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第27話 消された弟オスカー

 ――弟オスカーを、相続から遠ざけよ。


 確認台へ滑り落ちた紙片には、たった一行だけが記されていた。


 けれどその一行は、第七封庫の空気を変えるには十分すぎた。


 オスカー・ヴァイス。


 その名を口にした瞬間、先代公爵アルベルト様の赤い家門封は、まるで封じていた息を吐き出すように強く光った。


 白銀の狼の紋が、青白い封庫の中で赤く浮かび上がる。


 黒紫の契約書は、反対に沈黙した。


 先ほどまであれほど暴れていた封蝋が、名を読まれた途端、凍りついたように動きを止めている。


 それが何よりの証拠だった。


 この名を、隠したかったのだ。


「オスカー……」


 レオン様が低く呟いた。


 椅子に座ったまま、彼は確認台の紙片を見つめている。


 顔色はまだ悪い。


 けれど、その瞳には痛みよりも困惑が浮かんでいた。


「レオン様。ご存じの方ですか」


「父の弟だ」


 答えたのは、オルデン様だった。


 いつも冷静な老家令の声が、わずかに硬い。


「オスカー・ヴァイス様。先代アルベルト様の弟君にあたられます」


「弟君……」


 私は紙片を見た。


 弟オスカーを、相続から遠ざけよ。


 先代公爵は、実の弟を相続から遠ざけるよう残していた。


 それだけでもただごとではない。


「ですが」


 オルデン様は続ける。


「オスカー様は、十数年前にヴァイス家を離れております。表向きは病による療養。その後、領外で亡くなったと記録されていました」


「亡くなった……?」


 私は思わず聞き返した。


 レオン様の視線が、ゆっくり契約書へ戻る。


 削られた署名欄。


 そこに浮かんだ名。


 オスカー・ヴァイス。


「死んだ者が、契約書に署名するはずがない」


 レオン様の声は低かった。


「少なくとも、死んだことになっていた時期以降の契約ならな」


 私は契約書の日付を確認した。


 相続調査制限契約の申請日。


 先代公爵が亡くなった直後。


 つまり、オスカー様が公式記録上ではすでに亡くなっていた後だ。


「死者名義の受領証と同じです」


 私は言った。


「孤児院では、亡くなった子どもの名でパンや薬草茶が受領されていました。そしてここでは、亡くなったはずのヴァイス家の方の名が、契約書に残っている」


 死者の名で物資を奪う。


 死者の名で契約を通す。


 同じ構造だ。


 ただし、今回は死者の名を借りたのではないかもしれない。


 生きている者を、死んだことにした。


 その可能性がある。


 イザークの顔には、もう余裕がなかった。


「削られた署名の読み取りは、正式鑑定を経ていません。封蝋読みの主観にすぎません」


「では、正式鑑定を行いましょう」


 私は即座に答えた。


「削除署名欄の封蝋粉、筆圧痕、インク溝、羊皮紙削り跡を全て保全してください。王宮文書局単独ではなく、ヴァイス公爵家、教会監査、礼法顧問立会いのもとで」


 クラリッサ夫人が頷く。


「当然ですね。ここまで反応が出た以上、削除署名を無視することはできません」


 セルジオ司祭も、赤い家門封を見つめながら言った。


「死者名義、あるいは死亡偽装の疑義があるなら、教会の死亡登録とも照合が必要です」


 イザークは唇を引き結んだ。


 彼が黙るたびに、場の空気は少しずつこちらへ傾いていく。


 けれど、安心はできない。


 封庫の外には、ヴィクトル・グレンがいる。


 王宮衛兵もいる。


 そして、王宮文書局そのものが、私たちを逃がすまいとしている。


 私は確認台へ落ちた先代公爵の紙片を見つめた。


「この紙片は、どこから出てきたのでしょう」


 誰も触れていない。


 遺言箱の赤い封が反応した瞬間、中から滑り落ちた。


 王宮保管遺言の箱には、先代公爵が残した何かがまだある。


 それも、再封されれば消えていたはずのものが。


「封庫管理官」


 レオン様が低く言った。


「この紙片は王宮保管遺言の一部か」


 封庫管理官は青ざめたまま首を振る。


「確認記録には、このような別紙の記載はありません」


「では、未記録の内封か」


「可能性はあります。しかし、王宮保管箱内に未記録文書が存在すること自体が異例です」


 イザークがすぐに口を挟む。


「未記録文書であるなら、なおさら信頼性は低い。何者かが後から混入させた可能性があります」


「混入できる者は限られますね」


 私は言った。


 イザークがこちらを見る。


「王宮保管箱は、第七封庫内で保管されていました。未記録文書を後から混入できるのは、封庫へ入れる権限を持つ方、または保管記録を改ざんできる方です」


