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十四冊目の嘘  作者: 風蔵渚彩


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第一章 回転するものたち

夫のスマートフォンを洗濯機に入れた朝、空はやけに青かった。


こういう日に人は罪を犯すのだと、私は思った。

雨の日でもなく、嵐の日でもなく、記憶に傷のつきにくい晴天の日に。


白いタオル二枚。

子どもの靴下四足。

昨日の夕方、四女が吐き戻したミルクの染みが残るロンパース。

そして、黒いケースに入った夫のスマートフォン。


私はそれを一番上に置いた。

見送りの花束みたいに、丁寧に。


ふたを閉める。

洗剤を入れる。

スタートボタンを押す。


数秒の沈黙。

そのあと、水が流れ込み、世界が回り始める。


ごとん。


最初の衝突音は、思ったより小さかった。

こんなものか、と拍子抜けするくらいに。


ごとん。

ごとん。


やがて衣類と電子機器と私の十数年分の苛立ちが、同じ速度でかき混ぜられていく。


私は洗濯機の蓋に手を置いた。

熱も脈も感じなかった。


三十六歳。

四人の娘の母。

妻。娘。先生。ギャンブラー。

肩書きはいくつもあるのに、名前で呼ばれることは少なくなった。


「なぎさぁー」


廊下の向こうから夫の声がする。

ねっとりと甘い、腐りかけの果物みたいな声だ。


「オレのスマホ知らない?」


私は答えない。

知っている。いま柔軟剤の海で溺れている。


台所のシンクには皿が積まれていた。

母が洗った皿の一枚には、縁にだけ泡が残っている。

見落としたのではない。

あの人は昔から、見落としたふりがうまい。


娘の弁当箱だけ蓋が閉まっていなかった日。

私の制服だけアイロンがかかっていなかった朝。

カレー皿の裏側に、ぬめりが残されていた夜。


愛情の反対は憎しみではない。

こういう、小さく正確な雑さだ。


「なぎさってば」


夫が背中に貼りつく。

夏でも冬でも、彼は人の体温に寄生する。


「聞いてる? 無視はブッブーだよ?」


私は人参を切っていた。

包丁の刃がまな板に沈むたび、誰かの骨を断っている気がした。


夫は怒鳴らない。

手も上げない。

外では優しい人と言われる。


ただ、何ひとつ決めない。


家賃。

進学。

予防接種。

借金。

夜泣き。


すべてに対する返事は三種類しかない。


「めんどくさいなぁ」

「しらなぁい」

「ブッブー」


人間がここまで言葉を減らして生きられることに、私は時々感心する。


リビングでは二女と三女が笑いながら喧嘩していた。

四女は泣いている。

長女の部屋だけ、深海みたいに静かだった。


十五歳の娘を持つようになってから、私は十五歳の自分に追いつかれている。


あの年齢の私は、剣道部だった。


運動神経はひどいものだった。

跳び箱は敵、ボールは凶器、リレーは公開処刑。

それでも竹刀だけは、不思議と握れた。


面をつけると世界が遠くなる。

呼吸の音だけが自分のものになる。

私はあの狭い闇が好きだった。


そこで彼に会った。


背筋のまっすぐな人だった。

無口で、誰にも媚びず、誰にも興味がなさそうで、

でも竹刀を構えるときだけ、世界の中心に立つ人だった。


学級委員も一緒だった。

クラスは違うのに、放課後の職員室前で何度も顔を合わせた。


お互い、恋愛などしない種類の人間だと思っていた。


修学旅行の夜までは。


「なぎさ」


夫が冷蔵庫を開けて言う。


「昼メシある?」


「ない」


「えー。つめたぁい」


私は包丁を置いた。

手を洗い、エプロンを外し、押し入れの前に立つ。


ここには、私の死体がしまってある。


布団をどける。

衣装ケースを引く。

奥の紙袋を取り出す。


中には大学ノートが十四冊、きちんと積まれていた。


赤。青。緑。黄。

角の擦れた表紙たちは、古い信号機みたいに黙っている。


「なにそれ」


夫が笑う。


「昔の黒歴史?」


私は一冊目を開いた。


青いインク。

少し右上がりの文字。

十五歳の少年が、私に向けて初めて残した声。


″今日から交換日記を始めます。

誰にも見せないこと。絶対。″


その瞬間、洗濯機が止まった。


電子音が鳴る。

回転するものたちは、みな、いつか止まる。


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