第34話 雨の中の黒馬車
「あの馬車に、エリシア様がいます」
そう告げた瞬間、馬車の中の空気が変わった。
雨が窓を叩く音。
車輪が濡れた石と土を噛む音。
護衛馬の蹄が泥を跳ねる音。
そのすべてが、急に遠くなった気がした。
レオン様は黒馬車を見据えていた。
顔色はまだ悪い。
相続調査制限契約の反応は弱まったとはいえ、完全には消えていない。
けれど、その瞳にはもう迷いがなかった。
「追え」
短い命令。
御者が手綱を打つ。
ヴァイス公爵家の馬車が、丘陵道を駆け上がる。
前方の黒馬車は、こちらに気づいたのだろう。
雨の中で大きく揺れながら、さらに速度を上げた。
紋章は塗りつぶされている。
けれど、車輪の側面に刻まれた小さな麦と天秤の印は隠せていない。
クラウス商会。
何度も見た印。
孤児院のパンを奪い、施療院の薬を薄め、リックさんを攫い、ノアさんを消そうとした商会の印。
そして今、エリシア様を移そうとしている。
「前方の道は?」
レオン様が問う。
オルデン様が窓から外を確認した。
「丘を越えた先で二手に分かれます。左は白鹿修道院の裏道、右は旧採石場へ向かう道です」
「採石場?」
「廃坑がいくつかございます。隠れるには向いています」
「右へ逃げるな」
「おそらく」
私はノアの封蝋片を握った。
熱い。
白手袋越しでも分かるほど、じんじんと熱を持っている。
封蝋から漏れる声は、さっきより近かった。
閉じた窓。
濡れた布。
揺れる馬車。
苦い薬の匂い。
そして、弱い歌。
眠らないで。
忘れないで。
ノアを、守って。
それは母の声だった。
母が子へ残す声。
エリシア様は、意識がはっきりしていないのかもしれない。
でも、封蝋は覚えている。
ノアへ向けた願いを。
「エリシア様は、薬を使われている可能性があります」
私が言うと、レオン様の目が鋭くなった。
「どんな薬だ」
「苦い匂い。施療院で見た黒い薬瓶と似ています。ただ、毒というより眠らせるためのものかもしれません」
「生かして移す必要がある、ということか」
「はい。少なくとも今は」
その言葉を口にして、ぞっとした。
今は生かしている。
でも、追いつかれると分かればどうするか。
ノアの時と同じように、事故死にするかもしれない。
雨。
坂道。
黒馬車。
車輪が滑ったとでも言えば、いくらでも事故に見せられる。
「黒馬車を止める必要があります」
私は言った。
「ただし、横転させてはいけません。中にエリシア様がいます」
「分かっている」
レオン様は護衛へ指示を飛ばした。
「前へ二騎。車輪を狙うな。馬の進路を塞げ。後ろから押すな。崖側へ寄せさせるな」
「はっ!」
護衛二騎が馬車の横を駆け抜け、前方へ向かう。
雨が強くなってきた。
道はぬかるみ、車輪が泥を跳ねる。
黒馬車は逃げるために無理な速度を出していた。
カーブのたびに大きく傾く。
そのたびに、私の胸が冷える。
中の人は大丈夫なのか。
エリシア様は、どんな状態で乗せられているのか。
私は封蝋片を握る手に力を込めた。
その時、黒馬車の小窓から何かが落ちた。
白い布。
雨に濡れながら、道端へ落ちる。
「あれを!」
私が叫ぶと、後続の護衛が馬を寄せ、布を拾い上げた。
すぐに馬車へ届けられる。
オルデン様が革手袋で受け取り、広げた。
白い布切れ。
端には、赤い糸で小さな刺繍があった。
白鹿。
その下に、細い文字。
E.V.
