第31話 黒い帳簿が王宮へ届く
「もう遅い」
オスカー・ヴァイスは、そう言って笑った。
その笑みは穏やかだった。
けれど、先ほどまでの善人めいた仮面とは違う。
自分の仕掛けが動いたと確信している者の笑みだった。
ノアを守るべきだったな。
屋敷に残してきたのは失策だったな。
そう言われているようで、胸の奥が冷たくなる。
私は白手袋の指先を握った。
鞄の中では、ノアの封蝋片がまだ熱を持っている。
助けて。
兄さんが来た。
その声は確かに聞こえた。
でも、今この場にいる私は、屋敷へ走れない。
王宮文書局の第七封庫。
目の前には、オスカー、ヴィクトル・グレン、イザーク。
確認台には、同意なき相続調査制限契約。
先代公爵の紙片。
ノア・エリシア・ヴァイスの名。
すべてがここにある。
ここで崩れれば、ノアを守る証拠も消される。
レオン様は私の隣で、扉の外を睨んでいた。
顔色はまだ悪い。
けれど、立っている。
その横顔が、痛みに耐えるあまり青白いのが分かった。
「レオン様」
私は小さく言った。
「座ってください」
「今は」
「今だからです」
彼がこちらを見る。
私は婚約契約書へ視線を落とした。
「休息条項は、敵がいる時にも適用されます」
「君は本当に厄介だな」
「敵にとっては、です」
そう返すと、彼は一瞬だけ目を細めた。
そして、短く息を吐く。
「分かった」
オルデン様がすぐに椅子を用意する。
レオン様は不本意そうに座ったが、その視線はオスカーから離れない。
オスカーは薄く笑った。
「婚約者に命じられる当主とは、随分と柔らかくなったものだ」
「守る者の言葉を聞けるようになっただけです」
私は答えた。
オスカーの目が私へ向く。
「君に言ったのではない」
「今の発言は、私にも関係します」
「どこまでも口を挟む」
「婚約契約書第三条により、私はヴァイス公爵家の文書監査人として職務を継続しています」
オスカーの笑みが薄くなる。
もう、彼は私の契約書を笑えない。
その契約書が、さっきから何度も黒紫の拘束契約を押し返しているからだ。
「屋敷へ伝令は出ました」
オルデン様が低く報告する。
「ですが、王宮側が道を塞ぐ可能性があります」
「三方向へ出せと指示したか」
「はい。正門、教会、礼法顧問控えへ」
私は頷いた。
マーサさんなら、きっと同じことをする。
一つの道が塞がれても、別の道を残す。
書類も証言も、一本だけにしない。
記録は複数残す。
そう教えてくれたのは、今までの事件そのものだった。
ヴィクトル・グレンが扉の外から冷たく言った。
「屋敷側で何が起きようと、この場の手続きには関係ありません」
「関係あります」
私は即座に答えた。
「ノアさんが証人であり、その証人に危害が及ぶ可能性がある以上、相続調査制限契約、エリシア様の死亡記録偽造疑義、先代公爵遺言保管封の確認すべてに関係します」
「証人と断定するには早い」
ヴィクトルの声には苛立ちが混じっていた。
「先代公爵様の紙片にそう書かれています」
「私的文書だ」
「遺言箱から出ました」
「混入の可能性がある」
「混入できるのは王宮文書局内部の者です」
返すたび、ヴィクトルの声が硬くなる。
オスカーはそれを黙って聞いていた。
だが、彼の杖を持つ手は、わずかに強張っている。
ノアの名が出た時。
エリシア様の名が出た時。
そして屋敷へ伝令が出た時。
この人は、確かに揺れた。
そこに弱点がある。
その時だった。
廊下の奥から、慌ただしい足音が聞こえた。
王宮衛兵の整った足音ではない。
もっと切迫した、息を切らした走り方。
ヴィクトルが低く言う。
「何事だ」
廊下の向こうから、若い声が響いた。
「ヴァイス公爵家より緊急伝令! 王宮礼法顧問クラリッサ・フォン・ルヴェール伯爵夫人へ!」
クラリッサ夫人が、すぐに一歩前へ出た。
「通しなさい」
ヴィクトルが顔を歪める。
「ここは王宮文書局の管轄だ。勝手な伝令は」
「私宛てです」
クラリッサ夫人の声は冷たかった。
「花嫁候補審査の立会い顧問として、ヴァイス公爵家婚約者に関する緊急報告を受け取る権限があります」
