第30話 黒い帳簿を抱えた帰還者
その頃、ヴァイス公爵邸では、朝から妙な静けさが続いていた。
王宮文書局へ向かった旦那様とセラフィナ様。
屋敷に残された使用人たちは、表向きはいつも通りに働いていた。
だが、誰もが分かっていた。
今日は、ただの日ではない。
王宮文書局第七封庫。
先代公爵の王宮保管遺言。
消えた記録。
封じられた契約。
そして、ノア。
書庫番見習いの少年は、朝から使用人棟の奥にある小部屋にいた。
本来なら、そこは侍女たちが裁縫道具を保管している部屋だ。
だが今は、窓には内側から木板が打たれ、扉の前には護衛が二人立ち、廊下の角にはマーサが控えている。
ノアは椅子に座り、膝の上で両手を握っていた。
手は小さく震えている。
「マーサさん」
ノアが小さく呼んだ。
「兄さん、帰ってくるかな」
マーサは振り返った。
白髪をきっちり結い、いつも通り背筋を伸ばしている。
だが、その目元には昨夜より深い疲れがあった。
「帰ってまいります」
「本当に?」
「ええ」
マーサは断言した。
「セラフィナ様が、リック様は犯人ではないとおっしゃいました。旦那様も、探すとお決めになりました。ならば、帰ってくる道は必ずございます」
ノアは唇を噛んだ。
「でも、兄さん、僕のせいで」
「いいえ」
マーサはぴしゃりと言った。
「ノア様のせいではございません」
ノアは顔を上げる。
ノア様。
今まで、マーサは彼をノアと呼んでいた。
使用人見習いとして。
書庫番の子として。
だが、今朝から少しだけ呼び方が変わっていた。
王宮で何が起きているのか、まだ屋敷には届いていない。
それでも、マーサは察していた。
先代公爵が封蝋に残した名。
ノアを消せという敵の声。
エリシア様の出生証明。
ノアはただの使用人見習いではない。
けれど、それ以上に大切なのは、彼が怯えている子どもだということだった。
「ここにいれば安全?」
ノアは尋ねた。
「絶対、とは申し上げません」
マーサは正直に答えた。
「ですが、この屋敷で私の目の届く場所にいる限り、簡単には触れさせません」
その言葉は、静かだった。
けれど、小部屋の空気が少しだけ強くなる。
マーサは剣を持っていない。
魔法も使えない。
それでも、彼女の背中には、長く公爵家を守ってきた者の強さがあった。
ミーナが廊下の奥から小走りにやってきた。
顔色が悪い。
「マーサ様」
「何事です」
「裏門に、王宮文書局の使いと名乗る方が来ています」
マーサの目が細くなる。
「裏門に?」
「はい。正門ではなく。王宮文書局の緊急命令書を持っていると」
「誰宛てです」
「ノアを引き渡せ、と」
小部屋の中で、ノアが息を呑んだ。
護衛二人も顔を険しくする。
マーサは一瞬だけ目を閉じた。
そして、静かに言った。
「やはり来ましたか」
「どうしますか」
「通しません」
即答だった。
「ですが、王宮文書局の封が」
「封は確認します。人は通しません」
マーサはノアへ向き直った。
「ノア様。ここから動いてはいけません。ミーナ、あなたは中へ」
「はい」
「扉を内側からかけなさい。私が合図するまで開けてはなりません」
ミーナは緊張した顔で頷いた。
ノアは椅子から立ち上がりかける。
「僕も」
「いけません」
マーサの声が、鋭く落ちた。
「ノア様のお役目は、生きていることです」
「……生きていること」
「はい。証言するために。リック様と再会するために。セラフィナ様に、よく頑張りましたと言っていただくために」
ノアの目に涙が浮かんだ。
それでも、彼は頷いた。
「分かった」
扉が閉まる。
内側から鍵がかかる音がした。
マーサは護衛へ命じる。
「一人はここに。もう一人は私と裏門へ」
「はい」
廊下を進む間、屋敷の空気が変わっていくのが分かった。
使用人たちは普段通りを装いながら、廊下の角、階段の陰、窓の近くに静かに散っている。
誰も大声を出さない。
誰も慌てて走らない。
けれど、全員が分かっていた。
屋敷が狙われている。
裏門には、三人の男がいた。
一人は王宮文書局の青い外套をまとっている。
もう一人は教会の下級使いのような白い襟。
最後の一人は荷運び人を装っているが、肩の厚みと足の置き方が明らかに護衛崩れだった。
門番が彼らを中へ入れず、鉄格子越しに止めている。
「ヴァイス公爵家の責任者を呼べ!」
