第6話 都市伝説を信じるより自分の銀行残高を見た方がよっぽどホラーだ
保険会社は、たいてい「万一の味方です」みたいな顔をして近づいてくる。
でも俺は知っている。コールセンター人生で学んだのは、保険も通信もサブスクも、優しい言葉の裏に必ず細い針金みたいな免責条項を仕込んでいるってことだ。人はそこに引っかかってから、やっと約款を読む。読んだ頃には、だいたい手遅れだ。
その日のマックスが、まさにそれだった。
「ジュン! これは文明への侮辱だ!」
昼前の対策室に、アロハシャツの巨体が飛び込んできた。地球擬態が今日も雑に派手である。サングラスを額に上げたマックスは、銀色の旅行ケースと紙束を抱え、今にも保険会社を呪い殺しそうな顔をしていた。
「どうしました、木星圏代表」
「荷物が戻ってきたのに補償が下りない! 精神的損害も移動不能による食事機会損失も、なにも認めない!」
言葉選びがいちいち観光訴訟慣れしている。
九条さんが机から顔を上げた。
「今日は予約案件ではありません」
「だから苦情を言いに来た!」
筋だけは通っているのが厄介だった。
マックスの話を要約するとこうだ。先日の地下搬送レーンで吸い込まれた浮遊ベビーカーの件と、別件で紛失した旅行ケースの補償請求を出したところ、銀河旅行保険側から「地球圏ローカル免責」により支払い不能と返ってきたらしい。紙束の一番上には、やたら上品なフォントでこう書かれていた。
《受理条件未充足のため補償対象外》
嫌いな文面だ。書いたやつの顔が少し想像できるくらい嫌いだ。
「どの条件が足りないんです?」
「知らん! 私は条件を満たすために怒鳴ったし、フォームも送ったし、現地でも叫んだ!」
「最後のは条件じゃないですね」
俺は書類を受け取った。約款は分厚く、しかも多言語がびっしりだ。だが、こういうものは最初から全部読むと負ける。重要なのは、相手が絶対読まれないと思っているところに先回りすることだ。
まずは見出し。事故、紛失、現地サービス不履行、旅行中断、精神的負荷。次に免責。戦争、天災、自己申告不足、未受理案件。ここだ。
「九条さん、地球圏の受理証明って、どの様式でしたっけ」
「通常は自治体側の受付番号です。ただし観光特例案件は――」
彼女がそこで止まる。
俺は該当箇所を指でたどった。
> 地球圏滞在中の旅行障害については、現地指定窓口において正式受理された苦情記録を補償要件とする。
いやな予感がして、その下の注記を見る。
小さい。妙に小さい。
> 現地指定窓口は、当該行政体の左列第二受付に準ずる。
「出たよ」
思わず口に出た。
マックスが身を乗り出す。
「何が出た?」
「呪文みたいなやつです」
そしてさらに末尾、ほとんど印刷ミスみたいな位置に、見慣れた一文がいた。
『苦情は左から二番目へ。』
心臓の裏を爪でひっかかれた感じがした。約款の中にまで入り込んでるのかよ、おまえ。
「マックス、受付番号は持ってます?」
「ある。だが無効だと言われた」
差し出された端末画面には、たしかに番号がある。けれど末尾に小さく『参考記録』と付いていた。正式受理じゃない。要するに、聞きましたよというポーズだけ取って、本体の補償条件から外すための札だ。
「ひどいなこれ」
「私は最初からそう言っている!」
机を叩きそうになるマックスを制しながら、俺は別のページをめくった。保険会社というのは、だいたい自分の逃げ道を作るついでに、逆方向の抜け穴も作っている。商品数が多いから、条文が互いに噛み合っていないことがあるのだ。
あった。
『現地保全措置により一時保管された移動補助機器は、受理手続中であっても旅行継続性障害として暫定補償対象とする』
ベビーカーだ。浮遊ベビーカーは、まさに移動補助機器。そして地下レーンで一時保管された事実は、俺も九条さんも見ている。
「九条さん、保全措置扱いの記録、残ってます?」
「内部ログにはあります」
「正式台帳じゃなくても?」
「内部には」
その言い方だけで十分だった。残してるじゃないか。見えない場所に。
俺は保険会社の窓口へ接続した。相手はよく訓練された落ち着いた声の女だった。こういう声は厄介だ。怒鳴らない代わりに、こちらを静かに窒息させてくる。
「お問い合わせありがとうございます」
「どうも。名倉と申します。契約者マクスウェル=β42さんの件で確認です。そちら、正式受理前だから補償対象外って案内しましたよね」
「はい、現地指定窓口での受理条件が未充足でして」
「その一方で、移動補助機器の保全措置中は暫定補償対象、と約款十一条三項にあります」
数秒、相手が黙った。勝てるときの沈黙だ。
「確認いたします」
「お願いします。あと現地保全措置の内部ログはあります。物品がそちらの連携ルートで一時保管された事実も確認済みです」
横で九条さんがこっちを見た。止めない。ということは、ここは踏んでいい。
再接続後、相手の声は少しだけ低くなっていた。
「暫定補償の審査へ切り替えます」
マックスが両手を上げた。派手すぎて対策室の照明が少し負けている。
「勝ったのか?」
「仮で、です。勝ったというより、向こうの逃げ道と逃げ道がぶつかった」
「素晴らしい。地球人、約款が読める!」
褒められてる気がしない。
