるのではない。
まず言葉。
まず意思。
書類は、その選択を残すために後から作る。
「セラフィナ・ロウエル」
レオンハルトが、正式に名を呼ぶ。
「私と結婚してほしい」
風が止まったように感じた。
「事件のためではなく」
彼は続ける。
「公爵家へ入る権限のためでもなく」
静かな声。
けれど、一つ一つの言葉が強い。
「君がいなくても、私は当主として生きていける」
それは、依存ではないという言葉。
「君も、私がいなくても生きていける」
それは、囲い込まないという約束。
「それでも、私は君と生きたい」
セラフィナの目に、涙が滲んだ。
悲しいわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
ただ、自分で選んでよいと言われたことが、嬉しかった。
「条件があります」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
「聞こう」
「私の仕事を続けさせてください」
「ああ」
「封蝋読みの使用回数と休息について、私だけでなく、医師やマーサさんの判断も取り入れます」
「ああ」
「公爵夫人になったとしても、監査記録へ意見する権利を」
「ああ」
「レオン様が無茶をした時は、私が止めます」
「努力する」
「承諾ではありません」
「止められることを承諾する」
「よろしいです」
少しだけ笑った。
「もう一つ」
「まだあるのか」
「あります」
レオンハルトも、ほんの少し笑っていた。
「私を守る時、私の意思を確認してください」
黒馬車の床下。
王宮の封庫。
北方港。
危険な場面では、彼は何度もセラフィナを守った。
それはありがたかった。
けれど、守ることと選択を奪うことは違う。
「君も同じだ」
「私も?」
「私を守るために、一人で封へ触れない」
「……はい」
「返事が遅い」
「守れるか考えました」
「守れ」
「努力します」
「承諾ではない」
自分の言葉を返された。
「分かりました。承諾します」
レオンハルトが頷く。
「ほかには」
セラフィナは考えた。
契約条件のように並べている。
でも、これは契約ではない。
共に暮らすために必要な約束だ。
「大切なことを、紙だけに隠さないでください」
先代公爵の遺言。
エリシアへの思い。
レオンハルトへの愛情。
すべてが紙に残され、本人へ届くまで長い年月がかかった。
「言葉にできることは、先に言ってください」
レオンハルトは少し考えた。
「努力する」
「またですか」
「難しい条件だ」
「私も同じです」
「なら、二人で努力する」
それならよいと思った。
完璧な約束ではない。
破られる可能性もある。
そのたびに話せばいい。
「私も、レオン様と生きたいです」
ようやく言えた。
「仕事のためではなく」
涙が一筋、頬を伝う。
「守っていただけるからだけでもなく」
彼へ手を伸ばす。
触れる前に、一度尋ねた。
「手を握ってもよろしいですか」
レオンハルトの瞳が柔らかくなる。
「ああ」
手を重ねる。
温かい。
もう強制契約の黒い線はない。
婚約契約の義務もない。
それでも、二人の手は離れなかった。
「お受けします」
セラフィナは言った。
「レオンハルト・ヴァイス様。あなたの求婚を」
その瞬間、温室の扉が派手に開いた。
「おめでとうございます!」
ノアの声が庭へ響く。
セラフィナとレオンハルトは同時に振り返った。
温室の中から、次々と人が現れる。
ノア。
エリシア。
リック。
マーサ。
オルデン。
ミーナ。
セルジオ司祭。
クラリッサ夫人までいる。
「皆さん、なぜ」
セラフィナは言葉を失った。
マーサが涼しい顔で答える。
「旦那様が何も準備なさらずに求婚を始めそうでしたので」
「見ていたのか」
レオンハルトの声が低くなる。
「証人は必要かと存じまして」
「必要なら後で用意すると言った」
「求婚後に用意する証人に、どのような意味がございますか」
レオンハルトが黙る。
マーサは強い。
ノアが小さな箱を持って駆けてくる。
「レオン兄様、指輪!」
「兄様?」
レオンハルトが眉を上げる。
ノアは少し迷いながら言った。
「公爵様より、いいかなって」
「好きにしろ」
「うん、兄様!」
嬉しそうな声。
エリシアはまだ杖を使っていたが、以前よりしっかりと歩けるようになっている。
「アルベルト兄様の指輪よ」
彼女が説明する。
「婚約指輪として使われる前の、ヴァイス家の古い家族印。兄様は、レオンハルトが本当に大切な人を見つけた時に渡すと言っていたの」
小箱の中には、銀色の指輪。
派手な宝石はない。
白銀の狼と、小さな蔦が刻まれている。
蔦の間には、まだ何もない小さな空欄があった。
「ここへ、セラフィナ様の小鳥を彫れるそうです」
ノアが言う。
「レオン兄様が昨日、職人に聞いてた」
「昨日?」
セラフィナはレオンハルトを見る。
彼はわずかに目を逸らした。
「契約を終わらせる前から、用意していたのですか」
「可能性としてだ」
「私が断ったら」
「使わなかった」
「それだけですか」
「しばらく立ち直れなかったかもしれない」
正直すぎる答えに、胸がまた熱くなった。
レオンハルトは指輪を取り、セラフィナの前へ立つ。
「改めて」
今度は多くの証人がいる。
けれど、答えはもう決まっている。
「セラフィナ・ロウエル。私と婚約してほしい」
「はい」
指輪が左手へ通される。
ちょうどよい大きさだった。
これも事前に測られていたのだろう。
おそらくマーサに。
「いつ測ったのですか」
「手当ての時でございます」
案の定だった。
クラリッサ夫人が静かに前へ出る。
