第35話 白鹿と小さな狼の封
床下の赤い封蝋は、雨に濡れてもなお、かすかに温かかった。
白鹿と小さな狼。
その二つが並んだ小さな封。
黒馬車の後部扉に押された麦と天秤の封とは違う。
黒紫の悪意とも違う。
これは、守るための封だ。
逃がすために、誰かが残した封。
エリシア様が。
ノアさんを思いながら。
長い年月、閉じられた場所で、それでも忘れなかった道。
「セラフィナ」
レオン様の声が、雨の向こうから聞こえた。
「無理はするな」
「はい」
私は返事をした。
けれど、たぶん嘘になる。
無理をしないで開けられる封ではない。
この封は古い。
長く閉じられた願いが染み込んでいる。
しかも、黒馬車の扉に仕掛けられた罠を避け、内側の人を守るための逃がし封だ。
読み違えれば、扉の黒紫の封が反応する。
エリシア様に薬が回るかもしれない。
馬車ごと証拠を消す仕掛けが動くかもしれない。
だから、慎重に。
でも、急がなければならない。
雨が強くなっている。
黒馬車の馬は荒い息を吐き、拘束された男たちは護衛に押さえられながらも、まだこちらを睨んでいる。
遠くから、別の馬車の音が聞こえるような気がした。
追っ手かもしれない。
白鹿修道院から来る者かもしれない。
時間はない。
私は膝をつき、泥に濡れた裾を気にせず、床下の封へ白手袋の指先を近づけた。
直接触れる前に、封蝋の縁を読む。
白鹿。
小さな狼。
震える手。
暗い地下。
古い鐘の音。
そして、赤子の泣き声。
ノア。
小さなノアさん。
いいえ、その時の名は違った。
ノア・エリシア・ヴァイス。
エリシア様が自分の名を子に与えたのだ。
消されないように。
覚えていられるように。
私は息を吸った。
封蝋に触れる。
瞬間、冷たい水の中へ沈むような感覚が全身を包んだ。
雨の冷たさではない。
封蝋読みの代償。
指先から体温が抜けていく。
白手袋の下で、赤い痕がじわりと浮かぶのが分かった。
けれど、手を離さない。
封の中から、エリシア様の声が流れ込んできた。
――この子だけは。
――この子の名だけは。
――兄様、どうか。
暗い部屋。
窓のない石壁。
白鹿の刺繍が入った布。
赤子を抱く若い女性。
扉の外で言い争う男たち。
オスカーの声。
ヴィクトルの声。
ベルナール司祭の低い祈り。
そして、泣きそうな声で歌うエリシア様。
白鹿は夜を越え。
鐘の下で朝を待つ。
子鹿よ、泣かずに。
母は道を覚えている。
私は奥歯を噛んだ。
頭が痛い。
胸が苦しい。
でも、これは恐怖の封ではない。
守るための封だ。
ならば、答えは黒紫の封とは逆。
縛るのではなく、ほどく。
奪うのではなく、逃がす。
「封蝋は、嘘を覚えています」
私は小さく呟いた。
雨音に消えそうな声だった。
「でも、願いも覚えています」
白鹿と小さな狼の封が、淡く光った。
封の奥で、細い赤い線が走る。
馬車の床下に隠された小さな留め金。
そこへ繋がる。
「護衛さん、床下の左側に留め金があります。黒い方ではなく、赤い紐が巻かれている方です」
「これですか!」
「はい。黒い金具には触れないでください。赤い紐だけを切って」
護衛が慎重に短剣を入れる。
赤い紐が切れた。
その瞬間、黒馬車の後部扉に押された黒紫の封が、ぎしりと軋んだ。
罠が反応する。
私は封から手を離さず、さらに力を込めた。
「まだです」
白鹿の封が震える。
頭の奥に痛みが走った。
指先が凍る。
息が白くなった。
雨の中なのに、体の内側だけが冬になっていく。
「セラフィナ!」
レオン様の声。
近づいてくる足音。
「来ないでください!」
私は叫んだ。
「今、途中で触れると、黒い封が反応します!」
足音が止まる。
止まってくれた。
信じてくれた。
それだけで、少しだけ踏ん張れる。
私は封の奥へ意識を沈めた。
白鹿。
小さな狼。
赤い紐。
床下の逃がし戸。
開く順番がある。
一つ目、赤い紐。
二つ目、白鹿の板。
三つ目、小さな狼の釘。
