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第32話 白鹿修道院へ

「エリシア様は、まだ、生きている可能性があります」


 自分で口にした言葉なのに、その重さに息が止まりそうになった。


 エリシア・ヴァイス。


 先代公爵アルベルト様の妹。


 二十年前に病死したと記録されていた女性。


 その名が、三か月前の黒い帳簿に残っている。


 白鹿修道院、北棟管理費。

 対象、E.V.


 死者に管理費はかからない。


 死者に北棟の部屋は必要ない。


 それは、あまりにも単純で、だからこそ恐ろしい事実だった。


 レオン様は確認台に手をついたまま、黒い帳簿の要約写しを見つめていた。


 顔色は悪い。


 けれど、その瞳には今までと違う色があった。


 驚き。


 怒り。


 そして、わずかな希望。


「叔母が……生きている?」


 その声は、低く掠れていた。


 オルデン様が震えるように息を吸う。


「エリシア様が……白鹿修道院に……?」


 老家令の顔には、普段の冷静さがなかった。


 ヴァイス家で長く仕えた人だからこそ、その名の重みを知っているのだろう。


 一方で、オスカー様の顔からは完全に血の気が引いていた。


 先ほどまでの余裕も、皮肉も、穏やかな仮面もない。


 杖を握る手だけが、異様に白い。


 ヴィクトル・グレンは扉の外で黙り込んでいる。


 イザークは目を伏せていた。


 その沈黙が、何よりの答えだった。


「白鹿修道院とは、どこですか」


 私が尋ねると、セルジオ司祭がすぐに答えた。


「王都北西の丘陵地にある古い修道院です。表向きは静養施設を兼ねています。貴族女性が病後療養や世俗離れのために滞在することもあります」


「北棟とは」


「一般の修道女や療養者が入る場所ではありません。高位寄進者、あるいは特別管理対象者のための閉鎖棟です」


 閉鎖棟。


 その言葉に、胸が冷える。


「本人の意思で入れる場所ですか」


 セルジオ司祭は沈黙した。


 その沈黙だけで、答えは十分だった。


「場合によります」


 彼は慎重に言った。


「ただ、北棟は外部との面会が制限されます。手紙も、修道院長または後見人の確認を経るはずです」


「後見人」


 私はその言葉を繰り返した。


「エリシア様が生きているとして、誰が後見人になっている可能性がありますか」


 全員の視線が、自然とオスカー様へ向いた。


 オスカー様は、ゆっくりと顔を上げた。


「馬鹿げている」


 彼は低く言った。


「黒い帳簿の一項目だけで、エリシアが生きているなどと」


「一項目だけではありません」


 私は答えた。


「エリシア様の死亡記録偽造疑義。ノアさんの出生登録。孤児院名簿からの削除。先代公爵様の封書。相続調査制限契約の発動条件。そして、三か月前の白鹿修道院北棟管理費」


 一つずつ並べる。


 逃げ道を塞ぐように。


「すべてが同じ方向を指しています」


「君の解釈だ」


「では、確認しましょう」


 私はまっすぐオスカー様を見た。


「白鹿修道院へ行けば分かります」


 その瞬間、オスカー様の表情が変わった。


 ほんの一瞬だけ。


 けれど、今度は隠せなかった。


 行かせたくない。


 その感情が、顔に出た。


「白鹿修道院は王宮文書局の管轄ではない」


 ヴィクトルが扉の外から口を挟んだ。


「今すぐ向かう理由はない」


「あります」


 私は即答した。


「証人である可能性がある方の保護です」


「可能性にすぎない」


「ノアさんの襲撃未遂が起きた直後です。エリシア様が生きているなら、同じく危険にさらされます」


「修道院は安全だ」


 ヴィクトルの声は硬かった。


「では、なぜ黒い帳簿に管理費が載っているのですか」


 私は問う。


「安全な修道院にいるだけなら、クラウス商会や王宮文書局確認印、オスカー様の名と結びついた帳簿に載る理由がありません」


 ヴィクトルは答えなかった。


 クラリッサ夫人が静かに言った。


「この場で確認すべきことは終わりつつあります。第七封庫内で発見された文書、契約、紙片、証言は保全されました。次は関連証人の保護が優先されるべきでしょう」