エリシア・ヴァイス。
私は息を呑んだ。
「エリシア様のものです」
レオン様が布を見つめる。
目が揺れた。
指先が伸びかける。
でも、私は先に止めた。
「直接触れないでください」
「分かっている」
彼は苦しげに目を伏せた。
触れたいのだ。
死んだと思っていた叔母が、生きているかもしれない。
その証拠に、触れたい。
けれど、ここにも罠があるかもしれない。
封蝋だけではない。
布にも薬が染みている可能性がある。
私は布へ顔を近づけすぎないようにしながら、刺繍の糸を見る。
赤い糸。
古いが、手入れされている。
そして、端に小さな結び目が三つ。
これは偶然ではない。
「何か縫い込まれています」
私が言うと、オルデン様が慎重に布の端を確認した。
糸を切らず、結び目の隙間から中を探る。
小さな紙片が出てきた。
雨で少し湿っている。
そこには、震えた文字でこう書かれていた。
北棟ではない。
鐘楼の下。
歌を聞いた子だけが道を知る。
私は紙片を見つめた。
「鐘楼の下……」
セルジオ司祭が後続馬車から身を乗り出すように言った。
「白鹿修道院には古い鐘楼があります。今は使われていません。地下納骨堂へ続く通路があると聞いたことがあります」
「地下に隠していた?」
レオン様が低く言う。
「北棟は目隠しだった可能性があります」
私は封蝋片を見る。
白い鹿。
閉じた窓。
女の人の歌。
鐘楼の下。
歌を聞いた子だけが道を知る。
ノアさん。
幼いノアさんは、母の歌を聞いていたのかもしれない。
忘れていても、封蝋に残っていた。
「黒馬車は修道院から出てきました。でも、エリシア様は北棟からではなく、鐘楼の地下にいた可能性があります」
「なら、黒馬車にいるのは」
「エリシア様ご本人か、囮か」
言いながら、私は嫌な感覚に襲われた。
もし囮なら。
でも、声は確かにした。
ノアを守って。
あの馬車に、エリシア様の気配がある。
ただし、すべてではない。
記録か、布か、封蝋か、本人か。
まだ分からない。
「どちらにせよ止める」
レオン様が言った。
「はい」
前方で護衛二騎が黒馬車の進路を狭めた。
黒馬車は左へ避けようとする。
左は修道院の裏道。
右は旧採石場。
御者は一瞬迷い、右へ切った。
「採石場へ逃げます!」
護衛が叫ぶ。
「追え!」
ヴァイス家の馬車も右へ曲がる。
大きく揺れ、私は座席から投げ出されかけた。
レオン様の手が伸び、私の肩を支える。
「大丈夫か」
「はい。レオン様は?」
「問題ない」
「無効です」
「今は本当に問題ない」
「顔色は問題あります」
「後で叱れ」
「今も叱っています」
彼の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
でも次の瞬間、馬車がさらに大きく跳ねた。
採石場へ向かう道は狭く、片側は斜面、反対側は低い崖になっている。
雨で路面は泥になり、車輪の跡が深く刻まれていた。
黒馬車はその道を危険な速度で走っている。
このままでは、本当に横転する。
「止める前に、向こうが事故を起こします」
私は言った。
「御者が焦っている」
「焦っているのではない」
レオン様が目を細めた。
「わざと危険な道へ入った」
その意味を理解し、背筋が冷えた。
追ってくる私たちを巻き込むため。
あるいは、馬車を事故に見せて中の証拠を消すため。
黒馬車の後部扉が少し開いた。
中から、黒い外套の男が顔を出す。
手には小瓶。
黒い薬ではない。
油だ。
「道に撒く気です!」
私が叫ぶ。
次の瞬間、男は小瓶を道へ投げた。
油が雨に混じり、泥の上に広がる。
前方の護衛馬が足を取られかけ、必死に立て直す。
御者が手綱を引く。
私たちの馬車も速度を落とした。
その間に、黒馬車はさらに先へ逃げる。
「卑怯な」
オルデン様が低く言った。
レオン様は窓から身を乗り出そうとする。
私は彼の袖を掴んだ。
「出ないでください」
「指示が届かない」
「私が伝えます」
私は窓を開け、雨の中へ声を張った。
「前方の油を避けてください! 左の草地へ馬を逃がして、馬車は速度を落として通過! 追撃騎は無理に詰めないでください!」
護衛がこちらを振り返る。
レオン様の指示ではない。
私の声だ。
でも一瞬の後、護衛たちは動いた。
