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第29話 ノア・エリシア・ヴァイス

 ――ノアの本当の名は、ノア・エリシア・ヴァイス。

 ――我が妹エリシアの子であり、オスカーの罪を証明する唯一の生き証人である。


 その紙片を見た瞬間、第七封庫の中から音が消えた。


 ノア。


 書庫番見習いの少年。


 兄リックが消えたと泣きそうな顔で訴えていた子。


 自分も狙われているかもしれないのに、兄を助けたいと震える拳を握っていた子。


 彼の本当の名が、ノア・エリシア・ヴァイス。


 エリシア様の子。


 ヴァイス家の血を引く者。


 そして、オスカーの罪を証明する唯一の生き証人。


「……ノアが」


 レオン様の声は、かすれていた。


 苦痛のせいだけではない。


 衝撃が、彼の中の何かを打ったのだと思う。


 ノアは相続人ではない。


 だが、相続を覆す証人である。


 先代公爵の日記の言葉が、ようやく形を持った。


 ノアは公爵位を奪うための存在ではない。


 オスカー様の罪を暴くための存在だった。


 だから消されかけた。


 孤児院名簿から。


 死亡記録から。


 使用人名簿から。


 公爵家の記憶から。


「馬鹿な紙だ」


 オスカーが低く言った。


 先ほどまでの穏やかな老紳士の声ではなかった。


 乾いて、冷えて、怒りを隠しきれない声。


「兄は、最後まで何も分かっていなかった」


「分かっていなかったのは、あなたです」


 私は紙片から目を離さずに言った。


「先代公爵様は、ノアさんを相続争いの道具にしようとしたのではありません。証人として守ろうとした」


「証人?」


 オスカーは笑った。


「十三の子どもが、何を証明する」


「存在そのものです」


 私は答えた。


「エリシア様が死んだことにされ、その子が孤児院名簿から消されようとした。その子が今も生きている。それだけで、死亡記録と孤児院名簿の偽造が証明できます」


 セルジオ司祭が厳しい顔で頷く。


「教会死亡登録と出生登録に、重大な偽造疑義が生じますな」


 クラリッサ夫人も静かに言った。


「王宮文書局の相続記録にも影響します。ヴァイス家内部の血縁記録が改ざんされていた可能性がある以上、相続関連契約の再確認は避けられません」


 オスカーの目が細くなった。


 周囲の言葉が、自分に不利な記録として積み重なっていくことを理解したのだろう。


 ヴィクトル・グレンは扉の外で黙り込んでいた。


 だが、その沈黙はもう中立ではない。


 焦りを隠す沈黙だ。


 エリアス様は、顔面蒼白のまま父のいる扉の方を見ている。


 彼は、何も知らなかったのかもしれない。


 少なくとも、ノアの名までは。


 でも、それで無罪になるわけではない。


 知らずに署名を貸した。


 知らずに婚約破棄確認書を持ち込んだ。


 知らずに私を黙らせようとした。


 その無知は、誰かを傷つける刃になった。


「父上」


 エリアス様が、かすれた声で扉の外へ呼びかけた。


「父上は……知っていたのですか」


 返事はなかった。


「ノアという子のことを。エリシア様のことを。ヴァイス公爵家の契約のことを」


「黙っていろ、エリアス」


 扉の向こうから、低い声が返ってきた。


 ヴィクトル・グレンの声だった。


 それは父が息子を叱る声ではなかった。


 余計な証言を止める声だった。


 エリアス様の顔が、さらに白くなる。


