第28話 死んだはずの叔父
「兄の遺言を、まだ信じているのかね?」
その声は、ひどく穏やかだった。
まるで、久しぶりに会った甥へ昔話でもするような響き。
けれど第七封庫の中で、その言葉は冷たい刃のように響いた。
オスカー・ヴァイス。
死んだはずの、先代公爵アルベルト様の弟。
レオン様の叔父。
灰青色の瞳は、確かにヴァイス家の色をしていた。
痩せた頬。
白い髪。
杖をついた姿。
外見だけなら、長い療養生活を送っていた老紳士に見える。
だが、その人がここに立っていること自体が、すでに大きな嘘だった。
亡くなったと記録されていた。
相続から遠ざけよと先代公爵が残していた。
削られた契約書の署名欄に名があった。
そして今、ヴィクトル・グレンが彼を「オスカー様」と呼んだ。
死者は、歩いて王宮文書局へ来ない。
ならば、誰かが死を偽ったのだ。
あるいは、死んだことにされた本人が、それを利用した。
「オスカー叔父上」
レオン様の声は低かった。
「生きていたのか」
「見ての通りだ」
オスカーは薄く笑った。
「もっとも、このような形で再会したくはなかったがね」
「こちらも同じだ」
レオン様の左手がわずかに震えている。
契約反応はまだ消えていない。
けれど彼は立っていた。
倒れまいとする意志だけで、そこに立っているようにも見えた。
私は半歩横へ進んだ。
隣に立つ。
後ろではなく。
前でもなく。
半歩横に。
オスカーの視線が、私へ移る。
「君が、封蝋読みの令嬢か」
「セラフィナ・ロウエルと申します」
「ロウエル……ああ、昨日婚約破棄されたばかりの令嬢だったな」
柔らかい声。
柔らかい笑み。
けれど、その中には明らかな毒があった。
昨日までの傷を抉ろうとする言い方。
私が俯くか、動揺するかを見ている。
「はい」
私は静かに答えた。
「そして現在は、ヴァイス公爵家の正式婚約者および臨時文書監査人です」
オスカーの目が、ほんの少し細くなった。
「ずいぶんと早い婚約だ」
「王宮文書局が第七封庫入室の身元保証として、正式婚約者の資格を求めましたので」
私がそう言うと、扉の外に立つヴィクトル・グレンの表情がわずかに硬くなった。
オスカーは小さく笑う。
「なるほど。書類で結ばれた婚約か。ヴァイス家らしい」
「自由意思に基づく契約です」
「それは結構」
彼はそう言いながら、ゆっくり封庫へ入ってきた。
王宮衛兵が背後に控え、ヴィクトルがその横に立つ。
イザークは少しだけ下がっていた。
先ほどまで場を支配していた彼が、今はオスカーの後ろにいる。
主従とまでは言わない。
だが、力関係は見えた。
イザークの上に、ヴィクトル。
そしてヴィクトルの背後に、オスカー。
「叔父上」
レオン様が言った。
「あなたは死んだと聞かされていた」
「ああ。そういうことにした方が、互いのためだった」
「誰のためだ」
「ヴァイス家のためだよ」
オスカーは穏やかに答える。
「兄アルベルトは、昔から疑い深かった。私が公爵位を狙っていると、ありもしない妄想に取り憑かれていた。だから私は身を引いた。死んだことにでもすれば、兄も安心するだろうと思ってね」
あまりにも滑らかな説明だった。
準備されていた言葉。
何度も頭の中で繰り返された弁明。
私はそれを聞きながら、封蝋ではなく、言葉を見た。
ありもしない妄想。
兄を安心させるために死んだことにした。
だが、本当に兄を安心させるためなら、なぜ王宮文書局長代理や文官と繋がっているのか。
なぜ相続調査制限契約に名があるのか。
なぜ契約書の署名を削ったのか。
言葉は穏やかでも、筋が通っていない。
「オスカー様」
私は口を開いた。
彼がこちらを見る。
「何かね、婚約者殿」
「確認してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「オスカー様は、先代公爵様に疑われたくなかったため、死んだことにした。そうおっしゃいましたね」
「そうだ」
「では、死亡記録を作成したのはどなたですか」
オスカーの微笑みが、ほんの少し止まった。
「古い話だ。詳しくは覚えていない」