「ルヴェール夫人」


 ヴィクトルの声が冷える。


「あなたは礼法顧問であって、捜査官ではない」


「承知しております」


 クラリッサ夫人は怯まなかった。


「ですから、礼法上申し上げます。王宮文書局が公爵家の婚約者を花嫁候補審査の名で拘束し続けることは、もはや不適切です」


 まただ。


 彼らが仕掛けた審査が、こちらの盾になる。


 セルジオ司祭も頷いた。


「教会監査としても、白鹿修道院の件は看過できません。修道院が教会管轄施設である以上、私にも確認権限があります」


「今すぐ行くつもりか」


 ヴィクトルが問う。


「はい」


 セルジオ司祭は静かに答えた。


「エリシア・ヴァイス様の生存疑義、死亡記録偽造疑義、北棟管理費支払い疑義。三つ揃えば、緊急監査の理由になります」


 ヴィクトルの顔が歪む。


 オスカー様は黙っていた。


 その沈黙が、逆に怖い。


 この人たちは、何かを考えている。


 私たちをここで止められないなら、白鹿修道院側で何かをするはずだ。


 移送。


 隠蔽。


 事故。


 ノアに対して用意されていたものと同じことが、エリシア様にも起きるかもしれない。


「レオン様」


 私は彼へ向き直った。


「すぐに白鹿修道院へ向かうべきです」


「ああ」


 レオン様は短く答えた。


 その声に迷いはなかった。


 ただし、彼の身体は限界に近い。


 左手の震えは続いている。


 額には薄く汗が滲んでいた。


「ですが、レオン様は」


「行く」


「契約書の休息条項では」


「叔母が生きているかもしれない」


 その一言に、私は言葉を失った。


 止めたい。


 でも、その気持ちも分かってしまう。


 死んだと思っていた家族が、生きているかもしれない。


 しかも、誰かに閉じ込められているかもしれない。


 行くなと言えるはずがない。


 だから、私は別の言い方を選んだ。


「では、馬車で休みながら行きます」


 レオン様が私を見る。


「何?」


「白鹿修道院へ向かうことには反対しません。ただし、道中は横になってください。薬湯も飲んでください。契約反応が強まった場合、私の指示で一時停止します」


「君は」


「約束しました」


 私はまっすぐ見返した。


「倒れないと」


 レオン様は黙った。


 しばらくして、少しだけ目を伏せる。


「分かった」


「本当に?」


「本当にだ」


「記録します」


「そこまでか」


「はい」


 レオン様は小さく息を吐いた。


 その横で、オルデン様がどこか安心したように筆を走らせる。


 この状況で笑う余裕はない。


 それでも、ほんの少しだけ場の空気が戻った。


 レオン様が扉の外へ向き直る。


「王宮文書局長代理ヴィクトル・グレンに告げる」


 その声は、先ほどより弱い。


 だが、確かに当主の声だった。


「本日の第七封庫確認により、先代ヴァイス公爵遺言保管封、相続調査制限契約、エリシア・ヴァイス死亡記録、ノア・エリシア・ヴァイスの身元、オスカー・ヴァイスの生存および関与疑義に重大な問題が確認された」


 オルデン様が記録する。


 クラリッサ夫人も、セルジオ司祭も聞いている。


「発見文書および契約原本は、複数立会人のもと保全済み。これ以上、王宮文書局単独での再封、移動、破棄、追記、差し替えを禁ずる」


 ヴィクトルが口を開こうとしたが、レオン様は続けた。


「ヴァイス公爵家当主として、私はこれより白鹿修道院へ向かう。目的は、エリシア・ヴァイス生存疑義の確認、および証人保護だ」


「許可できない」


 ヴィクトルが即座に言った。


「王宮文書局の聴取が終わっていない」


「任意聴取だったはずだ」


 レオン様の声が冷たくなる。


「任意なら、今は応じない」


「王宮命令に切り替えることもできる」


「なら正式書面を出せ」


 同じ言葉。


 でも今度は、さらに重かった。


「命令者、根拠、拘束理由、利害関係、証人保護を妨げる理由を明記しろ。さらに、ノア襲撃未遂と白鹿修道院管理費の発見後に、なぜ私たちの退出を妨げる必要があるのか書け」