最後に、歌。
歌。
私は喉を震わせた。
聞いたばかりの子守歌を、たどたどしく口ずさむ。
「白鹿は、夜を越え……」
声が震える。
「鐘の下で、朝を待つ……」
封蝋が温かくなる。
「子鹿よ、泣かずに……」
馬車の中で、エリシア様がかすかに同じ旋律を重ねた。
弱く、掠れて、途切れそうな声。
でも、確かに歌だった。
「母は……道を、覚えている……」
その最後の音が雨に溶けた瞬間、床下で小さく金属音がした。
かちり。
黒馬車の床板が、内側からわずかに浮いた。
「開きました!」
護衛が叫ぶ。
「扉ではなく、床下から!」
護衛たちが慎重に板を外す。
黒い封は反応しない。
後部扉の罠は、まだ扉だけを見張っている。
床下の逃がし戸は、エリシア様自身の封で守られていた。
私はそこで、ようやく手を離した。
途端に視界が揺れた。
雨。
泥。
白い息。
世界が遠くなる。
「セラフィナ!」
今度こそ、レオン様が駆け寄ってきた。
私は倒れかけた体を、強い腕に支えられる。
黒い外套の匂い。
雨に濡れた革。
薬湯の苦い香り。
そして、レオン様の体温。
温かい。
私は思わず、その温かさに縋りそうになった。
「冷たい」
レオン様の声が震えた。
「指先が……」
「大丈夫です」
「無効だ」
即答だった。
「今の大丈夫は無効だ」
こんな時なのに、少し笑いそうになる。
けれど、唇がうまく動かない。
寒い。
体の芯が冷えている。
封蝋読みの代償が、いつもより深い。
エリシア様の長い恐怖と願いを読んだからだ。
「エリシア様を……」
私は言った。
「先に」
「分かっている」
レオン様は私を片腕で支えたまま、護衛へ命じた。
「慎重に引き出せ。薬があるかもしれない。布と担架を」
「はい!」
床下の逃がし戸から、まず白い布が引き出された。
次に、細い腕。
青白い手。
痩せた身体。
白い髪が混じった薄茶の髪。
エリシア様は、長い間日の光を浴びていなかった人のように、ひどく痩せていた。
けれど、生きている。
確かに息をしている。
雨に濡れないよう、護衛がすぐに外套をかけた。
セルジオ司祭が駆け寄り、脈と瞳を確認する。
「衰弱しています。薬も使われていますが、命に別状はない。すぐに温めて、解毒と滋養を」
命に別状はない。
その言葉で、レオン様の肩がわずかに落ちた。
安堵。
けれど、すぐに彼はエリシア様の前へ膝をついた。
「叔母上」
声が、とても低かった。
エリシア様は薄く目を開ける。
雨の光を眩しそうに受けながら、レオン様を見た。
灰青色の瞳。
弱っていても、そこには確かにヴァイスの色があった。
「レオン……ハルト」
「はい」
「アルベルト兄様は……」
レオン様の喉が動いた。
「父は亡くなりました」
エリシア様の目に、涙が滲んだ。
「そう……」
「ですが、父の封があなたへ導きました」
「兄様……また、紙を……」
エリシア様はかすかに笑った。
それは悲しい笑みだった。
でも、同時に懐かしむような笑みでもあった。
「昔から……大事なことを、紙に隠す人だったわ」
レオン様は何も言えなかった。
その沈黙の代わりに、雨が降り続ける。
私はレオン様の腕の中で、ぼんやりその光景を見ていた。
よかった。
間に合った。
エリシア様は生きていた。
ノアさんの母は、生きていた。
「ノアは」
エリシア様が弱く尋ねる。
「ノアは、どこ……?」
私は必死に声を出した。
「ヴァイス公爵邸にいます。無事です。リックさんと一緒です」
「リック……」
「あなたの子を、ずっと弟として守っていました」
エリシア様の瞳から、涙がこぼれた。
「ありがとう……」
それが誰へ向けた言葉なのか、分からなかった。
リックさんへ。
ノアさんへ。
先代公爵へ。
あるいは、ここにいる全員へ。
でも、その一言で十分だった。
セルジオ司祭が低く言う。
「すぐに安全な場所へ移しましょう。白鹿修道院へ戻すのは危険です」
「ヴァイス公爵邸へ」
レオン様が即座に言った。
