第26話 婚約者を連れていかせない
「セラフィナ・ロウエル嬢に、王宮文書偽造および禁制契約干渉の疑いあり。身柄を確保する!」
青銅の扉の向こうから響いたその声に、第七封庫の空気が凍った。
王宮衛兵。
王宮文書局長代理、ヴィクトル・グレンの命令。
グレン。
その姓を聞いた瞬間、エリアス様の顔から血の気が引いた。
彼はまるで、自分の足元が急に崩れたかのように一歩後ずさる。
「父上が……?」
小さな声だった。
ヴィクトル・グレン。
エリアス様の父。
そして、王宮文書局長代理。
グレン家は、ただの婚約破棄騒動に関わっていただけではなかった。
王宮文書局の中枢にいる。
イザークを動かせる立場にいる。
そして今、私を拘束する命令を出した。
背筋が冷える。
けれど、怖がっているだけの時間はなかった。
黒紫の契約書は開かれたまま、確認台の上にある。
対象者本人の署名欄は空白。
契約申請者には、イザーク・メルヴィン、ベルナール司祭、クラウス商会代理。
そして、削られたもう一つの署名。
私はまだ、その名を読み切れていない。
でも、今ここで連れていかれれば、二度と読めないかもしれない。
扉の外で、衛兵が再び叫ぶ。
「第七封庫を開けよ! 王宮命令である!」
イザークは薄く笑っていた。
さっきまで追い詰められていた顔が、今は余裕を取り戻している。
「残念です、セラフィナ嬢」
彼は言った。
「王宮封庫内で禁制契約へ干渉した以上、聴取は避けられません」
「私は触れていません」
「触れずとも、あなたの職能が契約を破損させた。現に封蝋は砕け、契約書が露出している」
「砕けたのは、同意のない偽装拘束だったからです」
「その判断を、あなたがする権限はありません」
イザークの声は冷たい。
彼は私を見ているのではない。
どう封じるかを計算している。
「王宮文書偽造、禁制契約干渉、封庫保全妨害。十分に拘束理由となります」
その瞬間、レオン様が立ち上がった。
まだ顔色は悪い。
契約反応の影響で、左手はわずかに震えている。
けれど、立った。
氷青の瞳は、封庫の誰よりも冷たかった。
「その拘束理由を、誰が認定した」
「王宮文書局長代理、ヴィクトル・グレン閣下です」
イザークが答える。
「では、無効だ」
封庫内が静まった。
イザークの目が細くなる。
「何を根拠に?」
「利害関係者だからだ」
レオン様は確認台に置かれた婚約破棄確認書の写しを見た。
「グレン家は、セラフィナに婚約破棄確認書への署名を迫り、その中にクラウス商会および支援金記録に関する証言放棄条項を含めていた。さらに、グレン子爵令息エリアスは、クラウス商会の慈善活動に後援者として名を貸したことを認めている」
エリアス様がびくりと肩を震わせる。
「そ、それは」
「黙れ」
レオン様の声が落ちる。
エリアス様は言葉を失った。
「そのグレン家の当主が、王宮文書局長代理としてセラフィナの拘束命令を出した。明らかな利益相反だ」
クラリッサ夫人がゆっくり頷いた。
「確かに、手続き上の問題があります」
イザークの顔がわずかに歪む。
「ルヴェール夫人、これは封庫内での緊急措置です。利益相反を精査する時間は」
「緊急措置であるほど、命令権者の中立性は重要です」
クラリッサ夫人の声は硬い。
「まして、身柄拘束となればなおさら」
セルジオ司祭も静かに続けた。
「教会側立会人としても、対象者本人の同意を欠く契約書が発見された直後に、その発見者を拘束するのは不自然です。証拠保全を優先すべきでしょう」
「証拠保全なら、彼女を外へ出すべきではありません」
イザークが言った。
「だから、拘束するのです」
「拘束ではなく、立会人保護です」
私は口を開いた。
イザークがこちらを見る。
私は婚約契約書を胸元から離し、確認台の上へ置いた。
白銀の狼と蔦と小鳥の封。
