第三章 文字はキスより深く触れる
恋が始まっても、私たちはほとんど他人のままだった。
あくまで学校では、という意味で。
朝の昇降口ですれ違っても、挨拶はしない。
教室の廊下で目が合っても、どちらかが先に逸らす。
昼休みに話しかけることなど、もちろんない。
付き合っていることを、誰にも知られたくなかった。
というより、知られた瞬間に壊れてしまう気がしていた。
十五歳の恋は、秘密であるほど価値がある。
少なくとも私は、そう信じていた。
彼も同じだったのだと思う。
体育館裏に呼び出されることもなければ、手をつないで帰ることもない。
休日に二人で出かける勇気もなかった。
その代わり、私たちにはノートがあった。
紺色の大学ノート。
最初の数ページで足りなくなり、すぐに二冊目へ移った。
罫線の上に並ぶ文字だけが、私たちの本当の居場所だった。
―今日、数学の時間ずっと眠そうだったね。
夜更かしした?
―してない。なぎさのこと考えてただけ。
そんな一文を読むだけで、
身体のどこかが熱くなる。
―今日、部活で面決まってたじゃん。かっこよかった。
―見てたの?
―見てない。たまたま見えた。
見ていた。
ずっと見ていた。
学校で話せないぶん、文字は饒舌になった。
彼は現実よりノートの中でよく笑い、
私は現実よりノートの中で素直だった。
人は口で嘘をつく。
文字でも嘘をつく。
でも、手書きの文字には、嘘とは別の何かが滲む。
焦り。
見栄。
独占欲。
甘え。
言葉にしきれなかった体温。
彼の字は、機嫌がいい日は少し丸くなった。
怒っている日は縦に伸びた。
嫉妬している日は、妙に濃くなった。
私はそれを読むのが得意になった。
ある日、女子数人が教室で恋バナをしていた。
「彼氏いる人ー?」
笑いながら、誰かが手を挙げる。
冷やかしの声。拍手。悲鳴。
私は消しゴムを拾うふりをして机の下を見ていた。
そのとき、廊下を彼が通った。
一瞬だけこちらを見る。
何も言わない。何も変わらない顔。
なのに私は、胸の奥でだけ名前を呼ばれた気がした。
秘密とは不思議なもので、隠しているほど存在感を増していく。
誰にも知られていない恋人。
誰にも見せられない日記。
誰にも言えない優越感。
私は少しずつ、その全部に酔っていった。
二冊目の終わりごろ、彼は書いた。
―今度、手つなぎたい。
たったそれだけの文に、私は三十分動けなかった。
手をつなぐ。
その五文字が、当時の私には結婚くらい重かった。
返事を書くまでに二時間かかった。
―ちょっと恥ずかしいかも。
本心ではなかった。
無理なのは、嫌だからではない。
好きすぎて、耐えられないからだ。
翌日、彼から返ってきた文字は少し乱れていた。
―そっか。ごめん。
その「ごめん」を見て、私は泣きそうになった。
恋をして初めて知った。
人は会えなくても傷つけられる。
たった三文字でも。
放課後、剣道場の隅で彼が面を外していた。
汗で濡れた前髪が額に張りついている。
私は通り過ぎるふりをした。
そのとき、小さな声で言われた。
「今日、返事ありがと」
振り向けなかった。
心臓が、耳の裏にあるみたいだった。
家に帰ると、三冊目の新しいノートが机に置いてあった。
母が「男の子が届けに来たよ」と言った。
私は全身の血が止まるかと思った。
「なんて言ってた?」
「別に。なぎささんにって」
母はテレビを見たまま答えた。
興味のないものには、昔から視線すら向けない人だった。
私は部屋に駆け込み、ノートを開いた。
最初のページに、彼の字。
―無理でもいい。
―でも、なぎさに触りたいと思ってる。
窓の外で、犬が吠えていた。
夕焼けがカーテンを赤くしていた。
私はノートを閉じ、ベッドに顔を埋めた。
その日、初めて思った。
キスを知らないくせに、
私はもう、この人から離れられない。




