第2話 UFOが庭に落ちたぐらいで家賃がチャラになると思うなよ
家賃より先に、隣のアパートの給湯器が空から落ちてきた。
正確には、俺がその瞬間を見たわけじゃない。朝の七時、昨日もらった二万円のうち千五百円を使って、ひさしぶりに卵を二個入れた朝飯を作っていたら、窓の外で金属が潰れる音がしたのだ。六畳一間の流しに立ったまま顔を上げると、隣のベランダで、おじさんが濡れたサンダルのまま天を仰いでいた。
その視線の先に、銀色の船がいた。
昨日の円盤より少し細長い。観光バスを高級炊飯器みたいに磨いた感じの機体で、住宅街の上をぬるっと横切っていく。腹のあたりから青白い光がちらつき、そのたびに物干し竿がぶるぶる震えた。朝の洗剤の匂いと、焼けた配線みたいな焦げ臭さが、ぬるい空気の中で混ざっている。
スマホが鳴った。九条さんだった。
「見えてますか」
第一声がそれなの、もうだいぶ普通じゃない。
「見えてます。というか、隣人が人生でいちばん空を憎んでる顔してます」
「十分後に下へ。現場対応お願いします」
「俺、まだ正式採用されてないですよね」
「安心してください。正式でも非正式でも、落ちるものは落ちます」
行政の励ましとして最低だった。
外へ出ると、アパート前はちょっとした避難訓練みたいになっていた。パジャマ姿の住民、洗濯かごを抱えた主婦、配達途中らしい新聞屋。隣のベランダには、外壁から半分もげた給湯器がぶら下がっている。真下の植木鉢は無残に砕け、コンクリの床に細かな金属片が散っていた。
「ふざけんなよ、今日は夜勤明けなんだぞ!」
叫んだのは、いつも深夜にカップ麺をすすっている四〇一号室の柏木さんだった。柄シャツに腹を押し込んだまま、片手でスマホ、片手で給湯器の残骸を指さしている。
「うるせえし危ねえし、風呂入れねえし!」
住民たちも口々に続いた。
「ベランダの物干しが曲がった!」
「洗濯物が変な粉まみれなんだけど!」
「区役所に電話したら担当外って言われた!」
わかる。全部わかる。朝から自宅に異星のしわ寄せが降ってきたら、人間はわりとすぐ怒鳴る。
ただ、怒鳴り声の中身は一つじゃない。
十分後、九条さんが黒い公用車で来た。昨日と同じ銀縁眼鏡、同じく隙のない顔なのに、今日は袖口が少しだけ湿って見えた。たぶん彼女も今日が初案件ではない。
「名倉さん、状況を切ってください」
「雑な言い方しますね」
「急いでいます」
そう言いながら彼女はもう周囲を見ていた。住民の人数、破損の位置、上空の機体。視線が早い。こういう人は、たぶん疲れていても止まれない。
俺は柏木さんの前に立った。
「いちばん困ってるの、騒音ですか」
「は?」
「給湯器ですか。洗濯物ですか。次が落ちるかもしれないことですか」
柏木さんの怒鳴り声が一瞬だけ途切れた。視線がベランダの上へ跳ねる。やっぱりだ。
「……次だよ。決まってんだろ」
「了解です」
そこが芯だ。
音に怒ってるんじゃない。壊れた物に怒ってるだけでもない。みんな、二発目が来るのが怖いのだ。怖さを放っておくと、怒りはどんどん雑になる。雑になった怒りは、対処の順番を壊す。
「九条さん、まず建物際から人を離してください。写真は後。あと管理会社に屋上の固定具確認を急がせて」
「できます」
「柏木さん、給湯器の写真は俺が撮ります。代わりにいまは部屋の中へ。風呂はあとで絶対めんどくさいことになりますけど、頭に二個目が落ちるよりましです」
「その比較、最悪だな」
「最悪の朝なんで」
半分やけくそで言ったら、柏木さんは舌打ちしつつも一歩下がった。他の住民もつられる。人は納得で動くというより、誰かが順番を口にすると少しだけ落ち着く。
そのとき、上で嫌な音がした。金具が軋む、短い、乾いた音だ。俺は反射で顔を上げた。三階の屋上端に固定された古いアンテナの横で、銀色の何かがぐらついている。さっきの給湯器を引っかけた衝撃で、別の部品まで緩んだらしい。
「柏木さん、下がって!」
俺が叫んだ直後、細長い筒みたいな部品が外れた。落ちた先は、さっきまで人が立っていたベランダの手すりだった。金属が弾け、白い塗装の欠片が霧みたいに散る。住民の悲鳴が一拍遅れて上がった。