「叔母上を屋敷で保護する」
クラリッサ夫人が頷く。
「王宮礼法顧問として証言します。エリシア・ヴァイス様は、王宮文書局および白鹿修道院関係者の介入を受けない安全な場所へ移されるべきです」
セルジオ司祭も言った。
「教会監査としても同意します。修道院側の関与を調べる必要があります」
護衛たちがエリシア様を担架へ移そうとした時、黒馬車の後部扉の封が激しく震えた。
黒紫の粉が雨に溶け、じゅわりと煙を上げる。
まだ罠が残っている。
中に何かを燃やす仕掛けか。
証拠を消す仕掛けか。
「離れて!」
私は叫ぼうとした。
でも声がかすれた。
レオン様が代わりに叫ぶ。
「全員、馬車から離れろ!」
護衛たちが一斉に退く。
次の瞬間、黒馬車の中から焦げた匂いが漏れ出した。
扉の内側で、何かが燃えている。
「証拠を燃やす気です!」
私は言った。
視界が揺れる。
けれど、見なければ。
馬車の中にまだ文書がある。
エリシア様を移すための記録。
白鹿修道院の命令書。
薬の配合。
誰が関与したか。
それを消そうとしている。
レオン様が私を抱き寄せる腕に力を込めた。
「君は動くな」
「でも」
「私がやる」
「レオン様も」
「私は読むわけではない」
彼は私をオルデン様へ預けようとした。
私は咄嗟に彼の袖を掴む。
「危険です」
「分かっている」
「では」
「だが、証拠を燃やさせるわけにはいかない」
その言葉に、私は何も言えなくなる。
同じだ。
私が封を読んだ理由と。
彼が今、動こうとする理由は同じ。
消される前に守る。
そのために、ここまで来た。
ただし、彼も無茶をする人だ。
だから私は、震える手で自分の封印具を差し出した。
「これを」
「何だ」
「扉は開けないでください。側面の換気板を外して、中の火元だけを引き出してください。私の封印具を近づければ、白鹿の逃がし封が反応して、黒い封の火を少し弱めます」
「君の代償は」
「もう読みません。道具として使うだけです」
レオン様は迷った。
でも時間がない。
彼は封印具を受け取った。
「借りる」
「はい」
「必ず返す」
「はい」
彼は雨の中、黒馬車へ向かった。
護衛が側面をこじ開ける。
煙が漏れる。
レオン様は布で口元を覆い、私の封印具を換気板の近くへかざした。
琥珀色の封の気配が、かすかに光る。
黒紫の煙が一瞬だけ弱まった。
その隙に、護衛が中から燃えかけた革袋を引きずり出す。
雨の中へ投げ出し、砂をかける。
火は消えた。
革袋の中には、半分焦げた書類束と、小瓶が三本。
そして、白鹿修道院の北棟鍵。
セルジオ司祭がすぐに保全を命じた。
「直接触れないように。薬瓶は割らずに。書類は乾いた布へ」
レオン様が戻ってくる。
咳き込みながらも、封印具を私へ返した。
「返す」
「ありがとうございます」
「君の方が冷たい」
「レオン様も煙を吸っています」
「少しだ」
「無効です」
私たちは雨の中で、少しだけ見つめ合った。
お互い、無茶をしている。
分かっている。
でも、止まれない。
それでも、生きていなければならない。
レオン様は急に私を抱き上げた。
「え」
「限界だ」
「歩けます」
「無効だ」
「でも」
「契約書に書いた。倒れた場合に抱き上げる」
「まだ倒れていません」
「倒れる前に抱き上げるとは書いていなかったな」
「それは……」
「次に追記する」
私は反論しようとした。
けれど、寒さで声が出なかった。
レオン様の腕は温かい。
雨で濡れているのに、私よりずっと温かい。
悔しいけれど、安心してしまった。
「エリシア様を先に」
「叔母上は担架で運ぶ。君も同じくらい危険だ」
「私は」
「君も守る対象だ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
守る対象。
仕事道具ではなく。
便利な封蝋読みでもなく。
公爵家のために使われる者でもなく。
守る対象。
私は目を閉じそうになる。
「眠るな」
レオン様が低く言う。
