第36話 母は道を覚えていた
ヴァイス公爵邸の門が見えた時、雨はまだ降り続いていた。
石畳を叩く雨音。
馬車の車輪が跳ねる泥。
護衛たちの声。
いつもの屋敷とは違う、張り詰めた空気。
けれど、その門を見た瞬間、私は胸の奥で小さく息をついた。
帰ってきた。
まだ戦いは終わっていない。
けれど、エリシア様を連れて帰ってこられた。
ノアさんのところへ。
「セラフィナ」
隣でレオン様が私を呼ぶ。
「起きているか」
「はい」
「目が半分閉じている」
「起きています」
「無効だ」
「……起きています」
そう答える声が、自分でも少し弱いと分かった。
封蝋読みの代償は、まだ抜けていない。
手袋の下の指先は冷たく、赤い痕がじんじん痛む。
レオン様の外套と毛布に包まれているのに、体の芯がまだ冬のままだ。
それでも、眠るわけにはいかなかった。
エリシア様とノアさんが会うところを、どうしても見届けたかった。
馬車が玄関前に止まる。
すぐに扉が開き、マーサさんが駆け寄ってきた。
いつもの落ち着いた老侍女の顔ではない。
それでも、背筋だけはぴんと伸びている。
「旦那様、セラフィナ様!」
「マーサ」
レオン様が馬車を降りようとする。
マーサさんの目が、すぐに彼の顔色を見た。
「旦那様もお休みが必要でございます」
「後だ」
「そのお言葉を何度聞いたことか」
「本当に後だ」
「記録いたします」
私が小さく言うと、レオン様がこちらを見た。
「君は寝ていろ」
「ノアさんとエリシア様の再会を見届ける約束です」
「約束はしたが、倒れてまでとは言っていない」
「倒れません」
「無効」
完全に癖になっている。
でも、そのやり取りがあったからか、マーサさんの顔にほんの少しだけ安堵が戻った。
次の馬車から、エリシア様が担架で運ばれる。
白い顔。
痩せた身体。
雨に濡れないよう、何枚もの外套と毛布に包まれている。
セルジオ司祭が付き添い、薬の状態を確認していた。
「部屋を用意してあります」
マーサさんが即座に言った。
「暖炉を入れ、湯と薬湯、清潔な寝具を準備済みです。医師も呼んでおります」
「ノアは」
レオン様が問う。
「医師の部屋の隣です。リック様と共に保護しております」
「無事か」
「はい。襲撃未遂はございましたが、無事です」
エリシア様のまぶたが、わずかに震えた。
その名を聞いたのだ。
ノア。
彼女の子。
奪われ、隠され、名を変えられ、それでも生きていた子。
「ノア……」
掠れた声が、雨の中にこぼれる。
マーサさんの目が揺れた。
けれど、すぐに深く礼をする。
「エリシア様。ヴァイス公爵邸へ、お帰りなさいませ」
エリシア様の瞳がゆっくりマーサさんを捉える。
遠い記憶を探るように。
「……マーサ?」
「はい」
「あなた……まだ、ここに」
「はい。ずっとおります」
その一言に、エリシア様の目から涙がこぼれた。
「そう……」
マーサさんは唇を強く結んだ。
泣きそうなのをこらえている顔だった。
でも、彼女は泣かなかった。
今は、動く時間だと分かっているから。
「まずは中へ」
屋敷の扉が開かれる。
暖かい空気が流れてきた。
蜂蜜湯と薬草の匂い。
火の入った暖炉の匂い。
私はその匂いだけで、少し体が緩む。
レオン様が私を抱き上げようとした。
「歩けます」
「今の足元で?」
「……少しなら」
「無効」
またしても即答だった。
結局、私はレオン様に抱き上げられたまま屋敷へ入ることになった。
恥ずかしい。
とても恥ずかしい。
使用人たちが一斉に頭を下げるから、余計に。
「レオン様、皆さんが」
「見ているな」
「降ろしてください」