私を文書監査人として、婚約者として、そしてここまで共に来た立会人として認めてくれたのかもしれない。
馬車は速度を落とし、左の草地に片輪を乗せるようにして油の泥を避けた。
大きく揺れる。
けれど、倒れない。
その時、ノアの封蝋片がまた熱くなった。
私は目を閉じる。
歌。
今度は、少しはっきり聞こえる。
ラ、ラ、ラ。
白鹿は夜を越え。
鐘の下で朝を待つ。
子鹿よ、泣かずに。
母は道を覚えている。
胸が締めつけられた。
これは子守歌だ。
エリシア様がノアさんへ歌っていた歌。
歌を聞いた子だけが道を知る。
鐘楼の下。
母は道を覚えている。
「道……」
私は窓の外を見た。
採石場へ向かう道。
右の崖。
左の斜面。
そして、その先に古い石橋のようなものが見える。
いいえ、橋ではない。
古い排水路。
丘陵の地下へ続く水抜き穴。
鐘楼の地下納骨堂へ、古い排水路が繋がっているのかもしれない。
「レオン様」
「何だ」
「黒馬車は採石場へ逃げているのではありません」
私は前方を指した。
「あの排水路へ向かっています」
「排水路?」
「白鹿修道院の地下へ繋がる道かもしれません。エリシア様を地下から移したなら、地上の正門ではなく、古い排水路を使った可能性があります」
セルジオ司祭が後ろから叫ぶ。
「あり得ます! 古い修道院は、納骨堂と排水路が繋がっていることがあります!」
「黒馬車を排水路入口へ入れさせてはいけません!」
私が叫ぶと、護衛たちが前へ出た。
だが道は狭い。
馬車を止めるには危険すぎる。
黒馬車の御者は、さらに速度を上げた。
前方の排水路入口は低い石造りの門。
馬車ごと入るにはぎりぎりだ。
入れれば、外から追うのは難しい。
しかし、速度を落とさず突っ込めば、馬車が門にぶつかる。
中の人が危ない。
「止まれ……!」
レオン様が低く呟く。
その声には怒りではなく、祈りのようなものが混じっていた。
私は白手袋の指先を握った。
黒馬車の後部扉。
そこに、封蝋がある。
麦と天秤の黒い封。
雨に濡れている。
距離がある。
触れない。
でも、強い悪意は遠くても届く。
止まるな。
証人を残すな。
女を眠らせろ。
文書を燃やせ。
私はその奥に、別の気配を探した。
弱い声。
歌。
白い鹿。
ノアを守って。
いた。
確かに、あの馬車の中にいる。
「エリシア様!」
私は思わず窓から身を乗り出して叫んだ。
「ノアさんは無事です!」
雨音の中、私の声がどこまで届いたか分からない。
でも。
黒馬車の布で覆われた小窓が、わずかに揺れた。
内側から。
誰かが、反応した。
「ノアさんは生きています! リックさんも戻りました! あなたの歌を、封蝋が覚えています!」
黒馬車の速度が、ほんの少し落ちた。
御者が慌てて鞭を振る。
だが、馬が乱れた。
中から何かが起きている。
エリシア様が意識を取り戻したのか。
それとも、声に反応して動いたのか。
黒馬車が大きく揺れた。
排水路入口の手前で、車輪が泥の溝に取られる。
御者が手綱を引く。
馬が嘶く。
護衛二騎がその隙に前へ回り込んだ。
「今です!」
私は叫んだ。
護衛が黒馬車の馬の前へ横から入り、進路を塞ぐ。
別の護衛が後方から近づき、車体を崖側へ寄せないよう支える。
黒馬車はぎりぎりのところで止まった。
排水路入口まで、あと数歩。
雨が激しく降る。
馬が荒い息を吐く。
黒馬車の扉が内側から叩かれた。
どん、と弱い音。
私は馬車から降りようとした。
レオン様も同時に動く。
「レオン様は待って」
「待てない」
「倒れたら」
「叔母がいる」
その声に、私は止められなかった。
でも、腕を支えることはできる。
「では、私の肩を使ってください」
「君が潰れる」
「潰れません」
「軽すぎる」
「今それを言いますか」
レオン様は一瞬だけ言葉を失った。
私は彼の腕を取り、馬車を降りた。
雨が全身を濡らす。
銀灰色のドレスの裾が泥を吸う。
でも構わない。
これは戦装束だ。
綺麗なまま戻るための服ではない。
黒馬車の御者は拘束されていた。
後部扉の前には、黒い外套の男が一人、短剣を抜いている。
護衛が囲む。
男は扉を背に叫んだ。
「近づくな! 中の女がどうなっても」
その言葉の途中で、扉の内側からまた音がした。
どん。
今度は少し強い。
そして、掠れた女性の声。
「……ノア」
レオン様が息を呑んだ。
私も胸が詰まった。
エリシア様。