だが、俺はまだ引っかかっていた。こんな面倒な条件が、地球案件にだけ重なりすぎている。だから電話を切ったあと、俺は約款の索引から関連条項を芋づる式に追った。事故申告、現地受理、地域例外、観光摩擦、補助対応、臨時保全。うんざりするほど枝分かれしている。
そして気づいた。
地球圏案件だけ、条項の参照先が異様に多い。
「九条さん、これ普通じゃないですよね」
「何がです」
「木星圏の紛失補償は三段階で済んでるのに、地球だけ九段階ある。しかも途中に“現地分類不一致時は指定補助窓口へ”って注釈が三回も出てくる」
九条さんは紙を受け取り、数秒だけ黙った。
「……多いですね」
「多いどころじゃない。迷路です。申請者が途中で諦めるように設計したみたいだ」
マックスが拳を握る。
「やはり侮辱だ!」
「侮辱というか、事務的な絞首刑ですね」
我ながら嫌な比喩だと思う。でもしっくり来てしまった。柔らかい文面で首を締めてくる感じが、まさにそれだった。
さらにめくると、社内運用注記らしき記号が見つかった。契約者向け約款には不要な略号だ。
L2-RCV。
L2-HOLD。
L2-CLR。
「左二案件の内部フラグまであるのかよ」
思わず言うと、九条さんの視線が上がった。
「どこです」
「この脚注欄。契約者には読ませる気ない字で入ってる」
彼女は受け取った紙に目を落とし、ほんのわずかに眉を寄せた。九条霧絵が露骨に嫌な顔をするときは、だいたい本当に嫌なものが出てきたときだ。
「名倉さん、これコピーしましたか」
「しました」
「何部」
「三部」
「思ったより慎重ですね」
借金と督促と家賃滞納は、人を無駄にバックアップ好きにする。消えると困るものは最初から複数持つ。人生で学んだ数少ない実用知識だ。
午後、保険会社側から再度連絡が来た。ホテルの件で保険会社の外部窓口担当として来ていた男で、彼は電話口で相馬と名乗った。
対面で説明したいという。嫌な予感しかしなかったが、逃げるわけにもいかない。俺たちは相馬のいる会議室へ向かった。
相馬は前回と同じ笑顔で待っていた。ただし机の上には資料が増えている。笑顔の人間が資料を増やしたときは、ろくなことをしない。
「暫定補償の件、前向きに進めます」
「よかったですね、マックス」
「当然だ!」
だが相馬は続けた。
「ただし精神的損害、旅程変更損害については、正式受理された現地苦情記録が条件になります」
「ほら来た」と俺は言った。「またそこへ戻る」
「規約ですので」
「じゃあ規約に従って確認します。現地指定窓口はどこです?」
相馬はやわらかく答える。
「当該行政体の指定する補助受付です」
「左列第二受付、つまり左から二番目へ。そう書いてありますよね」
会議室の空気がほんの少しだけ重くなった。
相馬は否定しない。できないのだろう。
「その受付で出た番号は、正式受理前に参考記録へ落とされる場合がある」と俺は続けた。「つまり、補償条件に必要なはずの受付へ案内しておいて、そこで出た記録を正式扱いしない。無限に払わなくて済む仕組みです」
「言いがかりです」
「なら、左二関連フラグの定義を見せてください」
相馬の笑顔が初めて崩れた。
たぶん図星だ。
九条さんが低く言う。
「相馬さん、これ以上は庁内照会に移します」
「それは困ります」
「困るのは誰です?」
相馬はすぐには答えなかった。その沈黙の長さで、相手の上にさらに誰かいるのがわかる。現場担当が守っているのは、自分の席だけじゃない。もっと大きな“やり方”そのものだ。
「……少なくとも、地球圏滞在客への窓口案内文は改訂します」
「そこだけじゃ足りない」と俺は言う。「左二案件の参考記録を、正式受理へ上げてください」
「そこまでの裁量はありません」
「じゃあ誰にあるんです」
また沈黙。
本当に便利だな、その無言。責任者の輪郭だけ隠して、被害だけ残す。
結局その場では、マックスのベビーカー関連については暫定補償、旅行ケースは再審査、左二経由の記録は社内確認という、いかにも会議で頑張ったふうの半端な結果に落ち着いた。
でも帰り際、俺は受付カウンター脇の共用モニタに、ほんの一瞬だけ表示された社内通知を見た。
《L2案件再分類の一時停止》
《第二窓口照会待ち》
第二窓口。
役所の地下だけじゃない。保険会社の内部でも、その呼び名は通じている。
ビルを出ると、マックスが真顔で言った。
「ジュン。地球は景色は良いが、窓口文化は呪われているな」
「それは地球人もわりと前から思ってます」
「次に来るときは弁護士を連れてくる」
「宇宙にもいるんですね」
「いる。しかも高い」
どこの文明でもそこは同じらしい。
対策室へ戻ったあと、俺はコピーしておいた約款の端を見つめた。末尾の注記欄。小さく、でもたしかに印字されている。
『苦情は左から二番目へ。』
保険会社は地球の味方じゃない。
たぶん最初から、誰の味方でもない。味方を選べるのは、受理された苦情だけなんだ。
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評価、ご感想などお待ちしております。
※作品への苦情につきましては、新宿駅地下、左から2番目の窓口までお願いいたします。