「教会ですか。王宮文書局ですか。それともヴァイス公爵家内部ですか」
「療養先の医師と教会だったはずだ」
「はず」
私はその言葉を記録するように繰り返した。
「ご自身の死亡記録なのに、曖昧なのですね」
空気が、少し冷える。
ヴィクトルが眉をひそめた。
「セラフィナ嬢。オスカー様は長く療養されていた。記憶に曖昧な点があるのは当然だ」
「でしたら、死亡記録の写しを確認すべきです」
私は答えた。
「死んだことになっていた方が、現在ここに生きて立っておられるのですから」
クラリッサ夫人が静かに頷いた。
「当然の確認ですね」
セルジオ司祭も言った。
「教会死亡登録との照合が必要です」
オスカーは穏やかな表情を崩さない。
「よかろう。確認したまえ。だが、それより問題なのは兄の遺言だ」
「先代公爵様の遺言ですか」
「ああ」
彼は確認台に置かれた紙片を見た。
弟オスカーを、相続から遠ざけよ。
「兄は晩年、判断を誤ることが多かった。レオンハルト、お前も知っているだろう。兄は領地支援に金を使いすぎた。孤児院、施療院、貧民救済、薬草園の維持。理想ばかりで現実を見なかった」
レオン様の目が冷える。
「それが理由で、孤児院のパンを奪ったのか」
「私は奪っていない」
オスカーは即答した。
「商会や教会の不正は、私の関知するところではない」
「クラウス商会と近かったと聞いた」
「昔の話だ。大商会との関係を持つこと自体は悪ではない。むしろ兄が商売を軽んじすぎたのだ」
滑らかだ。
どんな問いにも、すぐ返す。
けれど返答が早すぎる。
最初から想定していた質問に答えているようだった。
「では、相続調査制限契約については?」
私が尋ねると、オスカーは少し悲しそうに眉を下げた。
「それも誤解だ」
「誤解」
「レオンハルトを守るためだった」
封庫内の空気が、明らかに変わった。
レオン様を守るため。
その言葉は、先代公爵の封蝋に残っていた本物の願いと同じ形をしている。
けれど、響きが違う。
まるで、誰かの言葉を真似ているような不自然さがあった。
「兄の遺言に振り回されれば、レオンハルトは壊れる。現に今も、こんなに顔色が悪い。相続の泥沼に引きずり込まないため、調査を一時的に制限する必要があった」
「本人の同意なく?」
「家門を守るためには、時に本人の意思より大きな判断が必要だ」
レオン様の手が、かすかに動く。
私は先に言った。
「では、なぜ対象者本人の署名欄を空白にしたのですか」
「緊急措置だったのだろう」
「なぜご自身の署名を削ったのですか」
オスカーの笑みが、初めて薄くなった。
「私は署名していない」
「削られた署名欄に、オスカー・ヴァイスの名が残っています」
「君の職能がそう読んだだけだ」
「いいえ。封蝋粉、筆圧痕、削り跡が残っています。正式鑑定で確認可能です」
オスカーは私を見た。
その目は、先ほどまでの穏やかな老人のものではなかった。
灰青色の瞳。
レオン様と同じ色のはずなのに、ずっと冷たい。
「君は、本当に厄介な娘だ」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「承知しております」
横でレオン様が、ほんのわずかに息を吐いた。
笑ったのではない。
でも、少しだけ苦しさが和らいだように見えた。
私はまたオスカーへ向き直る。
「もう一つ確認させてください」
「まだあるのかね」
「オスカー様は、先代公爵様があなたを疑っていたのは妄想だとおっしゃいました」
「ああ」
「ですが、あなたは兄上が安心するように死んだことにした、ともおっしゃいました」
「それが?」
「疑いが妄想であれば、なぜ死亡偽装までする必要があったのですか」
オスカーの表情が止まった。
私は続ける。
「無実を説明するのではなく、死を偽る。さらに王宮文書局長代理やイザーク様と関わり、相続調査制限契約に削られた署名を残す。それは、兄上を安心させる行動ではなく、兄上の目から逃れる行動です」
静寂。
青い封庫の中で、赤い家門封が淡く光る。
先代公爵の封が、私の言葉に反応している。
オスカーは、しばらく私を見ていた。
そして、ゆっくり笑った。
「なるほど。レオンハルトが気に入るわけだ」
