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第33話 青い封鎖札を破れ

 北西へ向かう橋は、青い封鎖札で塞がれていた。


 王宮文書局の封蝋。


 理由は、老朽化点検。


 だが、封蝋から漏れてきた感情は、点検などではなかった。


 急げ。

 移せ。

 北棟を空にしろ。


 白鹿修道院の北棟。


 エリシア様がいるかもしれない場所。


 そこを空にする。


 つまり、私たちが辿り着く前に、エリシア様をどこかへ移すつもりなのだ。


「レオン様」


 私は窓の外の封鎖札を見つめたまま言った。


「これは、本物の点検封ではありません」


「分かるか」


「はい。封蝋に老朽化点検の気配がありません。橋、石工、修繕、事故防止……そういう感情が一つもない」


 あるのは、焦り。


 隠蔽。


 移送。


 そして、時間稼ぎ。


 馬車の外で護衛たちが周囲を確認している。


 橋の入口には、王宮文書局の下級文官が二人、衛兵が四人。


 彼らはあらかじめ待っていたように配置されていた。


 偶然ではない。


 王宮文書局を出てから、まだそれほど時間は経っていない。


 だが相手はすでに、この橋を塞いでいた。


 こちらの行き先を読んでいたのだ。


 白鹿修道院へ向かう主要道。


 そこを塞げば、私たちは大きく迂回せざるを得ない。


 その間に、北棟を空にする。


「迂回すれば、どれほどかかりますか」


 私はオルデン様へ尋ねた。


「通常なら一刻半ほど余分に。馬を急がせても、一刻は失います」


 一刻。


 十分すぎる時間だった。


 エリシア様を馬車に乗せるにも、記録を燃やすにも、人を黙らせるにも。


「迂回はしない」


 レオン様が言った。


 彼はまだ長椅子に身体を預けている。


 薬湯を飲んだとはいえ、顔色は白い。


 それでも、その声に迷いはなかった。


「封鎖を解除する」


「王宮文書局の札です」


 オルデン様が慎重に言う。


「無断で剥がせば、妨害として扱われます」


「無断では剥がさない」


 私は言った。


「形式で破ります」


 レオン様がこちらを見る。


「どうする」


「まず、封鎖命令書を確認します。封鎖札だけでは、橋を止める根拠として不十分です。点検なら、点検責任者、期間、橋梁管理者、迂回案内、緊急通行の可否が必要です」


 私は窓の外の札を見る。


「この札には、封鎖理由しか書かれていません」


 クラリッサ夫人が、後続の馬車から降りてきた。


 彼女も封鎖札を見て、すぐに眉をひそめる。


「ずいぶん粗い封鎖札ですね」


「やはり、そう見えますか」


「ええ。王宮文書局の札を使ってはいますが、道路封鎖の手続きとしては不十分です。老朽化点検なら、土木庁か橋梁管理官の添え印が必要です」


 セルジオ司祭も馬車から降りた。


「白鹿修道院へ向かう道を塞ぐなら、教会側にも通知が来るはずですが、私は受けておりません」


「つまり」


 私は言った。


「王宮文書局単独の、不完全な封鎖です」


 レオン様がゆっくり起き上がろうとした。


 私はすぐに止める。


「レオン様は馬車の中で待ってください」


「私が出た方が早い」


「倒れたら遅くなります」


「……」


「契約書」


「分かった」


 不満そうではあるが、レオン様は座り直した。


 私は少しだけほっとする。


 今は一分一秒が惜しい。


 でも、レオン様が倒れればさらに時間を失う。


 敵が狙っているのは、まさにそこだ。


 焦らせる。


