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第4話 銀河系の平和を守るより明日のカップ麺の味の方が大事だ

苦情ってやつは、たいてい怒鳴っている人のものに見える。


でも実際は違う。


大声を出せる人だけが苦情を持っているわけじゃないし、泣いてる人の訴えほど、書類の上では軽く扱われる。俺がそれを知っているのは、人生が華やかだったからじゃない。コールセンターで何年も、声の大きい客と、声すら出なくなった客を、両方受けてきたからだ。


その夜の依頼人は、怒鳴れないほうの人だった。


都内の外れにある小さなビジネスホテル。その裏手の古いアパートで、一階に住む大塚さんの部屋だけ、天井から細かな砂みたいなものが降り続けていた。最初は雨漏りかと思ったらしい。ところがそれは、ホテル屋上に仮設された観光客向け展望デッキの床材が、夜になると微細に削れて飛んでくる粉だった。


粉は青白く光る。吸い込むと喉がいがらっぽくなる。見た目だけなら、ロマンチックな星くずです、で済ませたがる馬鹿がいそうだったが、現場に立つとそんな気分は一瞬で消えた。


畳の上に積もった粉は、消しゴムのかすより細かい。鼻に入ると鉄と消毒液を混ぜたみたいな匂いがした。台所のコップにまで薄く光が沈んでいて、生活がじわじわ侵食されているのがわかる。


「すみませんねえ、大げさで」


大塚さんは六十代後半くらいの細い女性で、謝る癖が体に染みついていた。自分の部屋が変な粉で汚れているのに、最初に出てくる言葉が謝罪って、もうこの国の悪いところを煮詰めたみたいな状況だ。


「いや、全然大げさじゃないです。むしろもっと怒ってください」


「怒るの、得意じゃなくて」


「そのぶん俺が顔だけちょっと嫌な感じにします」


隣で九条さんが小さく息を吐いた。笑ったのか呆れたのか判断しづらい。


問題は、その場に責任者が四人いたことだった。ホテル支配人、展望デッキの施工会社の担当、区の施設管理課の職員、そして保険会社の外部窓口担当。四人ともよく磨かれた靴を履いていたが、責任だけは誰も履こうとしない。


「粉の成分確認がまだでして」


「デッキ自体は観光事業者の管理ですので」


「ただ、設置許可は行政の暫定枠で」


「補償については、正式受理された被害申告が必要です」


うるせえな、と思った。言葉だけ立派な人間が四人そろうと、会話ってこんなに進まないのか。


大塚さんは畳の縁を指先でつまんでいた。怒れない人は、代わりに部屋の端をいじる。


俺は一歩前へ出た。


「すみません、整理します」


四人の視線がそろってこっちへ来る。こういうときだけ、自分の黒パーカが場違いなのを強く感じる。でも関係ない。高そうなスーツは、論点を整理してくれない。


「まず、成分分析は後でいいです。いま大塚さんが困ってるのは、部屋が汚れて、喉が痛くて、今夜ここで寝ていいのかわからないこと。この三つです。違います?」


大塚さんは小さくうなずいた。


「で、ホテル側は発生源の停止判断。施工会社は飛散防止。区は仮避難先の手配。保険は受理番号を出す。順番はそれです」


支配人が眉をひそめた。


「受理番号というのは、どの窓口で」


「被害を受けた本人の訴えとして、です」


「しかし管理区分上――」


「管理区分で粉は止まりませんよね」


少しだけ語気が強くなった。俺だって毎回冷静じゃいられない。借金取りに追われてると、人の生活を雑にされる場面に前より腹が立つ。


保険担当の男が、柔らかく割り込んだ。


「正式な受理には、施設側からの事故証明が」


「それ、順番が逆です」


俺は言った。


「事故証明が出るまで被害者の訴えを寝かせるんですか。だったら証明を出したくない側が勝つだけでしょう。苦情って、まず受けるためにあるんですよ。解決できるかどうかは、その後です」


九条さんが横で短く言った。


「正論です。まず記録化します」


その一言で空気が少し動いた。行政の人が味方に回ると、スーツ連中は露骨に勢いを落とす。現金な生き物だなと思うが、俺も日当で動いているので大きな顔はできない。


ただ、それで終わりじゃなかった。保険担当は端末を開いたまま、わざとらしく困った顔をした。


「入力様式が観光関連特例へ切り替わっていますね。通常被害ではなく、対外観光摩擦案件として一時保留に――」


「何ですかそれ」


「制度上の整理です」


「被害者の部屋が光る粉まみれなのに、整理の名前が“摩擦”なんですか」


自分で言って、胸の奥が妙にむかついた。摩擦。靴擦れみたいな顔して、人の生活を削るな。


大塚さんが遠慮がちに口を開く。


「私、外国の方を責めたいわけじゃないんです。ただ、掃除しても掃除しても落ちてくるから……」


「わかってます」と俺は言った。


この人は差別したいんじゃない。ただ、自分の生活を返してほしいだけだ。それを制度の言葉へ変換した瞬間に、変な政治性に巻き込まれる。苦情が嫌われるのは、たいていそういうときだ。