急に話題を変えてきた。
私の胸が小さく跳ねる。
けれど、私は表情を崩さなかった。
「今は私の話ではありません」
「いや、君の話でもある」
オスカーはレオン様を見た。
「レオンハルト。お前は昔から、必要のないものまで背負いたがる子だった。今度は婚約破棄された令嬢を拾い、父の古い妄執に付き合わせているのか」
レオン様の目が冷たくなる。
「彼女は私が拾ったものではない」
「では何だ」
「私の婚約者だ」
静かな声。
けれど、その一言に封庫の空気が震えた気がした。
私は思わず彼を見る。
レオン様はオスカーから視線を逸らさずに続けた。
「そして、先代公爵が名指しした指定確認者だ」
「兄の遺言が、そんなに大事か」
「ああ」
「兄はお前を縛っただけだ。死者の声に従って、生者を不幸にしている」
「違います」
私が言った。
オスカーの視線が戻る。
「先代公爵様の封蝋は、レオン様を縛っていません。縛っていたのは、あなた方が作った相続調査制限契約です」
私は確認台の黒紫の契約書を示した。
「死者の遺言を悪者に見せ、その実、契約で生者を縛っていた。それがこの事件です」
セルジオ司祭が小さく頷く。
クラリッサ夫人も黙って聞いている。
ヴィクトルは扉の外で顔を歪めていた。
エリアス様は、もう口を開けない。
「言葉が上手い」
オスカーは言った。
「だが、若い令嬢は知らないのだろう。家門を守るには、綺麗事だけでは足りない」
「孤児院のパンを奪うことが、家門を守ることですか」
「それは商会の不正だと言った」
「施療院の薬を薄めることは?」
「知らない」
「ノアを教会に渡すなという手紙は?」
その瞬間、オスカーの目がわずかに動いた。
ほんの一瞬。
でも、今までで一番大きな反応だった。
「ノア?」
彼は知らないふりをした。
「誰のことかね」
「書庫番見習いの少年です」
「使用人の名まで、私が知るはずもない」
「では、なぜ反応したのですか」
「反応などしていない」
「しました」
私は静かに言った。
「あなたは、オスカー・ヴァイスの名を読まれた時より、ノアの名を出された時の方が動揺しました」
封庫の中が、さらに静かになる。
オスカーは微笑んでいる。
だが、その微笑みが少しだけ薄い。
「観察力のある令嬢だ」
「封蝋読みですので」
「封蝋ではなく、人の顔まで読むのか」
「嘘をつく方は、顔にも余白を残します」
オルデン様が小さく咳払いをした。
笑いをこらえたのかもしれない。
レオン様の手が、少しだけ緩む。
だが、オスカーの目は笑っていなかった。
「ノアという子が何者であれ、相続には関係あるまい」
「先代公爵様の日記には、ノアは相続人ではない。だが、相続を覆す証人である、とありました」
私は言った。
オスカーの杖を持つ手が、わずかに強張る。
「兄の日記まで見たのか」
「はい」
「死者の私室を暴くとは、随分と礼を欠く」
「死者の願いを都合よく書き換えるよりは、礼を欠かないと思います」
赤い家門封が、また淡く光った。
まるで、先代公爵がそこにいるようだった。
オスカーは、その光を見て初めて不快そうに眉を寄せた。
「兄は死んだ」
「はい」
「死者は戻らない」
「はい」
「ならば、生きている者が家を動かすべきだ」
「生きている者が、死者の名を使って嘘を通すべきではありません」
オスカーの目が冷えた。
その瞬間、私は分かった。
この人は、先代公爵を恐れている。
死んでなお、封蝋に残った兄の意思を恐れている。
だから消したかった。
再封したかった。
黒紫の契約でレオン様を縛り、ノアを消し、エリシア様の記録を隠したかった。
死者の声を、二度と届かないように。
「レオンハルト」
オスカーは突然、レオン様へ語りかけた。
「お前は本当に、兄が正しかったと思うのか」
「何が言いたい」
「兄はエリシアを守れなかった」
空気が、変わった。
エリシア様。
レオン様の叔母。
死んだことにされたかもしれない女性。
出生証明の断片に残っていた名。
オスカーは、初めて自分からその名を出した。
「兄は家族を守ると言いながら、妹一人守れなかった。領民に金を配り、孤児院にパンを送り、施療院に薬を届けることに夢中で、身内の崩壊には気づかなかった」