 無理をさせる。


 契約反応を強める。


 だからこちらは、急ぎながらも崩れてはいけない。


「私が行きます」


 私は言った。


 レオン様の目がすぐに鋭くなる。


「一人では行かせない」


「もちろんです。クラリッサ夫人、セルジオ司祭、オルデン様に同席をお願いします」


「私も行く」


「レオン様は馬車です」


「セラフィナ」


「お願いです」


 私は彼の目を見た。


「ここは、私に任せてください。あなたは白鹿修道院へ着いた時に立っていなければなりません」


 彼は何か言いかけ、黙った。


 そして、低く言う。


「無理はするな」


「はい」


「触るな」


「触りません」


「危ないと思ったら下がれ」


「努力します」


「そこは約束しろ」


「……約束します」


 レオン様はようやく頷いた。


 私は馬車を降りた。


 銀灰色のドレスの裾が風に揺れる。


 白手袋の指先を整え、髪の狼と小鳥の飾りを確かめる。


 王宮文書局を出た時より、空は暗くなっていた。


 雨が降り出しそうな匂いがする。


 橋の入口へ向かうと、下級文官の一人がすぐに前へ出た。


「この橋は老朽化点検のため通行止めです。迂回を」


「封鎖命令書を確認します」


 私は言った。


 文官は一瞬、私を見下ろすようにした。


「王宮文書局の封鎖札が見えませんか」


「見えます。ですから、根拠書面を求めています」


「急な点検です」


「急な点検であっても、封鎖責任者と管理権限者の記載が必要です」


 文官の顔に苛立ちが浮かぶ。


「あなたは何者ですか」


「セラフィナ・ロウエル。ヴァイス公爵家正式婚約者、ならびに臨時文書監査人です」


 私の隣にクラリッサ夫人が立つ。


「王宮礼法顧問クラリッサ・フォン・ルヴェールです。本件、手続き確認に立ち会います」


 さらにセルジオ司祭が続く。


「教会監査司祭セルジオです。白鹿修道院への緊急監査途上につき、封鎖理由を確認します」


 文官の顔色が変わった。


 下級文官二人だけなら、私を雑に追い返せたかもしれない。


 でも、礼法顧問と教会監査司祭が横に立てば、そうはいかない。


「命令書を」


 クラリッサ夫人が言った。


「提示なさい」


「……こちらです」


 文官はしぶしぶ筒を取り出した。


 しかし、その手の動きが遅い。


 時間を稼いでいる。


 私は言った。


「すぐに」


 文官は私を睨んだが、クラリッサ夫人の視線を受けて筒を開いた。


 出てきた命令書には、確かに王宮文書局の青い封蝋が押されている。


 だが、見た瞬間に分かった。


 さっきの封鎖札と同じ。


 青い蝋の下に、黒紫の粉が混じっている。


 私は直接触れず、文書受け皿の上に置かれた命令書を覗き込んだ。


 表題。


 北西橋梁一時封鎖命令。


 理由、老朽化点検。


 期間、本日正午より日没まで。


 発行、王宮文書局橋梁文書管理補佐。


 署名は、読めないほど崩れている。


 印は王宮文書局。


 だが、橋梁管理官の印がない。


 土木庁の添え印もない。


 迂回路の記載もない。


 緊急通行の例外条項もない。


「不備があります」


 私は言った。


 文官はすぐに返す。


「緊急ですので」


「緊急であればこそ、不備は許されません」


 私は命令書の端を指さした。


「橋梁管理官の印がありません。土木庁の添え印もありません。封鎖範囲が橋の入口のみで、対岸側の封鎖確認がありません。迂回案内もない。さらに、緊急監査、医療搬送、王宮命令通行の例外規定がありません」