ヴィクトルは言葉を詰まらせた。
自分たちが仕掛けた花嫁候補審査。
それがまた、こちらの通路になった。
衛兵たちが迷う。
だがクラリッサ夫人がまっすぐ睨むと、道が開いた。
駆け込んできたのは、ヴァイス家の若い護衛だった。
息を切らし、片膝をつく。
「ご報告申し上げます! ヴァイス公爵邸裏門に、王宮文書局名義の緊急移送命令を持つ三名が出現。対象者ノア様の引き渡しを要求しました」
封庫内の空気が張り詰めた。
オスカーの笑みが消える。
ヴィクトルが鋭く言う。
「そのような命令は、こちらでは確認していない」
「命令書は保全済みです」
護衛は怯まず続けた。
「署名はヴィクトル・グレン閣下。対象者はノア。理由は身元確認および保護。引渡先は王宮文書局長代理室」
全員の視線が、ヴィクトルへ向いた。
ヴィクトルの顔が強張る。
「偽造だ」
「では、偽造命令書ですね」
私は言った。
「王宮文書局長代理の名を騙った命令書が、ノアさんを連れ去るために使われた。いずれにしても重大事件です」
ヴィクトルは黙った。
護衛はさらに続ける。
「三名は裏門からの侵入を試み、うち一名が黒紫の薬瓶を使用しようとしました。薬瓶は破損しましたが、砂ごと保全済み。命令書も保全済みです」
黒紫の薬瓶。
施療院で見つかったものと同じ系統。
リックを殺すために用意されていたもの。
ノアにも使うつもりだったのだ。
怒りで指先が冷える。
レオン様が椅子の肘掛けを握った。
「ノアは」
「ご無事です」
その一言で、私は思わず息を吐いた。
全身から力が抜けそうになる。
でも、まだ続きがあった。
「さらに、消えていた帳簿係リック様が帰還されました」
封庫内にざわめきが走る。
エリアス様が目を見開いた。
イザークの顔色が変わる。
リック。
生きていた。
ノアの封蝋が告げた通り。
「リック様は、黒い帳簿の本体を持ち帰りました」
護衛の声が大きく響く。
「帳簿には、孤児院、施療院、エリシア様の死亡記録、ノア様の出生登録、オスカー・ヴァイス様名義の療養費、グレン家への支払い、イザーク・メルヴィン様への礼金、ヴィクトル・グレン閣下への文書手数料が記録されているとのことです」
封庫が静まり返った。
今度の沈黙は、さっきまでとは違う。
逃げ場が狭まる音だった。
イザークの唇がわずかに開く。
だが、言葉は出なかった。
ヴィクトルは扉の外で立ち尽くしている。
オスカーは、護衛を見つめていた。
老いた瞳に、明確な殺意に近いものが浮かんでいる。
「黒い帳簿は、屋敷にあるのか」
オスカーが低く尋ねた。
護衛は即座に答えなかった。
それが正解だった。
私は口を挟む。
「保全場所は、ここで言う必要はありません」
オスカーが私を見る。
「また君か」
「証拠の所在を、利害関係者の前で明かす必要はありません」
クラリッサ夫人が頷いた。
「その通りです」
セルジオ司祭も言う。
「教会側にも伝令が向かっているなら、帳簿の写しまたは要約記録が届くでしょう。確認はその後でよい」
護衛は続けた。
「マーサ様より、追加の保全報告です。王宮へ送る予定だった命令控えをリック様が持ち帰りました」
「命令控え?」
レオン様が問う。
「はい。内容は、ノア様を確保できなかった場合、屋敷内で事故死扱いにする、というもの」
息が止まった。
ノアを連れ去れなければ、屋敷で殺す。
事故死にする。
そんな命令が、書かれていた。
レオン様の目が氷のように冷たくなる。
「印は」
「クラウス商会印。王宮文書局の青い確認印。そして、ヴァイス家の古い分家印」
護衛は一度だけ息を吸った。
「狼の横顔に、折れた剣」
オルデン様が低く言った。
「オスカー様の私印です」
全員の視線が、オスカーへ向いた。
オスカーは黙っていた。
その沈黙は、否定より重かった。
彼は笑わない。
言い訳もしない。
ただ、杖の先で床を一度だけ叩いた。
「偽造だ」
短い言葉だった。
「では、偽造印の鑑定を行いましょう」
私は答えた。
「オスカー様の私印が、なぜノアさんの事故死命令控えに押されていたのか。偽造なら、誰がいつどこでその印影を入手したのか。全て確認が必要です」