「叔父上」
レオン様の声が低くなる。
「エリシア叔母に何をした」
オスカーは悲しげに笑った。
「何もしていない。私はただ、兄の失敗を片づけただけだ」
失敗。
その言葉に、胸の奥が冷える。
エリシア様の存在。
赤子。
出生証明。
孤児院名簿。
それを、この人は失敗と呼んだ。
「エリシア様は、生きていたのですか」
私が問う。
オスカーは私を見た。
「君は本当に、何でも聞く」
「必要なので」
「答える義務はない」
「では、答えられないと記録します」
オスカーは笑った。
「記録、記録、記録。君は記録が人を救うと思っているのかね」
「少なくとも、嘘で殺される人を減らせます」
「甘い」
「甘くて結構です」
私は言った。
「孤児院の子どもにパンが届く方が、薬を薄められない方が、使用人が逃亡者にされない方が、死んだことにされた人の名が戻る方が、ずっといい」
封庫内が静かになった。
私は続けた。
「そのために記録が必要なら、私は書きます。読みます。封じます」
オスカーは、しばらく私を見ていた。
やがて、低く呟いた。
「兄は、厄介なものを呼んだな」
「はい」
私は答えた。
「敵にとっては」
レオン様が、隣で小さく息を吐いた。
今度は、確かに笑った気がした。
その時だった。
確認台の上に置かれていた先代公爵の遺言箱が、再び小さく鳴った。
赤い家門封の光が、紙片だけでなく、箱の奥へ伸びる。
封庫管理官が驚いて後ずさる。
「箱の中に、まだ何かあります」
私は言った。
イザークがすぐに声を上げる。
「これ以上の開封は許可できません」
「先代公爵の家門封が反応しています」
「だからこそ危険です」
「危険なのは、あなた方にとってでは?」
私が言うと、イザークの顔が歪む。
クラリッサ夫人が静かに言った。
「ここまで出た以上、確認を続けるべきです」
セルジオ司祭も頷く。
「同意します」
ヴィクトルが扉の外から鋭く言った。
「認められない。これ以上の開封は王宮文書局長代理として禁じる」
「利害関係者の判断は無効だ」
レオン様が即座に返す。
「オスカー叔父上と関係があるなら、なおさらだ」
ヴィクトルは黙った。
オスカーは、静かに遺言箱を見ている。
その表情は、先ほどまでと違っていた。
穏やかな仮面の奥から、警戒が滲んでいる。
「開けます」
私は言った。
「ただし、私ではなく封庫管理官が。全員立会いのもとで、現状記録を残しながら」
封庫管理官は震える手で頷いた。
赤い家門封は、まるで開けてくれと訴えるように光っている。
管理官が箱の内側を確認する。
そこには、二重底があった。
薄い板。
その下に、小さな封筒。
古い赤い蝋で封じられている。
封筒の表には、先代公爵の筆跡でこう書かれていた。
――エリシアを奪った者の名。
オスカーの顔から、初めて血の気が引いた。
レオン様の呼吸が止まる。
私は封筒を見つめた。
触れなくても分かる。
この封蝋には、怒りではなく、深い悲しみがある。
妹を守れなかった兄の後悔。
それでも真実を残そうとした、最後の意志。
「開封します」
私の声は震えていた。
けれど、止まらなかった。
封庫管理官が赤い蝋へ小刀を入れる。
封が切れる。
中から出てきた紙には、先代公爵の筆跡で名前が三つ記されていた。
オスカー・ヴァイス。
ヴィクトル・グレン。
ベルナール・ダレス。
そして、余白にもう一行。
――この三名は、エリシアの死亡記録を偽造し、その子を孤児院名簿から消そうとした。
封庫の中で、誰も動けなかった。
ノア。
孤児院名簿。
エリシアの子。
相続を覆す証人。
全てが繋がった。
オスカーが低く笑った。
その笑いには、もう穏やかさはなかった。
「兄め」
彼は吐き捨てるように言った。
「死んでもなお、余計な紙を残す」
その瞬間、先代公爵の赤い封蝋が強く燃えるように光り、封筒の底からさらに小さな紙片が落ちた。
そこには、震える筆跡でこう書かれていた。
――ノアの本当の名は、ノア・エリシア・ヴァイス。
――我が妹エリシアの子であり、オスカーの罪を証明する唯一の生き証人である。