青い外套の男が声を荒げた。
「王宮文書局からの緊急命令だ。ノアという少年を王宮へ移送する」
マーサは静かに進み出た。
「この屋敷の家政を預かるマーサでございます。命令書を拝見いたします」
男は鼻で笑った。
「侍女が見るものではない。家令を呼べ」
「家令オルデンは旦那様に同行しております。屋敷内の管理権限は私が預かっています」
「では分かるまい。これは王宮命令だ」
「王宮命令なら、正門へお回りください」
男の顔が歪む。
「緊急だと言っている!」
「緊急であればなおさら、正式な経路でお願いいたします」
マーサは一歩も引かなかった。
「裏門は納品口です。人の引き渡しには使いません」
荷運び人の男が、低く笑った。
「たかが侍女が、随分と口を利く」
マーサの視線がそちらへ向く。
「たかが侍女に止められるような命令書なら、出直しなさい」
門番が思わず肩を震わせた。
笑いをこらえたのだ。
青い外套の男は怒りで顔を赤くし、懐から封書を取り出した。
「これを見ろ!」
鉄格子の隙間から突き出された封書には、王宮文書局の青い封蝋が押されている。
ただし、封の端が少し濁っていた。
青ではなく、黒に近い紫が混じっている。
マーサには封蝋読みの力はない。
だが、セラフィナから何度も聞いていた。
黒紫の封。
契約で人を縛る色。
触ってはならない。
マーサは手を出さなかった。
「門番。文書受け皿を」
「はい」
門番が長い柄のついた小さな皿を差し出す。
男は苛立ちながら封書をそこへ投げた。
マーサは直接触れず、封書の表を読む。
王宮文書局緊急移送命令。
対象者、ノア。
理由、身元確認および保護。
引渡先、王宮文書局長代理室。
署名、ヴィクトル・グレン。
マーサの目が鋭くなった。
「対象者の姓がありません」
「ノアで通じる」
「通じません」
マーサは即座に言った。
「王宮文書局の正式命令であれば、対象者の氏名、年齢、身分、引渡責任者、移送責任者、護送記録官、立会人の有無が必要です」
「細かいことを」
「人を連れていく書類です。細かくて当然でございます」
男が舌打ちした。
「その少年は王宮で保護する必要がある」
「保護なら、ヴァイス公爵家当主の許可を得てください」
「公爵は王宮にいる」
「では、王宮で直接許可をお取りください」
「その公爵が危険だから、こちらで保護するのだ!」
言った瞬間、男はしまったという顔をした。
マーサは聞き逃さない。
「危険、とは」
「……公爵家の相続に関わる少年を、この屋敷に置くのは危険という意味だ」
「この命令書には、相続に関わるとは書かれておりません」
沈黙。
門の外の三人が、互いに視線を交わした。
これだけで十分だった。
彼らは、ノアが何者かを知っている。
少なくとも、ただの書庫番見習いではないと知って来ている。
マーサは文書受け皿を門番へ戻させた。
「この命令書は受領いたします。ただし、対象者引き渡しは拒否します」
「拒否だと?」
「はい」
「王宮命令に逆らう気か!」
「正式性に疑義があるため、確認が取れるまで履行を保留します」
マーサは淡々と言った。
「王宮文書局の場では、そう申し上げるのがよろしいとセラフィナ様に教わりました」
男の顔がひきつる。
その瞬間、荷運び人を装っていた男が動いた。
門の隙間から腕を伸ばし、内側の閂へ手をかけようとする。
門番が槍を構えるより早く、マーサが持っていた杖でその手首を打った。
乾いた音。
男が呻く。
「無作法です」
マーサは冷たく言った。
「ここはヴァイス公爵家の屋敷でございます」
青い外套の男が叫んだ。
「押し通れ!」
荷運び人が門を蹴る。
教会襟の男が懐から小瓶を取り出す。
その中には、黒い粒のようなものが入っていた。
薬。
施療院で見つかった毒物に似たもの。
マーサの顔色が変わる。
「護衛!」
屋敷側の護衛が動こうとした、その時。
裏庭の茂みの向こうから、低い声が響いた。
「その薬を使う相手を間違えるな」
三人の男が振り返る。
門の向こう、裏路地の影から、一人の青年が現れた。
ぼろぼろの外套。
裂けた袖。
痩せた頬。
片腕には、黒い革表紙の帳簿を抱えている。
額には乾いた血。
だが、その目は生きていた。
「リック様……!」
マーサが息を呑む。
青年はわずかに笑った。
「ただいま戻りました、マーサさん」
ノアの兄。
消えた帳簿係。