 ヴィクトルは黙った。


 書けるはずがない。


 書けば、自分で証拠を残すことになる。


 レオン様は一歩、扉へ向かった。


 私はすぐに横へ並ぶ。


 彼の歩調はわずかに乱れていた。


 だから私は、そっと腕を取った。


 契約書に書いた通りの、節度ある接触。


 護衛上必要な場合。


 体調不良時の介助。


 今は、その両方だ。


 レオン様が私を見る。


「セラフィナ」


「前を見てください」


「君がそれを言うのか」


「はい」


 私は小さく答えた。


「必要な距離は、私が取ります」


 彼の瞳が、ほんの少し揺れた。


 そして、何も言わずに前を向いた。


 私たちは第七封庫の扉へ向かう。


 ヴィクトルの配下らしい衛兵が道を塞ごうとした。


 だが、クラリッサ夫人が先に出た。


「お退きなさい」


「しかし」


「この方々は、王宮文書局により正式に入室を認められた立会人です。そして今、封庫確認を終えて退出します。正式な拘束命令書がない以上、身体的に妨げることは礼法上も手続き上も認められません」


 衛兵たちは迷う。


 次に、セルジオ司祭が歩み出た。


「教会監査司祭として、私も同行します。白鹿修道院の件は教会監査対象です。妨げる場合、教会監査妨害として記録します」


 衛兵たちの顔色が変わった。


 王宮文書局だけならともかく、教会監査と礼法顧問が同時に立つと、簡単には動けない。


 ヴィクトルが奥歯を噛むように言った。


「……通せ」


 道が開く。


 その瞬間、イザークが低く言った。


「白鹿修道院へ行っても、何も見つかりませんよ」


 私は振り返った。


 イザークは、また薄い微笑みを取り戻していた。


 けれど、その目は笑っていない。


「二十年前の亡霊を追っても、得るものはない」


「三か月前の管理費です」


 私は答えた。


「亡霊にしては、最近ですね」


 イザークの笑みが消えた。


 オスカー様が静かに口を開く。


「エリシアが生きていたとしても、会えるとは限らない」


 その言葉に、レオン様が足を止めた。


「生きていると認めるのか」


 オスカー様は微笑んだ。


 失言ではない。


 わざとだ。


 挑発している。


「仮定の話だよ」


「ならば、その仮定を確認する」


「確認した先に、お前の望むものがあるとは限らない」


 オスカー様の声は、ひどく静かだった。


「エリシアがお前を歓迎するとは限らない。兄の遺言を信じる甥など、見たくないかもしれない」


 レオン様の身体が強張る。


 私は腕を取る手に、少しだけ力を込めた。


「行きましょう、レオン様」


 彼は私を見た。


「ここで聞く必要はありません。オスカー様の言葉ではなく、エリシア様ご本人に確認しましょう」


 レオン様は目を伏せ、そして頷いた。


「ああ」


 私たちは歩き出した。


 第七封庫を出る。


 青い扉の向こうへ。


 冷たい石の廊下を進むたび、王宮文書局の空気が背中へ絡みつくようだった。


 ここに残された封蝋たちは、まだ多くの嘘を覚えているのだろう。


 けれど今は、白鹿修道院へ行く。


 エリシア様が生きているなら、時間がない。


 廊下の途中で、エリアス様が立ち尽くしていた。


 彼は私を見る。


 昨日までの傲慢さは、ほとんど残っていなかった。


 代わりにあるのは、青ざめた後悔と混乱。


「セラフィナ」


 彼が呼ぶ。


 レオン様の目が冷える。


 私は一度だけ足を止めた。


「何でしょう」


「私は……証言する。父上に言われたことも、婚約破棄確認書のことも、クラウス商会に名を貸したことも」


「はい」


「だから、その……」


 彼は言葉を探した。


 謝罪か。


 弁解か。


 許しを求める言葉か。


 けれど、今の私に必要なものではなかった。


「エリアス様」


 私は静かに言った。


「謝罪は、証言の後でお願いします」


 彼は目を見開いた。


「今は、記録を優先してください」


「……分かった」


 小さな声だった。


 私はもう振り返らなかった。


 王宮文書局の玄関へ向かうと、外の空は鈍い灰色に曇っていた。


 朝に来た時より、空気が重い。


 馬車の準備が急がれる。


 オルデン様が手配を飛ばし、護衛が配置を組み直す。


 クラリッサ夫人は、自分も途中まで同行すると申し出た。


「白鹿修道院そのものへは入れないかもしれませんが、王宮礼法顧問として、道中の妨害記録を取ることはできます」