 クラリッサ夫人が、静かに続けた。


「つまり、王宮文書局内部の者ですね」


 イザークの表情が固まる。


 私はさらに言った。


「ただし、この紙片には先代公爵様の赤い家門封が反応しています。偽造文書なら、家門封が守る理由がありません」


「封蝋反応を絶対視するのは危険です」


「絶対視はしません」


 私は頷いた。


「だから、物理証拠も合わせて確認します」


 紙片には、古い折り目があった。


 端に赤い封蝋の粉。


 それから、ほんのわずかに焦げた匂い。


 暖炉の灰の中から見つけた出生証明の断片と似た匂いだ。


「この紙片、先代公爵様の私室にあったものと同じ灰の匂いがします」


 私がそう言うと、レオン様の目が鋭くなった。


「父の私室の暖炉か」


「おそらく、一度は燃やされかけています。でも、完全には燃えず、遺言箱に隠された」


「父が自分で隠したのか」


「はい。少なくとも、誰かに見つからないように」


 私は紙片に触れず、文字を見る。


 弟オスカーを、相続から遠ざけよ。


 その文字は強い。


 怒りではない。


 恐れでもない。


 決意だ。


 先代公爵は、弟を憎んでいたのではない。


 遠ざけなければならないと、判断していた。


「なぜ遠ざける必要があったのでしょう」


 セルジオ司祭が問う。


 レオン様が静かに答える。


「オスカー叔父は、昔から父と折り合いが悪かったと聞いている。公爵位を継ぐのは兄である父だったが、叔父は自分の方が相応しいと主張していたらしい」


 オルデン様が頷いた。


「はい。オスカー様は、先代様の穏健な領地運営を弱腰と批判し、クラウス商会のような大商会との強い結びつきを主張しておられました」


「クラウス商会……」


 また、その名。


「当時から関係があったのですか」


「表向きにはございません。しかし、オスカー様は王都の商人や一部文官と近い付き合いがありました」


「その一部文官が、グレン家やイザークにつながる可能性がありますね」


 私が言うと、エリアス様が震える声で言った。


「父上は……そんな昔から?」


 彼の顔には、怒りよりも恐怖があった。


 自分が思っていたより深い場所に、父がいる。


 そのことにようやく気づいたのだろう。


 でも、同情はしない。


 彼も私を黙らせようとした。


 自分の署名を使い、婚約破棄確認書で私の権利を奪おうとした。


 知らなかったでは済まない。


 知らずに名を貸すことの重さを、彼は今知るべきだ。


「グレン子爵令息」


 私は彼へ向き直った。


「あなたは、オスカー・ヴァイスという名を聞いたことがありますか」


「ない」


 即答だった。


 けれど、声が少し震えている。


 嘘ではないかもしれない。


 少なくとも、彼はオスカー本人については知らなかったように見える。


「では、あなたのお父上から、ヴァイス公爵家の相続に関する話を聞いたことは」


「……」


 沈黙。


 それだけで十分だった。


「あるのですね」


「詳しくは知らない!」


 エリアス様は叫ぶように言った。


「父上はただ、ヴァイス公爵家は呪われた家だから、いずれ相続で揉めると。公爵家が弱れば、グレン家にとって好機になると……それだけだ」


 レオン様の目が冷える。


「好機、か」


 エリアス様は自分の言葉に青ざめる。


「違う、私は」


「記録します」


 私は言った。


「グレン子爵令息は、ヴィクトル・グレンより、ヴァイス公爵家の相続問題がグレン家にとって好機である旨を聞いていた」


「やめろ!」


「記録です」


「またそれか!」


 エリアス様は激昂しかけたが、レオン様の視線を受けて黙った。


 その時、扉の向こうからヴィクトルの声がした。


「封庫内での不必要な尋問はやめていただきたい」


「聞こえていたのですか」


 私は扉の方へ顔を向けた。


「ならば、ちょうどよいです。ヴィクトル・グレン閣下。オスカー・ヴァイスという名に心当たりはございますか」


 扉の向こうが、静まり返った。


 長い沈黙。


 それは、どんな返答より雄弁だった。


 やがて、ヴィクトルの声が戻る。


「古い貴族名を、私がすべて把握しているわけではない」


「では、ご存じないと記録してよろしいですね」


「……そのような記録は不要だ」


「いいえ。削除署名欄に、ヴィクトル・グレンの名と並んでオスカー・ヴァイスの名が確認された可能性があります。ご存じないなら、ご存じないと記録します」


 また沈黙。


 扉の向こうで、何かが小さくぶつかる音がした。


 杖か、机か。