生きている。
男が顔を歪め、扉に手をかけようとした。
その瞬間、セルジオ司祭が低く言った。
「その手を止めなさい」
声は静かだったが、重かった。
「教会監査司祭として命じます。白鹿修道院関係者、あるいは監禁対象者への危害は、教会法違反として即時拘束対象です」
男は嘲笑う。
「司祭が剣を止められるか」
「私ではなく」
セルジオ司祭は後ろを見た。
「彼らが止めます」
護衛が一斉に動いた。
短剣を持つ手を打ち払い、男を地面へ押さえる。
泥が跳ねた。
男は叫んだが、すぐに拘束された。
扉の前が開く。
黒い封蝋が押された扉。
麦と天秤。
その上に、黒紫の粉。
私は手を伸ばしかけ、止めた。
触ってはいけない。
この封は、最後の罠かもしれない。
「封を確認します」
私は言った。
レオン様が焦るように扉を見る。
「中に叔母が」
「だからこそです」
私は封蝋を見つめた。
開けるな。
開ければ眠れ。
証言を失え。
やはり、罠がある。
扉を無理に開ければ、中の人へ薬か契約反応が向かう仕掛け。
私は息を整えた。
「この封、開封反応があります。扉をそのまま開けると、中のエリシア様に何かが作用する可能性があります」
「解除できるか」
レオン様が問う。
「触れずに完全解除は難しいです」
「なら」
「でも、迂回できます」
私は黒馬車の側面を見た。
布で覆われた小窓。
そこにも簡易封。
だが、後部扉より弱い。
「扉ではなく、窓から声をかけます」
私は窓へ近づいた。
護衛が布を慎重に切る。
内側には木板が打ちつけられていたが、隙間がある。
そこから、薬の匂いと湿った空気が漏れた。
「エリシア様」
私は呼びかけた。
中で、かすかな衣擦れの音がする。
「私はセラフィナ・ロウエルです。ヴァイス公爵家の文書監査人です。レオンハルト様と一緒に来ました」
返事はすぐにはなかった。
雨音だけが響く。
私はノアの封蝋片を窓の近くへかざした。
「ノアさんは無事です。リックさんも戻りました。あなたの子守歌を、封蝋が覚えていました」
中から、小さな息を呑む音。
そして、掠れた声。
「……ノアは」
「生きています」
「泣いて……いない?」
私は胸が締めつけられた。
「泣いていました。でも、リックさんと再会しました」
沈黙。
それから、かすかな嗚咽。
「よかった……」
レオン様が目を閉じた。
その顔には、痛みと安堵が混じっていた。
「叔母上」
彼が声をかける。
中の気配が止まる。
「レオンハルトです。アルベルトの息子です」
長い沈黙。
そして、信じられないほど弱い声が返った。
「……レオン、ハルト」
「はい」
「大きく……なったのね」
その一言で、レオン様の表情が崩れかけた。
彼は必死にこらえた。
冷徹公爵と呼ばれた人の顔ではなかった。
家族を取り戻しかけている、一人の甥の顔だった。
「助けます」
レオン様は低く言った。
「必ず」
エリシア様は小さく咳き込んだ。
「扉は……開けてはだめ。封が……薬と繋がっている」
「分かっています」
私は答えた。
「解除します。少しだけ待ってください」
「あなたが……封蝋読み?」
「はい」
「兄が……呼んだ子……」
その言葉に、赤い家門封が遠くで光ったような気がした。
私は白手袋の指先を握った。
「はい。先代公爵様の封に導かれて来ました」
エリシア様は、窓の奥で静かに言った。
「なら……馬車の床を見て。扉ではなく……床下に、逃がし封がある」
床下。
私はすぐに護衛へ指示した。
「馬車の下を確認してください! ただし封に直接触れないで!」
護衛が泥の中へ膝をつき、車体下を覗き込む。
「あります! 小さな赤い封です!」
「紋は?」
「白鹿と……小さな狼!」
エリシア様が、自分で残した封。
扉の罠ではなく、床下の逃がし封。
私はレオン様を見た。
彼は頷いた。
「やれ」
私は深く息を吸った。
雨。
泥。
黒馬車。
薬の匂い。
扉の罠。
床下の赤い封。
触れれば代償は大きいかもしれない。
でも、ここまで来た。
私は白手袋を確かめ、膝をついた。
「エリシア様」
私は窓へ向けて言った。
「あなたの封を、開きます」
中から、弱い声が返る。
「お願い……ノアを、守って」
「はい」
私は床下の赤い封へ手を伸ばした。
白鹿と小さな狼。
冷たい雨の中、その封蝋だけが微かに温かかった。