「……では、本当に」


「黙れと言った」


 そのやり取りだけで、十分だった。


 エリアス様の中で、何かが割れたのが見えた。


 自分が父の駒だったと知った顔。


 自分の署名も、婚約破棄も、ミリアへの甘い言葉も、すべて誰かの都合に組み込まれていたと気づいた顔。


 でも、遅い。


 気づくのが遅すぎる。


 私はエリアス様から視線を戻し、紙片の保全を求めた。


「この紙片も、独立保全してください。先代公爵様の筆跡、封蝋反応、遺言箱から出た状況、全て記録を」


「承知しました」


 封庫管理官が震える手で記録を始める。


 イザークは何も言わない。


 何も言わない代わりに、その目だけがこちらを刺していた。


「レオン様」


 私は小さく呼んだ。


「ノアさんを、すぐに保護する必要があります」


「ああ」


 レオン様は短く答えた。


「オルデン」


「すでに屋敷へ早馬を出します」


「護衛を倍にしろ。ノア、ミーナ、マーサ、リックの関係者全員だ」


「承知いたしました」


「リックの捜索も急げ。ノアが証人なら、リックはそれを知っている可能性が高い」


「はい」


 淡々と指示が飛ぶ。


 けれど、レオン様の顔色は悪いままだった。


 黒紫の契約反応は弱まったとはいえ、完全には消えていない。


 私は婚約契約書へ視線を落とす。


 休息条項。


 体調悪化時は中断。


 しかし今、ここで完全に中断すれば、オスカーたちに立て直す時間を与える。


 どうすべきか。


 迷ったその時、オスカーが杖を床へ軽く打ちつけた。


「茶番は終わりにしよう」


 その声には、もう善人の仮面はなかった。


「兄の残した紙片が出た。ノアという子の名が書かれていた。だから何だというのだ」


 セルジオ司祭が眉を寄せる。


「重大な証拠です」


「証拠?」


 オスカーは鼻で笑った。


「死んだ男の私的な書き付けだ。王宮文書局の正式記録でも、教会登録でもない。そんなものを証拠と呼ぶなら、貴族社会は死人の落書きで転覆する」


「先代公爵の家門封が反応しています」


 私が言うと、彼は冷たく笑った。


「封蝋読みの令嬢の言葉だろう?」


「物理的にも、遺言箱から出ています」


「混入の可能性がある」


「混入できたのは、王宮文書局内部の者です」


「ならば、王宮文書局で調査すればいい」


 オスカーはヴィクトルのいる扉の方をちらりと見た。


「無論、中立な者がな」


 中立。


 その言葉が、こんなにも空々しく聞こえるとは思わなかった。


 レオン様が低く言った。


「ヴィクトル・グレンが中立だと?」


「彼個人を外せばよい。王宮には他にも文官がいる」


「イザークも関与している」


「疑義があるだけだ」


「契約申請者に名がある」


「それが犯罪とは限らない」


 オスカーは、一つずつ軽くしていく。


 書類の重みを、証言の重みを、封蝋の記憶を。


 すべて「疑義」「私的文書」「正式ではない」と言い換えて。


 この人は、そうやって生き延びてきたのだ。


「では、正式にしましょう」


 私は言った。


 オスカーの視線が戻る。


「何?」


「今ここで出た全てを、正式記録にします」


 私は確認台の上を指した。


「先代公爵の紙片。ノアさんの本名。エリシア様の死亡記録偽造疑義。相続調査制限契約の対象者署名欄空白。削られた署名。オスカー様が生存していた事実。ヴィクトル・グレン閣下があなたを『オスカー様』と呼んだ事実。全て、立会人の前で記録します」


