第1話 手取り十八万で世界を救わなきゃいけないなら、まず俺の家賃を肩代わりしろ
家賃滞納三か月目の朝、俺の六畳一間は円盤の影で夜になった。
最初に思ったのは、管理会社もずいぶん本気を出してきたな、だった。次に思ったのは、いや待て、取り立てにUFOを使う時代なら、もう日本の労働環境は終わりだ、である。三番目にようやく浮かんだのが、これ撮れ高じゃないか、だった。
布団の横には千円のリングライト、床にはカップ焼きそばの空き容器、枕元には赤字の督促ハガキが三枚。昨夜アップした『高円寺の消える階段』は再生数百八十四。広告収益は缶コーヒー一本にも届かないくせに、奨学金とカードローンの通知だけは毎回フルHDで俺の人生を殴ってくる。人は夢では死なないが、請求書ではけっこう簡単に死ねる。
カーテンを開けた瞬間、安アパートの窓枠がびりっと震えた。隣のコインパーキング上空に、観光バスをそのまま潰して円盤にしたみたいな銀色の乗り物が、斜めに引っかかっていた。側面には、やけにポップな書体でこう書いてある。
『TOKYO NIGHT MYSTERY CRUISE 地球怪談二泊三日』
終わってるのは俺の生活だけで十分だろ。
円盤の腹が開き、折りたたみ式のタラップがするする降りた。そこから出てきたのは、アロハシャツにサングラス、銀色の旅行ケースを引いた大柄な男だった。見た目だけなら、円安に浮かれて来日した陽気な富裕層だ。問題は、そいつが俺の部屋番号を確認し、区役所みたいに丁寧な声で言ったことだった。
「大変恐縮ですが、地球側の苦情処理係はこちらにお住まいでしょうか」
歯も磨いてない人間に向ける第一声じゃない。
「違います、って言いたいところですけど」
俺は玄関のチェーンをかけたまま答えた。「昼は一応、苦情の電話を取ってます。でも宇宙対応は求人票に書いてなかったです」
男は胸ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。日本語、英語、見たことのない記号がぎっしり並んだ苦情申告書だった。右上には保険会社のロゴ。下端には小さく、印刷ミスみたいに一文だけ混じっている。
『苦情は左から二番目へ。』
役所の案内かよ、と思ったが、その前に俺の視線は金額欄へ吸い寄せられた。請求予定補償額、三百二十万。
「こちらのツアー、説明と著しく相違しておりました。まず宿泊施設が写真より狭い。追加料金が多い。東京の夜景がほぼ見えない。そして案内係が三回変わったあげく、私の荷物が紛失しました」
怒りの方向性が完全に海外旅行サイトの低評価レビューだった。
「それ、旅行会社に言ってくださいよ」
「言いました。地球案件は現地受理が必要だと」
男は深くうなずいた。「私、マクスウェル=β42。通称マックス。苦情が受理されないと保険が下りません」
そのとき、一階の共同ポストのほうからヒールの硬い音が近づいた。振り向くと、黒のスーツに銀縁眼鏡の女が、息を切らさずこちらへ歩いてくる。細いのに、空気の割れ方だけは強い。
「名倉巡さんですね」
質問の形だったが、確認は終わっている声だった。
「夜間多文化苦情対策室の九条です。探しました。できれば今すぐ同行してください」
「いや、朝の六時半ですよ」
「ええ。ですから緊急です」
九条さんは俺の足元の督促ハガキを一瞥し、それから恐ろしく事務的な口調で言った。
「本件、臨時対応一件二万円。現金。守秘義務あり」
その額で人間の尊厳はだいたい揺れる。少なくとも、俺のは揺れた。
二万円。家賃の穴を完全には埋められない。けれど、水道を止められる未来を三日くらい後ろへ蹴り飛ばせる額ではある。動画一本の再生数で言えば、俺のチャンネルが奇跡を起こしても届かない金だ。悔しいが、夢より現金のほうがいまの俺には具体的だった。
「ちなみに拘束時間は」
「案件が落ち着くまでです」
ブラック企業の面接みたいな答えだったが、断れる身分でもない。俺は玄関に転がっていたモバイルバッテリーを掴み、半分壊れたスニーカーに足を突っ込んだ。撮れ高の匂いもした。金とネタ、どっちかでも当たれば今日は勝ちだ。そう思わないと外へ出られなかった。
十分後、俺は銀色の旅行ケースを抱えた宇宙人観光客と、隈のできた美人官僚みたいな女に挟まれて、雑居ビルの地下へ降りていた。看板は出ていない。非常灯だけがやけに新しい。エレベーターの中は消毒液と古いコピー機の熱い匂いがした。こういう匂い、昼の職場と同じで嫌になる。異常事態でもちゃんと安い事務所の匂いがするあたり、現実は手加減しない。
地下の受付には窓口が三つ並んでいた。右は英語、中国語、韓国語の案内が貼られ、左はシャッターが半分壊れている。左から二番目だけ、閉鎖中の札がぶら下がっているのに、内側の古いモニターが青白く点いていた。