まだ微かに温かい。
「私は、ヴァイス公爵家の正式婚約者であり、先代ヴァイス公爵の指定確認者です。王宮文書局が私の入室資格として正式婚約者の身元保証を条件とした以上、私の身柄に関する処置は、婚約者であるヴァイス公爵閣下への正式通告なしには行えません」
「通告は扉の外で行われました」
「いいえ」
私は首を振る。
「扉越しの叫びは、正式通告ではありません。拘束理由、根拠条文、命令者、利害関係の有無、聴取場所、同行者の可否、記録官の氏名、全てを書面で提示してください」
イザークの頬がぴくりと動いた。
「王宮衛兵の命令に逆らうつもりですか」
「正式書面を求めています」
「今この状況で?」
「王宮文書局の場ですので」
私は静かに言った。
レオン様の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
でもすぐに、彼は扉へ向かって声を張った。
「扉の外の衛兵に告げる」
封庫内に、その声が響く。
「セラフィナ・ロウエルは、ヴァイス公爵家当主レオンハルト・ヴァイスの正式婚約者であり、私の身元保証下にある。彼女を拘束するなら、ヴァイス公爵家への敵対的身柄干渉とみなす」
扉の向こうがざわめいた。
王宮衛兵たちも、すぐには踏み込めない。
公爵家の正式婚約者。
それも、王宮文書局が条件として認めた身分。
ただの下級貴族令嬢としてなら連れていけても、公爵家の婚約者としては扱いが変わる。
それが、私たちの婚約契約の意味だった。
レオン様は続けた。
「さらに、現在この封庫内では、対象者本人の署名を欠いた相続調査制限契約の原本が発見された。契約申請者には、王宮文書局補佐官イザーク・メルヴィン、ベルナール司祭、クラウス商会代表代理の名がある。これを保全する」
イザークの目が鋭くなる。
「公爵閣下、その内容を封庫外へ漏らすのは」
「証拠隠滅を防ぐためだ」
「封庫情報の秘匿規則に反します」
「私の身体を拘束していた契約だ。秘匿を盾に黙らせるな」
その声に、黒紫の契約書が小さく震えた。
まるで、また発動しようとしているように。
私はすぐに婚約契約書へ手を添えた。
読まない。
ただ、封じる。
白銀の狼と小鳥の封が淡く光り、黒紫の震えを押さえる。
レオン様の呼吸が少しだけ楽になった。
「セラフィナ」
彼が低く呼ぶ。
「はい」
「無理はするな」
「契約書に従っています」
「その契約書を盾にするとはな」
「敵が作らせた条件ですので」
「便利だな」
「はい」
こんな状況なのに、少しだけ胸が緩んだ。
私たちが作った契約書は、確かに今、盾になっている。
扉の外から、今度は別の声がした。
落ち着いた、年配の男性の声。
「ヴァイス公爵閣下。王宮文書局長代理ヴィクトル・グレンである。封庫内での混乱を鎮めるため、扉を開けていただきたい」
ヴィクトル・グレン。
エリアス様の父。
王宮文書局長代理。
レオン様が目を細める。
「開ければ、私の婚約者を拘束するつもりか」
「疑義がある以上、一時的な聴取は必要です」
「聴取場所は」
「文書局内の聴取室を予定しています」
「同行者は」
「聴取の性質上、本人のみ」
「却下だ」
即答だった。
扉の外が静まる。
「公爵閣下。これは王宮文書局の手続きです」
「ならば正式書面を扉下から差し入れろ。命令者の署名、封蝋、拘束理由、根拠条項、利害関係の申告、聴取記録官、立会人の可否を明記しろ」
レオン様の声は冷たい。
「それができないなら、ただの拉致だ」
拉致。
その言葉に、封庫内の空気が揺れた。
イザークが鋭く言う。
「公爵閣下、言葉が過ぎます」
「では、書面を出せ」
イザークは黙った。
扉の向こうのヴィクトルも、すぐには返答しない。
出せないのだ。
少なくとも、今すぐには。
なぜなら、彼らは私を「その場の混乱」に乗じて連れていくつもりだったから。