逃亡者にされた青年。
リックだった。
青い外套の男が顔色を変える。
「お前、生きて」
「生きてちゃ困るか」
リックは帳簿を抱え直した。
「残念だったな。黒い帳簿も一緒だ」
その言葉で、三人の男の空気が変わった。
ノアを連れ去ることから、帳簿を奪うことへ。
狙いが変わったのが、はっきり分かった。
荷運び人がリックへ飛びかかる。
リックは片足を引いたが、体がふらついた。
怪我をしている。
逃げ続けていたのだ。
このままでは危ない。
だが、茂みの向こうからさらに二人が飛び出した。
一人は、かつて盗みの罪を着せられて屋敷を追われた馬丁ベン。
もう一人は、辞めたことにされていた侍女ラナ。
ミーナの証言に出てきた、消された使用人たちだった。
「リックだけじゃないぞ!」
ベンが荷運び人を横から突き飛ばす。
ラナは教会襟の男の手元へ石を投げ、小瓶を落とさせた。
小瓶が石畳に割れ、黒い液がじゅわりと煙を上げる。
マーサは即座に叫んだ。
「誰も近づいてはいけません! 水もかけない! 砂を!」
門番が砂袋を投げる。
黒い液は砂に吸われ、煙を弱めた。
青い外套の男は逃げようとした。
だが正門側から回り込んでいた屋敷護衛が、すでに退路を塞いでいる。
マーサは冷たい声で命じた。
「三名を拘束。所持品は直接触れず、革手袋と文書箱を使いなさい。封書、薬瓶片、命令書、全て保全します」
「はい!」
裏門前の騒ぎは、短い時間で終わった。
三人は取り押さえられ、命令書と薬瓶片は保全箱へ入れられた。
リックは門の内側へ入ると、その場に膝をついた。
マーサが駆け寄る。
「リック様!」
「すみません、少し……足が」
「医師を!」
「その前に」
リックは黒い帳簿を差し出した。
「これを、旦那様とセラフィナ様へ。北壁の書庫に置いた黒い帳簿の本体です。俺が持ち出した方が安全だと思って、隠していました」
「あなたが持っていたのですね」
「はい。ですが、クラウス商会に捕まりました。逃げるのに時間がかかって……」
リックは息を切らしながら続けた。
「帳簿には、孤児院と施療院だけじゃありません。エリシア様の死亡記録、ノアの出生登録、オスカー・ヴァイスの療養費、グレン家への支払い、全部つながっています」
マーサの表情が変わる。
「オスカー様の名を知っているのですか」
「帳簿に出てきます」
リックは頷いた。
「表向きは死んだはずの人間に、クラウス商会からずっと金が流れていた。名目は療養費。でも実際は、王都の私邸維持費と文官への礼金です」
「文官とは」
「イザーク・メルヴィン。それから、ヴィクトル・グレン」
マーサは小さく息を呑んだ。
王宮で今まさに戦っている名。
屋敷側にも、同じ名が届いた。
「ノア様については」
マーサが問うと、リックの顔が苦しげに歪んだ。
「ノアは……俺の本当の弟じゃありません」
その言葉に、裏門にいた全員が静まる。
「孤児院から引き取った時、院長先生から頼まれました。名前を変えて、普通の子として育ててくれって。俺は兄のふりをしていただけです」
「ノア様は知っていますか」
「知りません」
リックは唇を噛んだ。
「でも、俺にとっては本当に弟です。血がつながってなくても」
マーサは静かに頷いた。
「もちろんでございます」
「セラフィナ様は、ノアを守れと言いましたか」
「はい」
「なら、間に合ったんですね」
リックは少しだけ笑った。
「よかった」
その時、使用人棟の方から小さな足音が聞こえた。
内側から出るなと言われていたノアが、ミーナに支えられながら廊下の向こうから出てきていた。
護衛が止めようとしたが、ノアはリックを見た瞬間、走り出した。
「兄さん!」
リックが顔を上げる。
ノアが飛びつく。
怪我に響いたのか、リックは少し顔を歪めたが、それでも帳簿を片腕で抱えたまま、もう片方の腕でノアを抱きしめた。
「ノア」
「兄さん、兄さん、兄さん!」
「ごめんな。遅くなった」
「逃げたんじゃないって、僕、ずっと」
「分かってる」
リックの声も震えていた。
「お前が信じてくれるって、知ってた」
ミーナはその場で口元を押さえ、泣いていた。
マーサも少しだけ目を伏せる。
だが、泣いている時間はなかった。
マーサは黒い帳簿を受け取り、革手袋の護衛へ渡す。
「保全箱へ。ただし、鍵は二重。片方は私が持ちます」
「はい」