「王宮礼法顧問として確認いたします。これは事件対応を目的とした契約婚約ではなく、双方の自由意思による婚約で間違いありませんね」
「はい」
セラフィナが答える。
「ああ」
レオンハルトも答えた。
「では、今度こそ正式に認めます」
以前の花嫁候補審査。
礼法。
立場。
公爵夫人としての適性。
それらを越えて、彼女は二人の意思を確認した。
「ただし」
クラリッサ夫人が続ける。
「婚約発表の文面は、私が確認します。お二人に任せると、契約条項のような発表文になりかねません」
「否定できません」
セラフィナが答えると、周囲から笑いが起きた。
セルジオ司祭は小さな木箱を持っていた。
「こちらは教会より」
中には、白い封蝋と新しい封印具。
印は、開いた本。
その上を飛ぶ小鳥。
「高等審問院と教会大監査院の協議により、新たな文書監査職が設けられることになりました」
「新たな職?」
「封印文書監査官」
封蝋読みの力だけを証拠にはしない。
だが、改変、隠匿、偽造の兆候を発見し、独立した物理鑑定や証人確認へ繋げる職。
「初代監査官として、セラフィナ様へ就任をお願いしたいとのことです」
外れ職と呼ばれた力。
利用され、恐れられ、黙らせられようとした力。
それが、誰かを一方的に裁くためではなく、消される記録を探す仕事になる。
「お受けします」
迷わず答えた。
「ただし、条件があります」
セルジオ司祭が笑う。
「伺いましょう」
「封蝋読みの結果だけで、有罪や無罪を決めないこと。必ず物証、署名、証人、保管経路を確認すること」
「規則に明記します」
「職能使用者の休息と治療を義務にすること」
「それも」
「本人の意思に反する職能行使を命じないこと」
「もちろんです」
これで、次に同じ力を持つ誰かが生まれても、身体を削ることを当然とはされない。
「記録してください」
セラフィナが言うと、オルデンがすでに筆を走らせていた。
「すべて記録しております」
西庭に、朝日が広がる。
エリシアとノア。
リックとミーナ。
マーサとオルデン。
クラリッサ夫人とセルジオ司祭。
失われかけた人たちが、今は同じ庭に立っている。
完璧に元通りになったわけではない。
ユリウスは戻らない。
先代公爵も。
叔父も。
奪われた時間は、返ってこない。
それでも、名前は戻った。
罪は罪として記録された。
生きている者は、自分の行き先を選べる。
午後には、王都の掲示板とヴァイス公爵領の各町へ、正式な訂正文が送られた。
エリシア・ヴァイスは病死していない。
ノア・エリシア・フェルンは、ユリウス・フェルンとエリシアの正当な子である。
アルベルト・ヴァイスへ向けられた不名誉な出生記録は偽造である。
レオンハルト・ヴァイスは、正当なヴァイス公爵家当主である。
クラウス商会および関係者によって横領された支援金は返還される。
そして、セラフィナ・ロウエルに対する職能乱用疑義と偽造疑義は、証拠により否定された。
紙くず令嬢という言葉は、公式記録には残らなかった。
代わりに記されたのは、
――王国初代封印文書監査官。
という肩書だった。
夕方。
セラフィナは公爵邸の執務室で、新しい机を確認していた。
レオンハルトの机の真正面ではない。
後ろでもない。
半歩横。
窓側へ少しずらした位置。
「これは、誰が」
「私だ」
レオンハルトが答える。
「近すぎませんか」
「書類を渡しやすい」
「理由が実務的ですね」
「嫌か」
「いいえ」
セラフィナは新しい机へ、叔父の小鳥の封印具を置いた。
翼を閉じた鳥。
その隣には、自分の片翼を開いた小鳥。
そして、封印文書監査官の、開いた本と飛ぶ鳥。
三つの印。
守ってくれた過去。
自分で選んだ現在。
これから作る未来。
執務室の扉が叩かれた。
若い書記官が、大きな文書箱を抱えて入ってくる。
「失礼いたします。南部教会より、未開封の遺言書について緊急鑑定依頼です」
箱には古い緑色の封蝋。
絡み合う二本の木。
セラフィナは封へ手を伸ばしかける。
その前に、レオンハルトを見る。
「本日の使用回数は」
「ゼロです」
「体調は」
「良好です」
「立会人は」
若い書記官。
オルデン。
依頼元の確認書もある。
「揃っています」
「ならば」
レオンハルトは小さく頷いた。
「仕事を始めよう」
「はい」
セラフィナは白手袋を整える。
指先を封蝋へ近づける。
触れる直前、レオンハルトの声がした。
「セラフィナ」
「はい」
「帰る場所は、叔父君の小屋敷でもいい」
彼は書類を見たまま言う。
「ここでもいい」
契約ではない。
命令でもない。
「君が選べ」
セラフィナは少しだけ笑った。
「では、仕事の日はこちらへ」
「ああ」
「休みの日も、時々こちらへ」
「ああ」
「結婚後については、また相談します」
レオンハルトが顔を上げる。
「時々では困る」
「まだ結婚していません」
「婚約はした」
「その違いは大切です」
「なら、早く式を決める」
「クラリッサ夫人と相談してください」
「君も参加しろ」
「もちろんです」
そんな言葉を交わしながら、封蝋へ触れる。
緑の蝋から、誰かの穏やかな願いが伝わってきた。
けれど、急いで奥までは読まない。
まず表面。
印影。
書類番号。
立会人。
正しい順番で、少しずつ。
「封蝋は、嘘を覚えています」
セラフィナは静かに言った。
「でも、願いも覚えています」
隣でレオンハルトが書類を開く。
誰かが消そうとした言葉を。
残したかった名前を。
今度は、一人ではなく守っていく。
白銀の狼と、片翼を開いた小鳥。
二つの封は、もう互いを縛らない。
ただ同じ文書の上に並び、これから先の記録を残していく。
契約ではなく。
二人が自分で選んだ意思として。