「記録したところで、王宮が認めなければ」


「王宮文書局だけが記録の保管先ではありません」


 私はセルジオ司祭を見る。


「教会監査記録があります」


 次にクラリッサ夫人を見る。


「王宮礼法顧問の立会い記録があります」


 オルデン様を見る。


「ヴァイス公爵家の保全記録があります」


 そして最後に、レオン様を見る。


「当事者本人の証言があります」


 オスカーの笑みが消えた。


「あなた方が一つの記録を消しても、他の記録が残ります。だから、もう死者の名を都合よく使うことはできません。生きている者を死んだことにもできません」


 私は紙片を見つめた。


「ノアさんも、消させません」


 赤い家門封が、淡く光った。


 それは、先代公爵が小さく息をついたようにも見えた。


 オスカーは私を見ていた。


 その目には、はっきりと敵意があった。


「君は、兄によく似ている」


「光栄です」


「褒めていない」


「承知しております」


「そして、兄と同じ過ちを犯す」


 オスカーは杖を握り直した。


「守る価値のない者まで守ろうとし、家門を弱らせる」


 その瞬間、レオン様が一歩前に出た。


「叔父上」


 声は静かだった。


 けれど、封庫の空気が凍るほど冷たかった。


「孤児院の子どもも、施療院の患者も、使用人も、ノアも。守る価値がないと言うのか」


「家門にとって不要なものは切るべきだ」


「ならば、切られるべきはあなたの方だ」


 オスカーの目が細くなる。


 レオン様は続けた。


「ヴァイス家は、領民を食い物にするための家ではない。死者の名でパンを奪う家でも、薬を薄めて利益を出す家でも、妹とその子を消して相続を整える家でもない」


 彼の声は、少しずつ強くなっていく。


「叔父上がそれを家門のためと呼ぶなら、あなたはヴァイスではない」


 封庫内が静まり返った。


 オスカーの顔から、最後の穏やかさが消えた。


「……言うようになったな、レオンハルト」


「あなたが死んだことになっている間に、当主になったので」


「その当主の座も、兄の遺言も、いつまで保つかな」


 オスカーがそう言った瞬間、黒紫の契約書がまた震えた。


 イザークの指が、ほとんど見えないほど小さく動く。


 銀の指輪。


 青いインク。


 契約陣。


「イザーク様!」


 私が叫ぶより早く、契約書の余白に青い文字が浮かび上がった。


 まだ仕掛けが残っていた。


 黒紫の封蝋は壊れたが、青い追記が生きている。


『証人名が開示された場合、証人を無効化する』


 証人。


 ノア。


 私の血が冷える。


「ノアさんが危ない!」


 レオン様が即座に振り返る。


「オルデン、屋敷へ!」


「はい!」


 オルデン様が封庫の扉へ向かおうとした。


 だが、扉の外の衛兵が道を塞いでいる。


「通せ!」


 レオン様の声が響く。


 しかしヴィクトルの声が返る。


「封庫内の確認が終わるまで、誰も外へは出せない」


「ノアを狙う気か!」


「何のことか分かりませんな」


 分かっている。


 絶対に分かっている。


 彼らは、ノアの名が出た瞬間に動く仕掛けを残していた。


 王宮で私たちを足止めし、その間に屋敷へ手を伸ばす。


 最悪だ。


 でも、まだ手はある。


 私は婚約契約書を握りしめた。


「クラリッサ夫人、セルジオ司祭」


 二人がこちらを見る。


「今ここで、外部伝令を止められている事実を記録してください。証人保護の必要性が発生しているにもかかわらず、王宮文書局長代理ヴィクトル・グレンが封庫からの退出を妨げている、と」


「記録します」


 クラリッサ夫人が即答した。


「教会監査記録にも残しましょう」


 セルジオ司祭も頷く。


 ヴィクトルの声が荒くなる。


「勝手な記録は認めん!」


「記録は既に始まっています」


 私は扉へ向かって言った。


「そして、今この場にいるエリアス・グレン様も聞いています」


 エリアス様がびくりとする。


 彼は私を見る。


 その顔には、恐怖と迷いが浮かんでいた。


 私は彼に向き直った。


「エリアス様。あなたは、ノアさんを狙う計画を知っていましたか」


「知らない!」


 彼はすぐに叫んだ。


 今度は、嘘には見えなかった。


「本当に知らない。父上が、そんなことまで……」


「では、証言してください」


「え」


「あなたは今、王宮文書局長代理ヴィクトル・グレンが、ノアさんの保護を妨げる可能性がある場面に立ち会っています。知らなかったのなら、知らなかったと。今ここで初めて知ったと。記録に残してください」