「まだですか」
「屋敷に着くまで」
「厳しいです」
「蜂蜜湯を飲ませる」
「今ここで?」
「馬車でだ」
こんな時なのに、少しだけ笑ってしまった。
唇が震えて、うまく笑えなかったけれど。
エリシア様は担架でヴァイス家の馬車へ運ばれた。
セルジオ司祭が同乗し、解毒と応急処置を行う。
クラリッサ夫人は燃えかけた書類と黒馬車の封の保全記録を取っている。
オルデン様は護衛へ指示を出し、黒馬車の御者と男たちを拘束した。
雨の丘陵道に、証拠が積み上がっていく。
クラウス商会の馬車。
黒紫の扉封。
床下の逃がし封。
エリシア様の布。
燃えかけた書類。
薬瓶。
北棟鍵。
そして、生きているエリシア様本人。
もう、死者の名では隠せない。
生きている人が、戻ってきたのだから。
馬車に乗せられる直前、エリシア様が弱々しく手を伸ばした。
レオン様は私を抱えたまま、彼女のそばへ近づく。
エリシア様の指が、私の白手袋に触れた。
とても冷たい手だった。
でも、私より少しだけ温かかった。
「セラフィナ……」
「はい」
「兄の封を……読んでくれて、ありがとう」
私は何か答えようとした。
けれど、喉が詰まる。
エリシア様は涙を浮かべながら、微笑んだ。
「ノアに……会わせて」
「はい」
私は頷いた。
「必ず」
その約束だけは、はっきり言えた。
レオン様が馬車へ乗り込み、私を長椅子へ降ろす。
すぐに外套をかけられる。
さらに毛布。
蜂蜜湯。
薬湯。
どこから出てきたのか分からないほど、次々と温めるものが用意された。
たぶん、マーサさんが持たせてくれたのだ。
さすがすぎる。
「飲め」
レオン様が蜂蜜湯を差し出す。
「手が」
震えて持てない。
言い終える前に、レオン様が器を支えてくれた。
「少しずつ」
私は彼の手に支えられながら、蜂蜜湯を飲んだ。
甘い。
温かい。
喉を通るたびに、体の奥へ少しずつ火が戻るようだった。
「ご迷惑を」
「言うな」
「でも」
「今それを言ったら、契約違反にする」
「そんな条項はありません」
「追記する」
また、追記。
私は小さく笑った。
今度は、さっきよりちゃんと笑えた気がする。
レオン様は私の手袋の上から、指先を包んだ。
冷え切った手を、両手で温めるように。
「セラフィナ」
「はい」
「助かった」
「エリシア様が、ですか」
「叔母上も」
彼は私を見た。
「君もだ」
胸が、静かに鳴った。
「私は、まだ」
「まだ無事とは言い切れない顔色だ」
「そうですね」
「だから、屋敷に着いたら休め」
「ノアさんとエリシア様の再会を見届けてから」
「……それは止められないな」
「はい」
レオン様は小さく息を吐いた。
「なら、見届けたら休め」
「約束します」
「記録する」
「そこまでですか」
「そこまでだ」
馬車が動き出す。
黒馬車は護衛たちに囲まれ、別部隊が保全のために残る。
私たちはヴァイス公爵邸へ戻る。
雨の中、丘陵道を下っていく。
窓の向こうには、白鹿修道院の塔が遠ざかっていた。
あそこに、まだ多くの記録が残っている。
北棟。
鐘楼。
地下納骨堂。
エリシア様が閉じ込められていた証拠。
でも今は、まず帰る。
ノアさんのところへ。
母と子を会わせるために。
私は外套に包まれながら、目を閉じかけた。
「眠るなと言いましたが」
「屋敷までだ」
「遠いです」
「話していろ」
「何を」
「何でもいい」
私は少し考えた。
頭はぼんやりしている。
でも、言葉は一つだけ浮かんだ。
「レオン様」
「何だ」
「エリシア様、生きていましたね」
「ああ」
「よかったです」
それだけ言うと、レオン様の手が、私の指先を包む力を少しだけ強めた。
「ああ」
彼の声は、雨音に混じるほど低かった。
「本当に」
その声を聞きながら、私は必死に眠気と冷えに抗った。
まだ眠らない。
屋敷へ戻るまで。
ノアさんとエリシア様が会うまで。
封蝋が覚えていた願いを、本当に届けるまで。
私はまだ、目を閉じない。