壁には観光案内にしか見えないポスターが並んでいた。富士山、渋谷スクランブル、心霊スポット百選。どれも色味が妙に古く、紙の端が湿気で波打っている。空調は効いているのに、廊下の奥からは金属を焼いたみたいな匂いが薄く流れてきた。役所と病院と廃工場を三対三対四で混ぜたような空気だった。
俺は少しだけ嫌な感じがしたが、金のない人間に嫌な予感を選ぶ権利はあまりない。
奥の応接スペースでは、マックスより先に別の職員が燃え上がっていた。
「ですから現在、補償の前提確認中でして」
「その確認が遅いから苦情なのです」
「担当部署がまだ」
「担当を探すのはそちらの仕事でしょう」
うん、これは駄目な謝り方だ。論点が霧散している。
俺は椅子に腰を下ろし、呼吸を一つ整えた。こういうとき、怒鳴られる側が先に焦ると終わる。昼のコールセンターで嫌というほど覚えた。
「名倉です」
職員でもないのに名乗るのは変だが、マックスの視線がこっちへ移ったので続けた。「確認します。いちばん困ってるのは何ですか。宿の狭さですか、追加料金ですか、荷物ですか」
「荷物です」
即答だった。やっぱりだ。
「そこから先にやりましょう。荷物の最終確認場所は」
「新宿上空、二十三時十分。着陸待機のあと、地上案内員に引き渡しました」
「特徴は」
マックスは端末を操作し、旅行ケースの写真を映した。銀色の表面に細かい荷札が何枚も貼られ、その一枚に赤字で日本語がある。
『塩を近づけないでください』
「ホテル側が呪物だと思って隔離したんじゃないですか」
俺が言うと、九条さんが初めて少しだけ眉を上げた。
「心当たりが?」
「あります。日本人、意味がわからないものにとりあえず塩を振るか、バックヤードにしまうんで」
半分偏見だが、半分は現場知識だ。
九条さんは即座に内線を飛ばした。低い声で二、三やり取りし、俺へ視線を戻す。
「地下保管庫に未受理物件が一つ。銀色のケース。発見場所は第二窓口裏」
第二窓口。
俺はさっき見た、閉鎖中なのに電源が入っていた窓口を思い出した。胸の奥がちょっとざらついたが、マックスはそれどころじゃない顔をしている。
保管庫は受付のさらに奥、古い防火扉の先にあった。薄暗い廊下は冷蔵庫みたいに空気が冷えていて、蛍光灯だけがじいっと鳴っている。九条さんが鍵を回し、中を開けた瞬間、マックスが「あっ」と間抜けな声を出した。
銀色のケースが、台車の上でぽつんと光っていた。
「私のです」
「よかったですね」
「よくありません」
マックスは真顔で言った。「中に土産と領収書と、母への重力菓子が入っています。失われたら家庭問題です」
宇宙規模でも親への土産は大事らしい。急に他人と思えなくなった。
九条さんがケースを返却し、俺はその場で苦情受理票の文面を整えた。何に困り、何を確認し、何を返却し、残件が何か。感情と事実を分けて並べる。たったそれだけで、マックスの声の硬さが少し落ちた。
「なお、宿泊差額と案内不備については別件で継続受付です」
俺がそう締めると、マックスはサングラスの奥でゆっくり瞬きをした。
「あなた、まともです」
「どうも。底辺ですけど」
「苦情処理においては高評価です」
それ、履歴書に書けるかな、と本気で考えた自分が嫌だった。
手続きが終わると、九条さんは封筒を一つ差し出してきた。中身は約束どおりの現金だった。紙の手触りが生々しくて、くらっとする。動画の再生数より札の枚数のほうが、よほど世界を信じさせる。
「名倉さん」
九条さんはそこで少しだけ声を落とした。「今日の件、外では話さないでください。それと、明日も空けておいてもらえると助かります」
「明日も?」
「地球圏の苦情が、少し増えていまして」
少し、で済む顔じゃなかった。
彼女が机上の端末を閉じるとき、画面が一瞬だけこちらを向いた。名簿のような一覧。その最上段近くに、見覚えのある文字列があった。
『地球苦情窓口 第十八受理者 名倉巡』
喉がひりついた。嫌な冗談だと思った。けれどもっと嫌だったのは、その登録日だ。
三年前。
まだ俺がこの地下も、九条霧絵も、銀色の観光船も知らなかった頃の日付だった。
その瞬間、頭の片隅でずっと鳴っていた数字が妙に気持ち悪くつながった。手取り十八万。第十八受理者。たまたまにしては、笑えない。ポケットの督促ハガキの紙が、汗を吸って少し柔らかくなっている。朝から何度も見た赤字の請求額より、その登録番号のほうがよほど差し迫って見えた。
封筒の中の二万円はたしかに本物なのに、その瞬間だけ、俺は自分の人生のほうが偽物なんじゃないかと思った。
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評価、ご感想などお待ちしております。
※作品への苦情につきましては、新宿駅地下、左から2番目の窓口までお願いいたします。