正式書面にすれば、利害関係が残る。
グレン家の名が残る。
私を拘束した理由が記録される。
そして、その直前に発見された契約書の存在も、無視できなくなる。
私は確認台の上の黒紫の契約書へ視線を落とした。
削られた署名。
今なら読めるかもしれない。
でも、イザークは私を見ている。
少しでも触れれば、また干渉と言われる。
触れずに。
読める範囲で。
私は白手袋の指先を握り、削られた署名の上に残る封蝋粉を見た。
焦げた黒紫。
青い追記。
銀の粉。
そこに、薄く残る筆圧。
ヴィ……
いや、まだ全部は読めない。
けれど、最初の文字は見えた。
ヴィ。
ヴィクトル。
そう思った瞬間、黒紫の契約書がぴくりと震えた。
イザークが素早く目を向ける。
「セラフィナ嬢。今、何をしました」
「何も」
「契約書が反応した」
「署名が、読まれたくないのでしょう」
私がそう言うと、イザークの目が冷える。
「推測は慎んでください」
「では、削除された署名欄の保全処置を行いましょう」
「不要です」
「必要です」
私はクラリッサ夫人へ向き直る。
「ルヴェール夫人。この契約書には削られた署名があります。私は、削除痕の保全を求めます」
クラリッサ夫人は確認台へ近づき、署名欄を見た。
その目が細くなる。
「確かに、削り跡があります」
セルジオ司祭も覗き込む。
「封蝋粉が文字溝に残っています。後から削ったのでしょう」
「削られた署名の保全は、当然必要ですね」
クラリッサ夫人が言った。
イザークはすぐに返す。
「削除済みの無効署名です」
「無効署名であることを確認するためにも、保全が必要です」
彼女は淡々と言い切った。
形式の刃。
私が敵に向けてきた刃を、今度はクラリッサ夫人が振るっている。
イザークの眉がわずかに動いた。
扉の向こうから、ヴィクトルの声が再び響く。
「イザーク。中の状況を報告せよ」
イザークは扉の方を見た。
ほんの一瞬、迷いが見えた。
報告すれば、削られた署名の存在も言わなければならない。
報告しなければ、封庫内の手続きから外れる。
その一瞬を、レオン様は逃さなかった。
「ヴィクトル・グレン」
彼は扉へ向かって言った。
「相続調査制限契約の原本に、削除された署名がある。これを保全する。異議があるなら、扉越しではなく正式書面で出せ」
扉の向こうが、明らかにざわついた。
それで分かった。
ヴィクトル・グレンは、この署名の存在を知っている。
そして、知られたくない。
「公爵閣下」
扉の向こうの声が低くなる。
「王宮封庫内の契約書について、許可なく外部へ言及することは重大な規則違反です」
「私の名と身体を使った契約だ」
レオン様は一歩も引かない。
「外部ではない。当事者本人だ」
黒紫の契約書がまた震えた。
レオン様が胸を押さえる。
私はすぐに婚約契約書をかざした。
白銀の狼と小鳥の封が光る。
今回は、先ほどより強く。
黒紫の反応が押し返される。
イザークが低く呟いた。
「その婚約契約書……」
「何か?」
私は尋ねた。
「ただの身元保証ではないのですね」
「はい」
私は答えた。
「互いを守る契約です」
「くだらない」
初めて、イザークの声に露骨な侮りが混じった。
「契約とは、権利と義務を縛るものです。感情で作るものではない」
「だから、あなたの契約は破れたのです」
私は静かに言った。
「人を縛ることしか考えていないから」
イザークの目が細くなる。
でも、もう私は怖がらなかった。
「契約は、同意を覚えます。保護を覚えます。守ろうとした意思も、利用しようとした意思も、封蝋は全部覚えている」
私は確認台の上の黒紫の契約書を見た。
「この契約には、レオンハルト様の同意がない。だから、彼の身体を縛るたびに反発が起きる。先代公爵様の家門封が拒むのも当然です」
赤い家門封が、また淡く光る。