 エリアス様は唇を震わせた。


 扉の外から、ヴィクトルの声が飛ぶ。


「エリアス、余計なことを言うな」


 その声で、エリアス様の表情が変わった。


 父に命じられた子どものような顔。


 でも次の瞬間、彼は拳を握った。


「……私は」


 声が震えている。


 けれど、言葉は出た。


「私は、ノアという子を狙う計画は知りませんでした。相続調査制限契約のことも、エリシア様のことも、オスカー様が生きていることも、知りませんでした」


「エリアス!」


 ヴィクトルの怒声が響く。


 エリアス様は肩を震わせた。


 けれど、止まらなかった。


「ただ、父上から、セラフィナを黙らせろと言われました。婚約破棄確認書に署名させろと。クラウス商会の慈善活動に名を貸しておけと。詳しいことは知らなくていい、と」


 封庫内が静まる。


 エリアス様の顔は青ざめ、目には悔しさと恐怖が滲んでいる。


 私はその姿を見た。


 ざまぁとしては、まだ甘い。


 でもこれは、大きなほころびだった。


 グレン家の息子が、父の指示を証言した。


 ヴィクトルはもう、完全には逃げられない。


「記録しました」


 オルデン様が言った。


 クラリッサ夫人も頷く。


「私も聞きました」


 セルジオ司祭も静かに言う。


「教会監査記録に残します」


 ヴィクトルの声は、しばらく聞こえなかった。


 その間に、レオン様が封庫管理官へ命じる。


「扉を開けろ。王宮文書局長代理が妨げるなら、その妨害も記録しろ」


 封庫管理官は迷った。


 だが、クラリッサ夫人とセルジオ司祭が見ている。


 オルデン様が記録している。


 ついに、管理官は震える手で扉の解除具へ触れた。


 ヴィクトルが外から叫ぶ。


「開けるな!」


 しかし遅かった。


 扉が開く。


 廊下の光が差し込む。


 王宮衛兵が槍を構えている。


 その後ろに、ヴィクトル・グレン。


 さらにその横に、オスカー。


 オスカーは静かに笑っていた。


 追い詰められているはずなのに。


 その笑みが嫌だった。


「もう遅い」


 彼は言った。


 レオン様が目を細める。


「何がだ」


「君たちは、ここで随分と長く話しすぎた」


 胸が凍る。


 オスカーは穏やかに続けた。


「ノアという少年が本当に重要なら、屋敷に残してくるべきではなかったな」


「貴様」


 レオン様が動こうとする。


 私は慌てて彼の腕に触れた。


「レオン様、契約反応が」


「構わない」


「構います!」


 私の声が響いた。


 彼がこちらを見る。


 私は必死に続けた。


「あなたが倒れたら、ノアさんを助けに行く指示も出せません!」


 レオン様の目が揺れる。


 その間に、オルデン様が廊下へ出て護衛へ命じる。


「屋敷へ最速の伝令を! ノア様を最優先で保護! マーサ、ミーナ、全使用人棟の封鎖! 裏門と書庫口を固めよ!」


「はっ!」


 護衛が走り出す。


 だが、間に合うか分からない。


 私は指先が震えるのを感じた。


 ノア。


 どうか無事でいて。


 その時、私の鞄の中で、小さな封蝋が熱を帯びた。


 ノアの手紙。


 最初に彼が私へ送った、あの封筒の封蝋片。


 私は息を呑んだ。


 封蝋が、強く震えている。


 助けて。


 でも、今度の声は少し違った。


 助けて、だけではない。


 兄さんが来た。


 私は鞄を押さえた。


「リックさん……?」


 レオン様がこちらを見る。


「何だ」


「ノアさんの封蝋が反応しています」


 私は震える声で言った。


「屋敷に、リックさんが戻っています」

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