第二章 まだ恋と呼べなかったもの
中学三年の六月、京都は蒸し暑かった。
寺の石畳まで汗をかいているような日で、制服の襟元は朝から湿っていた。
女子たちは班行動のしおりより鏡を見ていて、男子たちは自由時間にどこでアイスを買うかで騒いでいる。
私はというと、旅館の部屋割りが気になっていた。
好きな子がいるわけでもない。
誰かと夜更かししたいわけでもない。
ただ、集団の中で浮かずに済む位置に自分が置かれているか、それだけが重要だった。
十五歳の私は、そういう種類の神経でできていた。
班長の声、先生の注意、友達同士の笑い声。
そのどれにも上手く混ざれないくせに、外されることだけは恐れていた。
彼とは、その日ほとんど話していない。
新幹線で二度、廊下ですれ違った。
清水寺の坂道で、班ごとに渋滞したとき一度だけ目が合った。
旅館の夕食で、学級委員として先生に呼ばれ、同じ部屋にいた。
それだけだ。
それなのに、夜になるころには、私の神経は彼の気配だけを拾うようになっていた。
人は、何かが起きる直前を本能で察することがある。
女子部屋は八畳に六人。
畳の上に布団が二列。
窓の外には知らない町の灯り。
友達の恋バナ、トランプ、枕の投げ合い、先生の見回りをやり過ごす芝居じみた寝息。
私は笑っていた。
たぶんちゃんと笑えていた。
でも、心臓だけは別の場所にあった。
十時を過ぎたころ、襖が少しだけ開く。
廊下の明かりが細く差し込み、誰かが私の名前を囁いた。
「なぎさ」
その声だけで、血が逆流する気がした。
私は起き上がった。
友達は誰も気づかないふりをしている。
こういうとき女子は残酷なくらい優しい。
廊下に出ると、彼が立っていた。
浴衣姿だった。
見慣れた制服より少し頼りなく見えて、なのに目だけはまっすぐ前に。
「ちょっと来て」
それだけ言って歩き出す。
私は何も聞かずついていった。
旅館の自販機コーナーには誰もいなかった。
オレンジジュースの缶だけが冷えて並び、蛍光灯が白すぎる。
彼はしばらく黙っていた。
私も、黙っていた。
沈黙は気まずいものだと思っていたけれど
そのときの沈黙だけは、何かの儀式みたいだった。
やがて彼が言った。
「俺、なぎさのこと好きだ。」
世界の音が全部止まった。
自販機のモーター音も、遠くの笑い声も、廊下の足音も、
全部、水の底へ沈んだ。
好きだ。
たった三文字で、人の身体は震える。
私はその日、初めて知った。
驚きすぎると、人は嬉しいのか怖いのかも分からなくなる。
膝が抜けそうになり、手のひらだけが熱い。
「……なんで」
それが精一杯だった。
彼は少し笑った。
「なぎさ、俺のこと見てないだろ」
図星だった。
見ていなかった。
正確には、見ないようにしていた。
無口な人。
剣道の強い人。
学級委員で真面目な人。
それ以上を知るのが怖かった。
「返事、いまじゃなくていいから。」
彼はそう言って、ポケットから小さな大学ノートを出した。
「これ。」
「なに?」
「交換日記!」
私は笑ってしまった。
拍子抜けしたのだ。
告白の次に出てくるものが、手紙でもキスでもなく、交換日記。
彼は真顔だった。
「話すの苦手だから」
その一言が、私を捉えた。
この人は、不器用なまま本気なのだと思った。
私はノートを受け取った。
紙の冷たさが、やけに鮮明だった。
「……じゃあ、また。」
彼の耳が少し赤くなった。
その顔を見て、私はようやく笑った。
今度はちゃんと、自分の意思で。
部屋へ戻る途中、廊下の窓に私たちが映った。
浴衣姿の中学生が二人、秘密を持った顔で歩いている。
そのとき私は知らなかった。
この紺色のノートが、十四冊に増えることも。
未来の私がそれを抱えて泣く夜が来ることも。
そして、最初の一冊目に書かれた″好きだ″より、
ずっと重い言葉が最後の冊子に眠っていることも。