 セルジオ司祭も当然のように頷く。


「私は修道院まで同行します。教会監査権限がありますので」


「ありがとうございます」


 私は深く礼をした。


 クラリッサ夫人は静かに私を見た。


「セラフィナ嬢」


「はい」


「王宮では、よく立っていました」


 胸が詰まる。


 それは、冷たい礼法顧問からの最大級の言葉のように思えた。


「ありがとうございます」


「ただし、まだ終わっておりません」


「はい」


「白鹿修道院では、王宮文書局よりさらに古い慣習が壁になるでしょう。情では開きません。形式と権限を手放さないことです」


「承知しました」


 夫人は頷いた。


 その時、馬車の前でレオン様が少しよろめいた。


「レオン様!」


 私は駆け寄り、彼の腕を支える。


 彼は苦しげに息を吐いた。


「問題ない」


「その返事は無効です」


「……分かっている」


「馬車では横になってください」


「ああ」


「薬湯も」


「飲む」


「本当に?」


「本当にだ」


 私は少しだけほっとした。


 馬車に乗り込むと、彼は渋々ながらも長椅子へ身体を預けた。


 オルデン様が薬湯を差し出す。


 レオン様は一瞬嫌そうな顔をしたが、私が見ていることに気づき、無言で飲んだ。


「苦い」


「必要です」


「君も蜂蜜湯を飲め」


「私は今は」


「契約書」


「……飲みます」


 結局、私もマーサさんが持たせてくれた小瓶の蜂蜜湯を飲むことになった。


 こんな時なのに、少しだけおかしくなってしまう。


 契約書が、私たちを縛っている。


 でもそれは、苦しめるためではなく、倒れないための縛りだ。


 馬車が動き出す。


 王宮文書局の青い建物が、窓の外で遠ざかっていく。


 その上階の窓から、誰かがこちらを見ていた。


 オスカー様か。


 ヴィクトルか。


 イザークか。


 分からない。


 けれど、見送られているのではない。


 狙われている。


 そう感じた。


 私は鞄からノアの封蝋片を取り出した。


 まだ少し温かい。


 そこには今、先ほどよりも落ち着いた気配があった。


 兄さんが来た。


 守られている。


 けれど、その奥にもう一つ、小さな震えが残っている。


 白い鹿。


 閉じた窓。


 女の人の歌。


 私は息を止めた。


「セラフィナ?」


 レオン様が起き上がろうとする。


「横になっていてください」


「何を読んだ」


 私は封蝋片を見つめた。


 ノアの封蝋なのに、なぜ白鹿修道院の気配がするのか。


 ノアとエリシア様は、親子。


 血の記憶のようなものが、封蝋に残っているのだろうか。


 それとも、ノア自身が幼い頃に聞いた記憶なのか。


「白鹿修道院の気配です」


 私は言った。


「閉じた窓と、女の人の歌」


 レオン様の目が揺れる。


「エリシア叔母か」


「分かりません。でも、ノアさんの封蝋が反応しています」


 馬車は王都北西へ向かって進む。


 石畳の音が、次第に王宮の喧騒から離れていく。


 その時、前方の護衛馬が急に速度を落とした。


 馬車が揺れる。


 オルデン様が窓を開けた。


「何事です」


 護衛が険しい顔で振り返る。


「前方の橋が封鎖されています」


「誰が」


「王宮文書局の封鎖札です。理由は、老朽化点検」


 私は窓の外を見た。


 北西へ向かう主要橋。


 そこに青い封鎖札が貼られている。


 王宮文書局の青い封蝋。


 あまりにも早い。


 つまり、想定されていた。


 私たちが白鹿修道院へ向かうことを、相手は読んでいたのだ。


 レオン様が低く言う。


「迂回路は」


 オルデン様が答える。


「あります。ただし、かなり遠回りです」


 時間を稼がれている。


 白鹿修道院で、何かをするために。


 私は封鎖札の青い封蝋を見た。


 その奥から、ほんの微かな感情が漏れている。


 急げ。


 移せ。


 北棟を空にしろ。


 私は血の気が引くのを感じた。


「レオン様」


「読んだな」


「はい」


 私は封鎖札を見つめたまま言った。


「エリシア様を、移すつもりです」


 馬車の中の空気が凍った。


 白鹿修道院は、まだ遠い。


 そして敵は、すでに動いている。

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