 クラリッサ夫人が頷く。


「道路封鎖文書としては失格です」


 文官の額に汗が滲む。


「しかし、王宮文書局の命令で」


「王宮文書局は橋の物理管理者ではありません」


 私は言った。


「橋に関する文書を保管していても、橋そのものを止める権限は別です」


 セルジオ司祭が続く。


「加えて、白鹿修道院への教会監査を妨げる結果になっています。教会側への通知なく修道院道を封鎖した理由を説明してください」


「それは……」


 文官は答えられない。


 私は命令書をさらに見た。


 署名欄。


 崩れた文字。


 しかし、癖がある。


 最後の払いが、上へ跳ねる。


 どこかで見た。


 エリアス様の略式署名。


 いや、違う。


 同じグレン家の筆跡に似ている。


 ヴィクトル・グレン。


 本人が署名を隠したか、下級文官に似せさせたか。


 いずれにせよ、命令系統は同じところへ伸びている。


「この署名者名を読み上げてください」


 私は言った。


「……橋梁文書管理補佐です」


「氏名を」


「規定により」


「氏名を」


 クラリッサ夫人の声が重なる。


 文官は唇を噛んだ。


「ヴィ……いえ、ヴァルター・グレイです」


「今、ヴィ、と言いかけましたね」


 文官の顔色が変わる。


「言っていません」


「では、記録ではヴァルター・グレイという署名者ですね。本人確認はできますか」


「本日は不在です」


「発行者不在。権限印不足。管理官印なし。教会通知なし。緊急例外なし」


 私は一つずつ言った。


「この封鎖は無効です」


 文官が声を荒げる。


「あなたに無効を宣言する権限はない!」


「私ではなく、手続きがそう示しています」


「どけるわけにはいかない!」


「では、通行妨害として記録します」


 オルデン様がすでに筆を取っていた。


 クラリッサ夫人が冷たく言う。


「王宮礼法顧問としても記録します。正式婚約者を伴う公爵家の緊急移動、かつ教会監査司祭の修道院監査を、権限不備の封鎖札で妨げた、と」


 セルジオ司祭も頷く。


「教会監査妨害としても記録します」


 文官の顔が青ざめた。


 だが、その時、後ろの衛兵が一歩前へ出る。


「命令がある以上、通せません」


 低い声。


 こちらは、文官より強硬だった。


 槍の柄が道を塞ぐように置かれる。


 レオン様の護衛たちも動く。


 一気に空気が張り詰めた。


 私は息を整える。


 ここで武力衝突になれば、完全に相手の思うつぼだ。


 時間が失われる。


 こちらに傷がつく。


 だから、まだ書類で行く。


「衛兵の方」


 私は言った。


「あなた方が受けた命令は、橋を通すな、ですか」


「そうだ」


「対象は全員ですか。それとも、ヴァイス公爵家一行のみですか」


 衛兵が一瞬止まった。


「全員だ」


「では、対岸側からこちらへ来る者も止めていますか」


「……」


「橋の反対側に封鎖人員はいますか」


 衛兵は答えない。


 私は橋を見た。


 対岸には人影がない。


 つまり、一方だけの封鎖。


 こちらを止めるためだけの札。


「老朽化点検なら、片側だけを封鎖しても意味がありません」


 私は言った。


「この橋は危険なのではなく、私たちを止めるために封鎖されています」


 文官が叫ぶ。


「推測だ!」


「では、対岸側の封鎖確認記録を提示してください」


 沈黙。


 もう、ほとんど答えだった。


 その時、私の鞄の中でノアの封蝋片がまた熱を持った。


 白い鹿。


 閉じた窓。


 女の人の歌。


 そして、今度は別の感情。


 馬車の車輪。

 布で覆われた窓。

 泣かないで。

 歌を覚えていて。


 私は息を呑んだ。


「移送が始まっています」


 レオン様が馬車の中から声を上げた。


「何?」


「封蝋が反応しました。エリシア様と思われる方が、馬車で移されようとしています」


 護衛たちの顔色が変わる。


 オルデン様が即座に言う。


「強行突破を」


「まだです」


 私は封鎖札を見た。


 青い蝋。


 黒紫の粉。


 急げ。移せ。北棟を空にしろ。


 怒りで指先が冷える。


 でも、冷静でなければならない。


 私は文官へ向き直った。


「この封鎖命令書は不備により無効です。さらに、証人移送を隠すための時間稼ぎである疑いがあります」


「侮辱だ!」


「記録です」


「通せない!」


「では、正式に封を破ります」


 文官が目を見開く。


「何を」


 私はクラリッサ夫人を見る。


「夫人。無効封鎖札の解除に立ち会っていただけますか」


「立ち会います」


 セルジオ司祭を見る。


「司祭様。教会監査妨害の除去として、証言いただけますか」


「証言します」


 オルデン様を見る。


「ヴァイス公爵家の緊急証人保護記録として」


「記録しております」


 私は白手袋の上から、封印具を取り出した。


 蔦と小鳥の印。


 封鎖札に触れず、札の下に新しい羊皮紙を差し込む。