「君は」
オスカーの声が、低く沈む。
「本当に黙らないな」
「はい」
私はまっすぐ見返した。
「黙るためにここへ来たのではありません」
赤い家門封が、また淡く光った。
その光は今、私を後押ししてくれているようだった。
エリアス様が、ふらりと一歩前へ出る。
「父上」
彼の声は震えていた。
「今の命令書は、父上が出したのですか」
ヴィクトルは答えない。
「父上!」
「黙れと言ったはずだ」
ヴィクトルの声は冷たかった。
「お前は何も知らない。何も話すな」
エリアス様の顔が歪む。
「私は、何も知らされていなかっただけですか」
「そうだ」
「だから、私に署名させたのですか。婚約破棄確認書を持たせたのも、セラフィナを黙らせるために」
「家のためだ」
その言葉に、エリアス様の瞳が揺れた。
家のため。
オスカーも同じことを言った。
家門のため。
守るため。
だが、その中身は、パンを奪い、薬を薄め、死者の名を使い、子どもを事故死させることだった。
「……私は」
エリアス様は小さく言った。
「私は、そんなことのためにセラフィナを」
彼は私を見た。
その顔には後悔が浮かんでいた。
けれど、私はその後悔を受け取らなかった。
今は、必要ない。
「エリアス様」
私は言った。
「後悔より、証言をしてください」
彼は目を見開く。
「あなたが知っていることを、すべて記録に残してください。知らなかったなら、知らなかったことも。誰に何を言われ、どの書類に署名し、どの商会に名を貸したのか」
エリアス様は唇を震わせた。
「それで……私の罪は軽くなるのか」
「それを決めるのは私ではありません」
私は静かに答えた。
「でも、黙れば、同じ側に立ち続けることになります」
エリアス様は俯いた。
拳を握る。
そして、震える声で言った。
「証言する」
ヴィクトルが叫んだ。
「エリアス!」
だが、エリアス様は今度こそ父を見なかった。
「私は、証言する。父から命じられたことを、全部」
封庫内の空気が変わった。
小さな一手。
でも、確実な一手だった。
グレン家の内側から、ほころびが開いた。
オスカーが冷たく言う。
「愚かな息子だな、ヴィクトル」
ヴィクトルの顔が怒りで歪む。
「黙ってください、オスカー様」
「扱いやすい駒ほど、壊れる時は脆い」
エリアス様の肩が震えた。
その言葉は、彼に向けられているようで、ヴィクトルにも刺さっている。
私はその会話を聞きながら、理解した。
この人たちは、誰かを家族として見ていない。
駒。
帳簿の数字。
封じるべき名。
消すべき証人。
それだけだ。
レオン様が低く命じる。
「オルデン。今の証言意思も記録」
「はい」
「ヴァイス公爵家として、王宮文書局長代理ヴィクトル・グレン、イザーク・メルヴィン、オスカー・ヴァイス、クラウス商会、ベルナール司祭に対し、相続妨害、証人殺害未遂、文書偽造、領地支援金横領の疑義で正式抗議を出す」
「承知いたしました」
「さらに、ノア・エリシア・ヴァイスの身柄保護を最優先とする。王宮文書局、グレン家、クラウス商会、教会の一部関係者による接触を禁じる」
「はい」
レオン様はまだ苦しそうだった。
それでも、その声は当主のものだった。
誰かを切り捨てるためではない。
守るために命じる声。
私はその横顔を見て、胸の奥が熱くなる。
オスカーはその様子を見て、わずかに目を細めた。
「随分と立派な当主になったつもりか、レオンハルト」
「つもりではない」
レオン様は答えた。
「私はヴァイス公爵だ」
青い封庫の中で、その言葉は静かに響いた。
オスカーの顔が歪む。
彼にとって、その言葉は最も聞きたくないものだったのかもしれない。
公爵位を望み、兄を憎み、死んだことになってまで相続に影を落とした者。
その目の前で、甥が当主として立っている。
それが、何より許せないのだ。
その時、廊下の向こうから第二の伝令が駆け込んできた。
今度は教会の使いだった。
セルジオ司祭へ向けて、封書を差し出す。
「セルジオ司祭様! ヴァイス公爵邸より、教会監査宛て緊急報告です!」