まるで、私の言葉に頷くように。
その光を見て、セルジオ司祭が静かに祈りの印を切った。
「これは、ただの封蝋反応ではありませんな」
彼は言った。
「死者の意思が、まだ保全されている」
イザークは冷たく返す。
「神学的判断は不要です」
「いいえ。教会証人として必要です」
セルジオ司祭は怯まなかった。
「同意なき拘束契約が、死者の遺言封に反発され、対象者の身体に苦痛を与えた。これは教会監査対象です」
イザークの顔色が変わった。
教会監査。
ベルナール司祭が関与している以上、教会側も無視できない。
外ではグレン家。
中ではイザーク。
教会とクラリッサ夫人が形式上こちらに寄れば、彼らは強引に押し切りにくくなる。
オルデン様が静かに言った。
「旦那様。今の発言、全て記録しております」
「よい」
「写しを作成するには、封庫外へ出る必要がございます」
「出られるならな」
レオン様が扉を見る。
まだ鍵は閉じられている。
扉の向こうには衛兵。
こちらには証拠。
このまま膠着すれば、王宮側は時間を稼ぐ。
時間を稼がれれば、別の命令が来るかもしれない。
もっと上から。
あるいは、もっと強引なものが。
私は考えた。
どうすれば、この扉を開けさせられるか。
私を拘束させずに。
証拠を消させずに。
その時、クラリッサ夫人が静かに扉へ向かった。
「ルヴェール夫人?」
イザークが呼ぶ。
彼女は振り返らない。
「王宮礼法顧問クラリッサ・フォン・ルヴェールとして、封庫外へ正式報告を行います」
「今は封庫閉鎖中です」
「閉鎖を命じた正式書面は?」
クラリッサ夫人は淡々と問う。
イザークが黙る。
「ないのですね。では、封庫閉鎖は手続き上不完全です」
彼女は扉の内側にある小さな通達窓を開いた。
外の衛兵が慌てる気配がする。
「外の衛兵へ告げます」
クラリッサ夫人の声は、よく通った。
「本封庫内には、王宮文書局の手続き重大瑕疵が認められました。王宮礼法顧問および教会監査司祭の立会いのもと、証拠保全を優先します。セラフィナ・ロウエル嬢の身柄拘束は、正式書面が提示されるまで認めません」
「ルヴェール夫人!」
扉の外でヴィクトルの声が荒くなる。
「あなたにその権限はない」
「身柄拘束の審査権限はありません」
夫人は落ち着いて答える。
「ですが、花嫁候補審査のために私はここへ呼ばれました。ならば、少なくともヴァイス公爵家婚約者であるセラフィナ嬢の礼法上の立場について、確認を終えるまでは連行を不適当と判断できます」
私は息を呑んだ。
花嫁候補審査。
嫌がらせとして仕掛けられたものが、今度は私の身柄を守る盾になっている。
「私はまだ、彼女を不適格とは判断しておりません」
クラリッサ夫人は続けた。
「むしろ現時点では、王宮文書局の場において、彼女ほど手続きを理解している令嬢は珍しい」
胸が詰まった。
それは褒め言葉ではないのかもしれない。
でも、私には十分すぎる言葉だった。
セルジオ司祭も扉へ近づく。
「教会監査司祭セルジオとしても申し上げる。同意なき拘束契約の疑義がある以上、発見者である指定確認者を単独で連行することは、証拠隠滅の疑念を招く。認められません」
扉の外のざわめきが大きくなる。
ヴィクトルの声は、しばらく聞こえなかった。
イザークは唇を引き結んでいる。
ここまで来て、彼も分かったはずだ。
封庫内全員を黙らせることはできない。
少なくとも今は。
扉の向こうで、重い声がした。
「……では、拘束ではなく、任意聴取とする」
ヴィクトルだ。
「セラフィナ嬢には、封庫確認終了後、文書局長代理室へ同行を求める」
「単独では同行しない」
レオン様が即座に言った。
「私が同席する」
「公爵閣下は体調が」
「私の体調を悪化させていた契約が今ここにある」
レオン様の声は冷たかった。