「冷え切った文書監査人を落とす趣味はない」
「落ちません」
「信用しない」
反論しようとしたが、体が思ったより動かない。
悔しいけれど、レオン様の腕に支えられている方が安全だった。
玄関広間の奥。
暖炉の前に、ノアさんがいた。
リックさんに支えられ、毛布を羽織っている。
リックさんも手当てを受けたばかりなのだろう。
腕には包帯が巻かれ、頬には擦り傷がある。
けれど、二人とも生きている。
ノアさんは、担架で運ばれてくるエリシア様を見た瞬間、動けなくなった。
「……誰?」
小さな声だった。
誰か分かっていない。
でも、何かを感じている。
エリシア様も、担架の上で必死に顔を上げようとした。
「ノア……」
その声を聞いた瞬間、ノアさんの目が大きく開いた。
覚えていないはずの声。
幼い頃に奪われた母の声。
それでも、どこかに残っていたのだろう。
封蝋が覚えていたように。
彼自身の奥にも。
「なんで……」
ノアさんは一歩、近づいた。
リックさんがそっと肩を支える。
エリシア様は震える手を伸ばした。
「ごめんね」
その一言で、ノアさんの顔が歪んだ。
「ごめんね、ノア。守れなくて……あなたの名前を、守れなくて……」
ノアさんは首を振った。
何度も。
でも声が出ない。
「歌は……覚えている?」
エリシア様が掠れた声で尋ねる。
ノアさんの唇が震えた。
「白鹿は……夜を越え」
小さく、小さく、彼は歌った。
エリシア様の瞳から、涙が溢れる。
「鐘の下で……朝を待つ」
ノアさんの声に、エリシア様の声が重なる。
「子鹿よ、泣かずに」
「母は道を……」
ノアさんはそこで声を詰まらせた。
エリシア様が微笑む。
「覚えている」
ノアさんは駆け寄った。
担架の横に膝をつき、エリシア様の手を握る。
「お母さん……なの?」
震える声。
エリシア様は泣きながら頷いた。
「はい」
「ほんとに?」
「本当に」
「僕、ずっと……」
ノアさんは言葉を続けられなかった。
ただ、エリシア様の手を握って泣いた。
エリシア様も、痩せた腕で必死にノアさんの頭を撫でる。
「大きくなったわ」
「知らないよ……僕、知らなかった」
「知らなくてよかったの。生きていてくれたから」
「でも、僕」
「あなたは何も悪くない」
エリシア様の声は弱い。
けれど、その一言だけは、はっきりしていた。
「あなたは、生きていてくれただけでいいの」
ノアさんは声を上げて泣いた。
リックさんがその横で顔を伏せる。
ミーナさんも泣いている。
マーサさんはとうとう目元を拭った。
レオン様は私を抱えたまま、少し離れた場所に立っていた。
彼は何も言わなかった。
ただ、母と子の再会を見ていた。
冷徹公爵と呼ばれる人の顔ではなかった。
長く失われていた家族が戻る瞬間に立ち会う、一人の人の顔だった。
私は胸がいっぱいになった。
よかった。
本当に、間に合ってよかった。
「セラフィナ様」
ノアさんが涙だらけの顔でこちらを見た。
「ありがとう」
私は首を横に振った。
「私は封を開いただけです」
「でも、開いてくれた」
ノアさんは泣きながら言った。
「兄さんも、お母さんも、嘘じゃなかった」
その言葉に、喉が詰まった。
リックさんもこちらへ頭を下げる。
「セラフィナ様。俺からも、ありがとうございます」
「リックさんが帳簿を守ってくださったからです」
「俺は逃げ回ってただけです」
「逃げ切ったのです。証拠を持って」
リックさんは少しだけ笑った。
疲れ切った笑みだったけれど、確かに誇りが戻っていた。
その時、エリシア様が私を見た。
「あなたが……兄の呼んだ子」
「はい」
