第五章 体温は約束より残酷だ
初めて手をつないだ日の天気は、思い出せない。
晴れていた気もするし、曇っていた気もする。
風があったような気もするし、汗ばむほど暑かった気もする。
恋の記憶とは不公平だ。
景色や気温は消してしまうくせに、
触れた瞬間の体温だけは、何年経っても返してくれない。
ある日の放課後だった。
剣道部の練習が早く終わり、校門を出る時間が珍しく重なった。
友達は先に帰り、通学路には私たちしかいなかった。
沈黙が続く。
付き合って数か月経っても、二人きりになると私はうまく話せなかったのだ。
学校では他人。ノートの中では恋人。
現実の距離だけ、いつまでも決まらない。
彼が先に歩き、私は半歩後ろをついていく。
その背中を見ながら、ノートではあんなに饒舌な人なのに、と思った。
踏切が鳴り出した。
遮断機が下りる。
私たちは赤と黄色の棒の前で立ち止まる。
電車が来るまでの数十秒、世界は足止めされる。
あの時間が、私は昔から少し好きだった。
逃げ場のない沈黙にも、理由ができるから。
カン、カン、カン、と音が鳴る中で、彼が急に言った。
「なぎさ?」
「うん」
「手、出して」
私は意味が分からず、右手を少し上げた。
彼はため息をつき、私の手首を取った。
それから、指をほどくみたいにゆっくり、手をつないだ。
電車が通った。
鉄の塊が轟音を立てて目の前を過ぎていく。
なのに私は、その音をほとんど覚えていない。
覚えているのは、彼の手が思ったより熱かったこと。
掌に少しだけ汗をかいていたこと。
親指が、私の親指の付け根に触れていたこと。
それだけで、私はもう別の生き物になってしまった。
遮断機が上がる。
彼は何事もなかったように歩き出した。
手だけつないだまま。
私はその横顔を見る勇気がなかった。
家までの十分ほどの道のりが、
人生でいちばん短く、いちばん長かった。
別れ際、彼は手を離して言った。
「また明日」
たったそれだけ。
キスもない。抱きしめることもない。
でも、私の全身はしばらく彼のものだった。
その夜、五冊目のノートが始まった。
―今日、手つないだね。
私は返事を書く前に、自分の右手を何度も見た。
そこに何かが残っている気がした。
―うん。
それしか書けなかった。
本当は違った。
あの十分間で、私は世界の見え方が変わっていた。
コンビニの明かりも、道路標識も、家の犬の鳴き声も、
全部が少しだけ祝福みたいに感じられた。
でも、十五歳の私は語彙が足りなかった。
彼は続けて書いた。
―ずっとつないでたかった。
私は胸が痛くなるほど嬉しかった。
―うん
本当は、少し違う。
ずっとつないでいてほしかった。
離される方が怖かった。
数日後、彼はこう書いた。
―今日、帰り一人だったね。なんで待ってくれなかったの?
責める文ではなかった。
問いかけの形をしていた。
私は慌てて返した。
―ごめん。先生に呼ばれてた。
―そっか。ならいい。
ならいい。
許されたことに安堵し、許しを必要としている自分には気づかなかった。
また別の日。
―今日、誰と笑ってた?
―クラスの子だよ。
―男?
―ちがうよ。
―ならいい。
「ならいい」
その四文字が増えていった。
私は彼の機嫌を先回りして考えるようになった。
昼休みに誰と話すか。
帰り道を誰と歩くか。
廊下でどこを見るか。
恋人ができただけなのに、
世界に監督が一人増えたみたいだった。
それでも、夜になると右手が彼を思い出した。
指の間にあった熱。
少し汗ばんだ掌。
踏切の音に紛れて始まった約束。
人は、やさしい記憶に何度でも騙される。
五冊目の終わりに、彼は書いた。
―次は、もっと長く触りたい。
その一文を見たとき、
嬉しさと怖さが、同じ顔をして座っていた。