セルジオ司祭が受け取り、封を確認する。
「マーサ殿の仮封、針と糸車の印ですな」
彼は封を切り、中を読む。
その表情が険しくなっていく。
「黒い帳簿の要約写しが添付されています」
セルジオ司祭は低く言った。
「孤児院死亡者名義受領、施療院薬剤希釈、ベルナール司祭への分配、クラウス商会への払い戻し……そして、エリシア・ヴァイス死亡登録偽造手数料」
オスカーの指が、杖に食い込む。
セルジオ司祭はさらに読み上げた。
「項目名。エリシア・ヴァイス死亡記録保全費。支払先、教会記録室経由、ベルナール・ダレス。備考、王宮文書局確認済み」
イザークの顔が青ざめる。
「確認者名」
セルジオ司祭が続ける。
「I.M.」
イザーク・メルヴィン。
誰もがそう思った。
本人も分かっている。
だからこそ、彼は何も言えなかった。
続いて、クラリッサ夫人宛ての第三の伝令が到着した。
彼女は封書を受け取り、内容を確認する。
そして、淡々と読み上げた。
「王宮文書局名義の偽命令書により、ヴァイス公爵家婚約者の証人であるノア様の引き渡しが要求された。要求者は裏門より侵入を試み、薬物使用未遂。命令控えには、ノア様確保不能時、屋敷内事故死扱いとの文言あり。押印はクラウス商会、王宮文書局確認印、オスカー・ヴァイス私印」
彼女は紙から目を上げ、ヴィクトルとオスカーを見た。
「これで、屋敷側の出来事は本件と無関係とは言えません」
ヴィクトルは反論しなかった。
できなかったのだ。
封庫内と屋敷側。
二つの場所で、同じ名前、同じ印、同じ目的が出た。
ノアを消す。
記録を消す。
証人を消す。
もう偶然では片づけられない。
私は深く息を吸った。
「王宮文書局長代理ヴィクトル・グレン閣下」
扉の外に立つ男へ向けて、私は言った。
「あなたは先ほど、屋敷側で何が起きようと、この場の手続きには関係ないとおっしゃいました」
ヴィクトルは答えない。
「今届いた三つの伝令により、関係があることが示されました。ノアさんを狙った命令書、黒い帳簿、オスカー様の私印、王宮文書局確認印、イザーク様の関与疑義」
私は一つずつ言葉にする。
記録に残すために。
誰かが後で軽くできないように。
「これ以上、私たちの確認を妨げるなら、それ自体が証拠隠滅の一部と見なされます」
ヴィクトルの顔が怒りで赤くなる。
「下級貴族の娘が、誰に向かって」
その言葉は、最後まで続かなかった。
レオン様が立ち上がったからだ。
ゆっくりと。
痛みに耐えながら。
けれど、誰よりも高く。
「私の婚約者だ」
彼は言った。
「そして、先代公爵の指定確認者だ」
封庫の赤い家門封が、強く光る。
まるで先代公爵が、その言葉を認めるように。
ヴィクトルは唇を噛んだ。
オスカーは黙っている。
イザークは目を伏せている。
勝った、とは思わなかった。
まだ終わっていない。
けれど、彼らの足場は確実に崩れ始めている。
その時、セルジオ司祭が黒い帳簿の要約写しを読み進め、ふと眉をひそめた。
「待ってください」
「何か」
私が尋ねると、彼は紙面を見つめたまま言った。
「この項目です。エリシア・ヴァイス死亡記録保全費の後に、別の支払いが続いています」
胸がざわつく。
「何の支払いですか」
セルジオ司祭は、ゆっくり読み上げた。
「白鹿修道院、北棟管理費。対象、E.V.」
封庫内が静まった。
E.V.
エリシア・ヴァイス。
死亡記録ではない。
管理費。
修道院。
北棟。
私は声が震えるのを抑えられなかった。
「日付は」
セルジオ司祭は紙を見た。
「三か月前です」
三か月前。
二十年前ではない。
十三年前でもない。
三か月前。
エリシア様の名に、管理費が支払われている。
それが意味することは、一つしかない。
レオン様が、息を呑んだ。
オスカーの顔から、完全に血の気が引いた。
私は、確認台の赤い家門封を見た。
先代公爵の封蝋は、静かに光っていた。
まるで、ようやくそこへ辿り着いたか、と言うように。
「エリシア様は」
私は震える声で言った。
「まだ、生きている可能性があります」