 怒りを抑えた音。


 レオン様が低く言う。


「知らないなら、なぜ動揺する」


 返事はなかった。


 封庫内の全員が、その沈黙を聞いた。


 私は紙片と契約書を見比べる。


 先代公爵は、オスカーを相続から遠ざけよと残した。


 でも王宮保管の記録では、それが消されていた。


 相続調査制限契約は、レオン様がエリシア様、孤児院名簿、王宮保管封の改変疑義へ近づくと発動する。


 ノアは相続人ではない。


 だが、相続を覆す証人。


 つまり、ノアはオスカーの相続資格、あるいはオスカーが何かをした証拠に繋がる人物なのではないか。


 エリシア様の出生証明。


 孤児院名簿。


 死んだことにされた者。


 生者の名を消す帳簿。


 すべてが、オスカーへ向かっている。


「レオン様」


 私は静かに言った。


「オスカー様は、エリシア様の失踪にも関わっている可能性があります」


 レオン様の表情がわずかに強張る。


「叔母を死んだことにしたのが、オスカーだと?」


「まだ断定はできません。でも、先代公爵様がオスカー様を遠ざけよと残し、相続調査制限契約がエリシア様の出生登録に近づくと発動する以上、無関係とは思えません」


 オルデン様が顔を伏せた。


「もし、そうなら……先代様は長年、お一人でそれを調べておられたのか」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 先代公爵は、レオン様を疑っていたのではない。


 守ろうとしていた。


 弟の名。


 妹エリシア様の記録。


 ノア。


 黒い帳簿。


 孤児院。


 施療院。


 商会と教会。


 すべてを一人で抱えて、最後には封蝋に願いを残した。


 レオンハルトを一人にするな。


 その言葉の重さが、また増した。


「紙片を保全します」


 私は言った。


「この紙片は、先代公爵様の遺言箱から出た重要文書です。未記録であっても、家門封反応があります。再封前に独立保全が必要です」


 クラリッサ夫人が頷く。


「同意します」


 セルジオ司祭も言った。


「教会死亡登録との照合も必要になります。オスカー・ヴァイスの死亡記録、エリシア・ヴァイスの死亡記録、孤児院名簿。すべて関連しています」


 イザークは無言だった。


 無言のまま、私を見ている。


 その目にあるのは、もう侮りではない。


 警戒。


 そして、憎悪に近いもの。


「あなたは」


 イザークが低く言った。


「本当に余計なものばかり掘り返す」


「紙が覚えていたものです」


「死者の言葉に縋るのは愚かです」


「生者が嘘をつくから、死者の封が必要になるのです」


 私がそう答えると、赤い家門封が淡く光った。


 イザークは唇を噛む。


 その時、封庫の扉の向こうで足音が増えた。


 王宮衛兵とは違う。


 もっと整った歩調。


 高位の者に従う随行の足音。


 ヴィクトルの声が、少しだけ低くなる。


「……なぜ、ここに」


 誰に向けた声なのか。


 封庫内の全員が扉を見る。


 次に聞こえたのは、老いた男の声だった。


 ひどく穏やかで、少し掠れている。


 だが、その声を聞いた瞬間、レオン様が椅子の肘掛けを掴んだ。


 オルデン様の顔が、信じられないほど青ざめる。


「まさか……」


 扉の向こうの老いた声が言った。


「騒がしいと思えば、随分と懐かしい名が聞こえたものだ」


 私の指先が冷えた。


 オスカー。


 その名が、封庫の中でまだ赤く反響している。


 扉の外で、ヴィクトルが抑えた声で言った。


「オスカー様。今は、お出ましになるべきでは」


 その言葉で、すべてが確定した。


 オスカー・ヴァイスは、死んでいない。


 封庫内の空気が凍る。


 レオン様が、ゆっくりと立ち上がった。


 顔色は悪い。


 けれど、その背筋は真っすぐだった。


「扉を開けろ」


 彼の声は、氷のようだった。


「死んだはずの叔父に、聞きたいことがある」


 青銅の扉の鍵が、ゆっくりと回る。


 重い扉が開く隙間から、王宮廊下の光が差し込む。


 その光の向こうに、杖をついた老紳士の影が立っていた。


 白髪。


 痩せた頬。


 けれど、灰青色の瞳だけは、レオン様と同じヴァイスの色をしている。


 老紳士は私たちを見渡し、最後にレオン様へ視線を止めた。


「久しいな、レオンハルト」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「兄の遺言を、まだ信じているのかね?」

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