「リック様は医師へ。ノア様は再び保護室へ」
「嫌だ!」
ノアがリックの服を掴む。
「兄さんと離れたくない!」
マーサはノアの前に膝をついた。
「離しません。同じ部屋にいたまま、医師に診せます」
「本当?」
「本当でございます」
ノアは涙だらけの顔で頷いた。
その時、リックが懐から小さな封筒を出した。
「マーサさん。もう一つあります」
「何でしょう」
「俺を捕まえていた場所で拾いました。王宮へ送る予定だった命令書の控えです」
封筒には、黒紫の蝋が薄く付いている。
マーサは直接触れなかった。
「内容は」
「ノアを確保できなかった場合、屋敷内で事故死扱いにする、と」
空気が凍った。
ノアの顔から血の気が引く。
ミーナが小さく悲鳴を飲み込む。
マーサの表情が、静かに変わった。
怒りだった。
声も荒げず、表情も崩さない。
けれど、長年屋敷を守ってきた老侍女の怒りが、そこにあった。
「誰の指示ですか」
リックは封筒を見た。
「署名はありません。でも、押し印があります」
「印?」
「麦と天秤のクラウス商会印。その上に、青い文書局の確認印。それから……」
リックは一度、言葉を詰まらせた。
「ヴァイス家の古い分家印です。狼の横顔に、折れた剣」
マーサの顔が強張る。
「オスカー様の私印……」
それは、王宮でセラフィナたちが見つけた名と完全につながる証拠だった。
ノアを消そうとしたのは、商会だけではない。
王宮文書局だけでもない。
ヴァイスの血を持つ者。
オスカー・ヴァイス本人の意志。
マーサは深く息を吸った。
「直ちに王宮へ伝令を出します」
「でも、さっきも伝令を」
「今度は三方向へ出します」
マーサはすぐに指示を飛ばした。
「一人は王宮文書局正門へ。ヴァイス公爵家の紋章旗を持たせなさい。一人は教会監査司祭セルジオ様宛て。一人は王宮礼法顧問クラリッサ夫人の控え室へ。内容は同じ」
彼女ははっきり告げる。
「ノア様襲撃未遂。王宮文書局名義の偽命令書。黒紫の薬瓶。リック様帰還。黒い帳簿確保。オスカー様私印付き命令控え発見」
使用人たちが一斉に動く。
屋敷はもう静かなだけではなかった。
守るために動き出していた。
その中で、ノアはリックにしがみついている。
リックは疲れ切った顔で、それでも弟の背を撫でていた。
「ノア」
「何」
「お前、もしかしたら、俺の本当の弟じゃないかもしれない」
ノアの肩が震えた。
「……うん」
「でも、俺はお前の兄さんだ」
ノアが顔を上げる。
リックは笑った。
血と泥にまみれた、ひどく疲れた笑みだった。
「それは、帳簿が何と言おうと変わらない」
ノアは泣きながら頷いた。
「うん……!」
マーサはその二人を見つめ、そっと目元を拭った。
そしてすぐに背筋を伸ばす。
「泣くのは後です」
彼女は言った。
「セラフィナ様なら、そうおっしゃいます」
ミーナが涙を拭きながら頷いた。
「はい」
リックも黒い帳簿の方を見た。
「王宮に、間に合いますか」
「間に合わせます」
マーサは断言した。
「この屋敷には、旦那様が守ってきた者たちがいます。先代様が残されたものがあります。そして、セラフィナ様が開いた道があります」
彼女は裏門の外へ目を向けた。
王宮へ向かう伝令が、すでに馬で走り出している。
「今度は、こちらから記録を届ける番でございます」
そして、ヴァイス公爵邸の門が開いた。
三騎の伝令が、それぞれ別の道へ駆け出す。
王宮へ。
教会へ。
礼法顧問の控えへ。
黒い帳簿の写し作成も始まった。
偽命令書は保全箱へ。
薬瓶片は砂ごと封じられた。
オスカーの私印が押された命令控えには、マーサ自ら赤い仮封を押した。
その封は、セラフィナの小鳥でも、レオンハルトの狼でもない。
老侍女マーサが長年使ってきた、針と糸車の印だった。
「ヴァイス家の家政を預かる者として、保全いたします」
その声は静かだった。
けれど、屋敷中に届くほど強かった。
王宮文書局がどれほど青い封で覆っても。
クラウス商会がどれほど黒い帳簿を隠しても。
死者の名を使い、生者の名を消そうとしても。
この屋敷には、まだ覚えている者がいる。
パンが届かなかった冬を。
薬が薄められた夜を。
逃亡者にされた使用人の名を。
そして、小さな少年が「兄さんは逃げていない」と震える声で訴えたことを。
そのすべてが、今、記録になって王宮へ向かっていた。