 そこに、解除理由を書く。


 王宮文書局封鎖札、権限印不足。

 橋梁管理官印なし。

 土木庁添え印なし。

 対岸封鎖確認なし。

 教会監査通知なし。

 緊急通行例外なし。

 証人保護妨害疑義あり。

 よって、本封鎖を一時無効として通行する。


 最後に、私の署名。


 クラリッサ夫人の立会い署名。


 セルジオ司祭の監査署名。


 オルデン様の記録署名。


 そして、馬車の中からレオン様が手を伸ばした。


 まだ顔色は悪い。


 それでも、白銀の狼の封印具を押す。


 赤い蝋に、狼が刻まれる。


「ヴァイス公爵家当主として、通行する」


 その一言で、護衛たちの背筋が伸びた。


 私は自分の琥珀色の蝋に、小鳥と蔦を押した。


 封鎖札の青い封蝋が、ぱきりと小さく鳴る。


 黒紫の粉が、わずかに浮き上がった。


 そこから感情が漏れる。


 止めろ。

 遅らせろ。

 北棟の馬車を出せ。


 私は言った。


「やはり、この封は移送命令と連動しています」


 青い封蝋がさらに震える。


 文官が後ずさった。


「何をした……」


「何も。封が勝手に話しました」


 その瞬間、クラリッサ夫人が衛兵へ向き直った。


「道を開けなさい」


 衛兵は迷う。


 だが、セルジオ司祭が続ける。


「このまま妨害すれば、教会監査対象です」


 オルデン様も言う。


「ヴァイス公爵家は、後ほど正式抗議を提出します。今ここで槍を向けた者の名も記録します」


 衛兵たちは互いを見る。


 そして、ついに槍を下げた。


 道が開いた。


「馬車を!」


 オルデン様が叫ぶ。


 護衛たちが一斉に動く。


 封鎖札は剥がさない。


 その横に、こちらの解除記録を貼り付ける。


 青い封に、赤い狼と琥珀の小鳥が並ぶ。


 偽の封鎖を破った記録として。


 馬車が橋へ進む。


 車輪が石橋の上で重い音を立てる。


 私は馬車に乗り込むと同時に、レオン様の様子を見た。


 彼は息を整えているが、まだ苦しそうだ。


「横になってください」


「分かっている」


「封印具を押しただけで顔色が悪くなりました」


「君も読んだだろう」


「私はまだ立てます」


「それは理由にならない」


「では、二人とも休みます」


 そう言うと、レオン様は少しだけ意外そうな顔をした。


 私は蜂蜜湯の小瓶を取り出し、自分で一口飲む。


「これで公平です」


「……君は本当に」


「厄介ですか」


「ああ」


 彼は目を伏せた。


「頼もしいくらいに」


 胸が、静かに跳ねた。


 けれど、甘さに浸る時間はない。


 馬車は橋を渡りきり、北西へ向けて速度を上げる。


 クラリッサ夫人の馬車と、セルジオ司祭の馬が後に続く。


 護衛たちは前後左右についた。


 橋を抜けた先の道は、丘陵へ向かって緩やかに上っている。


 遠くに、白い塔が見えた。


 白鹿修道院。


 その尖塔だ。


 けれど、同時にもう一つ見えた。


 修道院へ続く脇道から、一台の黒い馬車が出てくる。


 窓には厚い布。


 紋章はない。


 だが、車輪の側面に小さな印が刻まれている。


 麦と天秤。


 クラウス商会。


「前方、黒馬車!」


 護衛が叫ぶ。


 レオン様が身体を起こす。


「追え」


「横に」


「今は無理だ」


「レオン様!」


「セラフィナ」


 彼は私を見た。


 目は鋭い。


 でも、その奥に痛みがある。


「叔母が、あそこにいるかもしれない」


 私は言葉を飲み込んだ。


 止められない。


 止めてはいけない。


 でも、倒れさせてもいけない。


「分かりました」


 私は言った。


「追います。ただし、あなたは馬車から出ないでください」


「状況による」


「契約違反です」


「あとで叱られる」


「今、叱ります」


 レオン様がほんの一瞬だけ目を丸くした。


 こんな時に、と自分でも思う。


 でも、このやり取りが彼を少しだけ現実に引き戻す。


 怒りだけで動かないように。


 痛みを忘れないように。


 生きて辿り着くために。


 馬車は速度を上げた。


 黒馬車もこちらに気づいたのか、急に加速する。


 丘陵の道に、蹄の音が響く。


 空からついに雨粒が落ち始めた。


 ぽつり、ぽつりと窓を叩く。


 私はノアの封蝋片を握った。


 白い鹿。


 閉じた窓。


 女の人の歌。


 そして今、はっきりと聞こえた。


 歌ではない。


 声だ。


 弱く、掠れた女性の声。


 ノアを、守って。


 私は息を止めた。


「レオン様」


「何だ」


「エリシア様の声がしました」


 彼の瞳が、大きく揺れる。


 私は黒馬車を見つめた。


 雨の向こうで、布に覆われた窓が揺れている。


「間違いありません」


 私は震える声で言った。


「あの馬車に、エリシア様がいます」

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