俺は窓際へ行って、展望デッキを見上げた。ホテルの屋上では、青い照明を貼りつけた半透明の床が、夜景映えを気取って光っている。その端の一枚がわずかに浮いていた。風が吹くたび、削れた粉がきらきら落ちてくる。


「成分確認を待つまでもない」と俺は戻って言った。「あれ、いまも飛んでるじゃないですか。発生源、視認できます」


施工担当が顔をしかめる。


「構造的危険までは確認できていません」


「じゃあ今ここで、あなた一人でデッキの真下に三十分立てます?」


「そういう問題では」


「被害者は昨夜から立たされてます」


部屋の空気が止まった。言いすぎたかと思ったが、もう知らない。誰かが不快になってもいい。不快の順番は、とっくに被害者から始まっている。


最終的に、ホテル側はデッキ封鎖、区は簡易宿泊先の確保、施工会社は翌朝までの養生、保険側は仮受付だけは出すことになった。


俺は大塚さんに氏名と状況を確認し、聞き取り内容を一文ずつ整えた。九条さんが入力する。


受付端末の画面に番号が出る。


N-2147。


ただの数字なのに、なぜかほっとした。ようやく、この人の被害が世界に存在したからだ。


「この番号、控えてください」


俺がメモを渡すと、大塚さんは受験票みたいに両手で持った。


「これで……消えませんかね」


その一言に、胸の奥がひやりとした。


消える。


俺はいま、その言葉に敏感すぎる。


「消させません」


口が勝手に動いた。言った瞬間、自分で責任の重さにびびる。でも、大塚さんは少しだけ笑った。疲れた人の、信じたいけどまだ半分怖い笑い方だった。


避難先へ移る前、彼女は押し入れから古い菓子缶を持ってきた。中には領収書や通帳のコピーが几帳面に並んでいる。


「こういうの、残しておいたほうがいいんですよね」


「はい。すごく大事です」


「よかった。昔、主人に“紙は裏切らない”って言われてて」


その言葉が、やけに重かった。


裏切るんだよ、紙も。


少なくとも今のこの街では、紙だって窓口の都合で消える。


対策室へ戻る道すがら、九条さんが珍しく缶コーヒーを差し出してきた。


「今日は助かりました」


「最近わりとその言葉もらってますね。そろそろ賞与に変換されません?」


「人事制度は宇宙より遠いです」


うまいことを言ったつもりかもしれないが、役所の賞与が遠いのは比喩じゃなく現実だ。


地下で端末を開き、俺は念のため大塚さんの受付番号を検索した。N-2147。さっき発行されたばかりの数字だ。あるはずだ。


検索結果は一件。


――のはずだった。


画面には、該当なし、と出た。


「またかよ」


喉の奥で声が荒れる。番号を打ち直す。氏名で引く。住所で引く。展望デッキ案件で引く。全部だめ。


後ろからのぞいた九条さんの表情が、一瞬だけ硬くなった。


「履歴は」


「ないです。発行ログも飛んでる」


さっきまで存在していた番号が、何もなかったみたいに消えている。これをシステム不具合で済ませるには、俺はもう現場を見すぎていた。


机の端には、回収資料の束が置かれていた。表紙の隅に赤字。


『苦情は左から二番目へ。』


その下に、小さく手書きがある。


《正規台帳へ載せるな》


見間違いかと思った。でも、次の瞬間にはその紙は九条さんの手にあった。彼女はすぐ裏返し、何もなかった顔で言う。


「今日はここまでです」


「いま見えましたよ」


「見なかったことにしてください」


「無理でしょう」


「無理でもです」


低い声だった。怒っているというより、切迫していた。


俺はそこでようやく気づいた。九条霧絵は、何も知らない側の人間じゃない。


全部の黒幕じゃないにしても、少なくとも、どこまで見てはいけないかを知っている顔だった。


消えたのは受付番号だけじゃない。


この街では、苦情の持ち主そのものが、窓口の都合で選別されている。

もし少しでも「名倉、頑張って家賃払えよ」と思っていただけたら、下の**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして「受理(ポイント投入)」**していただけると、筆者の手取りが……あ、いえ、執筆のモチベーションが上がります!


評価、ご感想などお待ちしております。

※作品への苦情につきましては、新宿駅地下、左から2番目の窓口までお願いいたします。

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