九条さんがすぐ拡声器を取り出し、通路側から建物全体を下がらせた。その声は冷静というより硬い。感情を削ってでも通る声だ。
「建物正面から離れてください。繰り返します、正面から離れて」
観光船は何事もなかったみたいに低空を流れていく。腹の側面には、昨日見たのと同じロゴが光っていた。東京怪談二泊三日。おまえらの旅程、だいぶ近所迷惑だな。
現場がいったん静まると、今度は別の怒りが湧く。写真を撮る住民、配信しようとする学生、管理会社へ怒鳴る老人。ここで全部を一つの苦情として扱うと終わる。だから分ける。
「柏木さんの件は物損と安全。洗濯物の粉は汚損。騒音は別枠。建物の固定不良も切り分けましょう」
俺が言うと、九条さんはメモも見ずに続けた。
「住民の連絡先は私が取ります。名倉さん、落下物の確認を」
「はいはい、下請けの人間は靴底でがんばりますよ」
「日当は上げません」
現実的で助かる。
落ちた細長い部品は、見た目こそ水筒みたいだったが、触るとじんわり熱かった。表面には細い文字列と、雑に貼られた日本語ラベルがある。
『苦情は左から二番目へ。』
またそれだ。
役所仕事の亡霊みたいな文言だな、と一瞬だけ思ったが、いまは考えている暇がない。ラベルの端には管理番号らしき数字と、赤いスタンプが押されていた。第二窓口裏保管。昨日、マックスの旅行ケースが眠っていた場所と同じ表記だ。
「九条さん」
「あとで」
彼女は俺が何を言う前に切った。つまり彼女も見えている。
二時間後、ようやく現場は片づいた。住民の一人が熱でへたりかけたが、搬送まではいかない。二発目は手すりで済んだ。給湯器は死んだが、人は死ななかった。それだけで、今朝の成績としては上出来だ。
対策室へ戻るエレベーターの中で、俺のシャツは背中に貼りついていた。地下の空気はやけに冷えているのに、耳の奥ではまださっきの金属音が鳴っている。怖い出来事って、終わってから遅れて来る。
「助かりました」
九条さんが前を向いたまま言った。
「珍しいですね。感謝の言葉が窓口以外から出るの」
「住民に直撃していたら、今日は会見案件でした」
それ、褒め言葉にしては重い。
地下の執務室で、俺は事故報告の下書きを打った。発生時刻、場所、落下物の形状、住民の被害、二次落下あり。昨日よりだいぶ手つきが早い自分が嫌だ。人は慣れたくないことにも慣れる。
入力を終えて保存を押す。だが、端末は短く鳴って、冷たい文字を返してきた。
《該当案件なし。受付台帳を確認してください》
「は?」
打ち間違いかと思って、時刻を変え、住所を変え、仮番号を振ってみた。全部だめだ。
隣で書類を整理していた事務の男が、小さく首をかしげた。
「その時間帯、事故ログ入ってませんよ」
「いや、さっき行ってきたんですけど」
「入ってません」
入ってません、じゃない。落ちたんだ。給湯器も部品も、住民の怒りも、俺のシャツの汗も、ちゃんとそこにあった。
九条さんが俺の画面をのぞき込んだ。その横顔は相変わらず整っていたが、唇だけがわずかに硬い。
「台帳を開いて」
事務の男が一覧を出す。昨夜から今朝にかけての案件が並ぶ。迷子の観光客、異臭、無断着陸未遂、深夜騒音。だが、柏木さんのアパートの件だけが、きれいにない。
抜けた、という感じじゃなかった。
最初から世界に存在しなかったみたいに、そこだけ空白だった。
「九条さん」
俺が呼ぶと、彼女は少しだけ間を置いて答えた。
「今日はもう帰ってください、名倉さん」
「いや、そういう空気で帰れるわけないでしょう」
「だからです」
その言い方で、背中が冷えた。
帰る前、俺は回収品のトレーをもう一度見た。熱の抜けた銀色の部品は、透明袋の内側で鈍く光っている。ラベルの赤字だけがいやに鮮明だった。
『苦情は左から二番目へ。』
落ちたのは給湯器だけじゃない。
事故そのものが、台帳から墜ちていた。
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評価、ご感想などお待ちしております。
※作品への苦情につきましては、新宿駅地下、左から2番目の窓口までお願いいたします。