「封蝋読みの……」
「はい」
「兄は、最後まで……人を見る目だけは、間違えなかったのね」
その言葉に、レオン様の腕がわずかに強張った。
先代公爵の話になると、彼の心はまだ痛む。
疑われていたと思っていた年月。
守られていたと知ったばかりの痛み。
その両方があるのだ。
エリシア様はレオン様へ視線を移した。
「レオンハルト」
「はい」
「兄は、あなたを疑っていなかった」
レオン様の目が揺れる。
「ええ。封蝋で、知りました」
「そう……」
エリシア様は弱く微笑んだ。
「兄は不器用だったでしょう」
「……はい」
「大事なことほど、紙に隠す人だった」
「本当に」
レオン様の声が少しだけ掠れた。
エリシア様は、ノアさんの手を握ったまま続ける。
「でも、あなたを愛していたわ。とても」
沈黙が落ちた。
レオン様は何も言えなかった。
ただ、目を伏せた。
その横顔を見て、胸が痛くなる。
この人も、ずっと待っていたのだ。
父に愛されていたと、誰かに言ってもらえる日を。
その時、マーサさんが静かに手を打った。
「皆様、お気持ちは分かりますが、まずは治療と保温でございます」
現実が戻ってきた。
さすがマーサさん。
「エリシア様は医師の診察を。ノア様は同室で構いませんが、泣きすぎると熱が出ます。リック様も座ってください。旦那様は薬湯。セラフィナ様は寝台へ」
「私は」
「寝台へ」
反論の余地がない声だった。
レオン様が当然のように頷く。
「マーサに同意する」
「レオン様もです」
私が言うと、マーサさんもすぐに頷いた。
「旦那様もでございます」
レオン様が黙る。
少しだけ勝った気がした。
しかし、私も限界だった。
視界の端が白く霞んでいる。
指先の痛みが鈍くなってきた。
これは良くない。
痛みが消えたのではなく、感覚が遠のいている。
レオン様がそれに気づいたのか、私を抱え直した。
「セラフィナ」
「はい」
「見届けたな」
「……はい」
「なら休め」
「少しだけ」
「長く」
「少し長く」
「マーサ」
「最低でも半日でございます」
「決定だ」
「そんな」
抗議したかったが、声が弱すぎた。
私は客室へ運ばれた。
暖炉には火が入り、寝台には湯たんぽがいくつも置かれている。
まるで最初から私が倒れることを予想していたような準備だ。
「マーサさん、準備が良すぎます」
「セラフィナ様が無茶をなさることは、もはや前提でございます」
「信用が」
「ございます。無茶をなさる信用が」
返す言葉がなかった。
レオン様が私を寝台へ下ろす。
毛布が何枚もかけられる。
手袋を外され、赤い痕が浮いた指先を見たレオン様の顔が険しくなった。
「ひどい」
「いつもより少しだけです」
「無効」
「今日は無効が多いですね」
「君が有効なことを言わないからだ」
彼は私の指先を、両手で包んだ。
温かい。
その温かさに、今度こそ意識が緩みそうになる。
「眠ってもいいですか」
「ようやくか」
「ノアさんとエリシア様は」
「守る」
「黒い帳簿は」
「保全する」
「燃えかけた書類は」
「乾かして写しを取る」
「オスカー様は」
「逃がさない」
「レオン様は」
「休む」
私は目を開けた。
「本当に?」
「ああ」
「薬湯も?」
「飲む」
「記録」
「オルデンがしている」
それなら安心だと思った。
レオン様は私の手を温めたまま、静かに言った。
「セラフィナ」
「はい」
「ありがとう」
その声は、とても低かった。
胸の奥にまっすぐ届く声だった。
「叔母を連れて帰ってくれて」
「私は一人では」
「それでも、君が封を開いた」
私は目を伏せた。