「その件も含めて聴取するなら、私が当事者だ」
ヴィクトルは答えない。
私は一歩前へ出た。
「任意聴取であるなら、拒否権と同行者の選択権があります。私は、ヴァイス公爵閣下、家令オルデン様、王宮礼法顧問クラリッサ夫人、教会監査司祭セルジオ様の同席を求めます」
イザークが苦々しく言う。
「多すぎます」
「多い方が記録は正確です」
私は答えた。
クラリッサ夫人が、ほんのわずかに口元を上げた。
「同席しましょう」
「私も」
セルジオ司祭が頷く。
扉の向こうで、ヴィクトルが低く言った。
「……よかろう。ただし、契約原本は封庫に残す」
「いいえ」
私はすぐに言った。
「原本はこの場で保全封を追加します。王宮文書局単独管理ではなく、ヴァイス公爵家、教会監査、礼法顧問の立会い記録を添えます」
「その権限は」
「対象者本人の身体拘束を伴う契約です。現状のまま王宮文書局単独管理へ戻せば、証拠改ざんの恐れがあります」
私は確認台の上の契約書を見た。
「既に削られた署名がありますので」
扉の向こうが、また静まった。
削られた署名。
その言葉が、外にいるヴィクトルへ届いた。
反応は、明らかだった。
沈黙が長い。
長すぎる。
「……好きにしろ」
ようやく返ってきた声は、ひどく硬かった。
「ただし、全て記録する」
「もちろんです」
私は答えた。
「記録のために、ここまで来ましたので」
封庫内の鍵が、外側から外される音がした。
だが扉はまだ開けない。
その前に、私たちは原本の保全を行った。
まず、封庫管理官が現状記録を作成。
黒紫の契約封の破損、対象者署名欄の空白、削除署名の存在、申請者名、発動条件、封の順序。
次に、セルジオ司祭が教会監査印を押す。
クラリッサ夫人が立会い証印を添える。
そしてレオン様が、震える左手ではなく右手で、白銀の狼の公爵家保全封を押した。
最後に、私の蔦と小鳥の仮封。
手が少し震えた。
けれど、レオン様が隣で支えてくれた。
「急がなくていい」
「はい」
「読まなくていい」
「はい」
「封じるだけだ」
「はい」
琥珀色の蝋に、封印具を押す。
小鳥と蔦。
その小さな印が、黒紫の契約書の端に刻まれる。
瞬間、契約書の震えが弱まった。
レオン様の呼吸も、少しだけ楽になったように見える。
私はほっと息を吐いた。
その時、削られた署名欄の封蝋粉が、かすかに光った。
触れていない。
読もうとしていない。
けれど、保全封を押したことで、削られた文字の輪郭が一瞬だけ浮かび上がった。
私は息を止めた。
ヴィクトル。
やはり。
そして、その下にもう一語。
グレンではない。
もっと古い家名。
ヴァイス。
え。
私は目を見開いた。
削られた署名は、ヴィクトル・グレンだけではなかった。
その下に、もう一つ、薄く重ねられている。
ヴァイス家の名。
だが、レオンハルトではない。
アルベルトでもない。
エリシアでもない。
読める。
読めてしまう。
――オスカー・ヴァイス。
知らない名。
けれど、その名が浮かんだ瞬間、赤い家門封が激しく光った。
レオン様が息を呑む。
「セラフィナ?」
私は震える声で言った。
「削られた署名は、一人ではありません」
イザークの顔色が変わる。
扉の外で、誰かが息を呑む気配がした。
私は確認台の上の契約書を見つめる。
「ヴィクトル・グレンの下に、もう一つ名があります」
「やめろ!」
イザークが叫んだ。
初めて聞く、完全な焦りの声だった。
でも、もう遅い。
封蝋は、名を覚えている。
私は口にした。
「オスカー・ヴァイス」
その瞬間、先代公爵の遺言箱の赤い封蝋が、弾けるように光った。
そして箱の中から、誰も触れていないはずの古い紙が一枚、確認台へ滑り落ちた。
そこには、先代公爵アルベルトの筆跡で、たった一行だけ書かれていた。
――弟オスカーを、相続から遠ざけよ。