「先代公爵様と、エリシア様の封が道を残していたからです」
「それを見つけたのは君だ」
彼の指が、私の冷えた手を包む。
「君がいなければ、私は父の遺言を疑ったままだった。叔母は戻らず、ノアは消され、リックは逃亡者にされたままだった」
「そんなに言われると、眠れなくなります」
「なら、続きは起きてから言う」
「それも困ります」
レオン様の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
私も笑おうとしたけれど、眠気が勝った。
意識が沈む直前、部屋の外から小さな歌が聞こえた。
白鹿は夜を越え。
鐘の下で朝を待つ。
子鹿よ、泣かずに。
母は道を覚えている。
ノアさんの声。
それに重なる、エリシア様の弱い声。
母と子の歌。
封蝋が覚えていた願いが、今、生きた声になっている。
私はようやく目を閉じた。
その歌を聞きながら。
今度こそ、少しだけ眠った。
* * *
私が眠っている間にも、屋敷は止まらなかった。
黒い帳簿は、オルデン様の指揮で三部写しが作られた。
一部はヴァイス公爵家の保全箱へ。
一部は教会監査のためセルジオ司祭へ。
一部はクラリッサ夫人の立会い記録へ添付するため、王宮礼法顧問宛てに封じられた。
燃えかけた書類束からは、白鹿修道院北棟の入出記録、薬剤投与表、そしてエリシア様の面会禁止命令が見つかった。
命令者欄には、直接名はない。
だが、押されていた印は三つ。
王宮文書局の青。
クラウス商会の麦と天秤。
そして、折れた剣を添えた狼。
オスカー・ヴァイスの私印。
エリシア様は医師の診察を受け、衰弱と薬の影響があるものの、命に別状はないと確認された。
ノアさんはその手を離さず、リックさんは少し離れた椅子で二人を見守っていたという。
その日の夕刻。
王宮文書局から、ヴァイス公爵邸へ正式抗議文が届いた。
内容は、王宮文書局保管文書への不当干渉、封庫内機密情報の持ち出し、白鹿修道院関係者の強制連行、そして私――セラフィナ・ロウエルの職能乱用疑義。
だが、その封書が届いた時、レオン様はすでに起きていた。
薬湯を飲み、休息を取り、顔色はまだ悪いものの、当主の目をしていた。
彼は抗議文を最後まで読み、静かに机へ置いた。
「オルデン」
「はい」
「返書を書く」
「内容は」
レオン様は窓の外を見た。
雨は上がりかけている。
雲の切れ間から、薄い夕日が差していた。
「こちらからも正式に告発する」
オルデン様が筆を取る。
レオン様は静かに告げた。
「王宮文書局長代理ヴィクトル・グレン。補佐官イザーク・メルヴィン。オスカー・ヴァイス。クラウス商会。ベルナール・ダレス司祭。以上の者について、ヴァイス公爵家相続妨害、文書偽造、証人殺害未遂、死亡記録偽造、領地支援金横領、監禁および薬物投与疑義で、正式告発を行う」
オルデン様の筆が走る。
レオン様は続けた。
「証人は、エリシア・ヴァイス、ノア・エリシア・ヴァイス、リック、ミーナ、エリアス・グレン。証拠は黒い帳簿、相続調査制限契約原本写し、先代公爵紙片、白鹿修道院記録、偽命令書、薬瓶片、黒馬車、燃え残り文書」
そして、少しだけ間を置いた。
「ならびに、封蝋読みセラフィナ・ロウエルの確認記録」
その名前を聞いて、マーサさんが客室の扉の前で小さく頷いた。
私が眠っている間に、反撃の書類は整えられていく。
もう、敵の封だけが世界を動かすわけではない。
こちらにも、封がある。
狼の封。
小鳥の封。
針と糸車の封。
そして、白鹿と小さな狼の封。
消されかけた名前たちは、ようやく紙の上へ戻り始めていた。




