第17話 役所仕事においてハンコよりも必要なのは相手を諦めさせる根気だ
人の怒鳴り声よりしんどいものがある。
疲れきった人の、静かな説明だ。
佐野が消えた翌日、俺は未受理案件の束を抱えて都内を回っていた。役所帰りの紙袋みたいな顔をした人間が、路線図片手に住宅街をうろつく。通報されても文句は言えない見た目だが、幸い俺はこの国で一番目立たない層、つまり“生活に疲れた若い男”に属している。警察もよほど暇じゃなければ止めない。
一件目は、墨田区の古いマンションだった。
ドアチェーン越しに出てきたのは、五十代くらいの女の人。相談票には《息子・夜間接触後失踪》とある。言葉だけなら軽い。現実は軽くない。
「またですか」
開口一番、それだった。
「すみません。名倉といいます。前の窓口からの引き継ぎで」
「引き継ぎなんて、毎回そう言うのよ」
ごもっとも。
俺は名刺なんか持っていないので、継続処理者の仮カードを見せた。こんなもので信用が生えるなら世の中もっと優しい。でも、その人はカードを見たあと、顔を少しだけゆるめた。
「名前、出てるのね」
「え」
「今までの人、誰も自分の名前を言わなかった」
それだけで、チェーンが外れた。
部屋には線香の匂いが薄く残っていた。まだ死んだと決まっていない息子のためか、それとも別の家族のためか、聞けなかった。テーブルには何度もコピーされた書類が積まれている。事故の日時、交番の相談控え、病院の診療明細、消えた受付番号のメモ。
「毎回、最初から説明させられるんです」
女の人は静かに言う。
「最初は怒ってたの。でも怒ると、落ち着いてくださいって言われるでしょう。だから今は、丁寧に話すようにしてる」
丁寧に話すようにしてる、のところで、胸の奥がきしんだ。
怒鳴ってもだめ。泣いてもだめ。だから丁寧にする。丁寧にして、消される。最悪だ。
俺はノートを開いた。
「今回、最初から説明しなくていいです。確認だけさせてください」
女の人は少しだけ驚いたあと、息を吐いた。
「……夜の十時半ごろでした。駅前の歩道橋で、空から光るものが落ちて、周りの人が笑ったの。演出かと思ったって。うちの子だけが近づいて、それで」
「それで?」
「翌朝、連絡がつかなくなった」
部屋の時計の秒針がやけに響く。
俺は言葉を急がせないように、必要なところだけ聞いていく。場所、日時、誰が笑ったか、誰が写真を撮ったか、警察は何と言ったか。聞いていくうちに、相談票の隅に書かれたメモが目に入った。
《苦情は左から二番目へ。窓口女性の口頭案内》
まただ。
俺はそのメモを指で押さえた。
「これ、誰に言われました」
「若い職員さん。困った顔してた」
九条さんじゃない。もっと後の世代かもしれない。つまり、この案内文句は長く生き残っている。
二件目は、足立区の町工場だった。失踪じゃなく、事故不受理。工場長の弟が、夜間搬送のトラックと“見えない何か”の接触で腕を骨折したのに、労災でも物損でもない扱いにされた。工場長は怒鳴る人かと思ったら、逆だった。
「もういいんだよ、金は」
最初にそう言った。
「ただ、あいつが何とぶつかったのか、それだけ教えてくれって言ってんの」
簡単な問いだ。
なのに誰も答えない。
いや、答えると困るのだろう。答えた瞬間、責任が生まれるから。
三件目を回る頃には、俺の頭の中に同じ型の話が並び始めていた。光るもの。笑う野次馬。一時的な混乱。受理前のたらい回し。消える番号。残るのは相談者の疲労だけ。
四件目は、大学病院の待合ロビーだった。相談者は二十歳そこそこの男で、姉が夜間バイトの帰りに“落ちてきた光の破片”へ触れたあと、三日だけ記憶を飛ばしたという。失踪より軽い扱い、事故より曖昧な扱い。だから窓口でも何科でもない場所へ回され続けたらしい。
「診断書、三回出したんです」
男はクリアファイルの角をつぶしながら言った。
「でも“本人の疲労かもしれない”って。本人が覚えてないなら証明できませんよねって」
それ、相談者に言う台詞じゃないだろ。
俺はファイルの中を確認した。病院の所見、駅員への相談メモ、区窓口で切られた受付番号の控え。順番はめちゃくちゃなのに、疲れた人が必死で落とさないよう抱えてきた跡だけは、妙にはっきりしていた。
「姉さん、今は?」
「戻ってます。でも、同じ時間になると外へ出られなくなる」
俺はうなずくしかなかった。救済より先に説明を求められ続けた結果、人は壊れる。派手にじゃない。生活の細いところから、静かに。遅刻が増えるとか、夜だけ靴を履けなくなるとか、家族に説明する声が小さくなるとか、そういう地味な壊れ方だ。だから余計に、数字へ乗らない。
夕方、喫茶店で九条さんと落ち合う。
「顔が死んでますね」
「もともとです」
「今日は比喩ではありません」
本当にそうかもしれない。俺は紙コップのアイスコーヒーをすすった。薄い。店のせいじゃない、俺の舌が疲れてる。
「被害者って、もっと怒るもんだと思ってました」
「怒っていたはずです」
「削られたんですね」
「はい」
九条さんは、俺がまとめたメモを読む。
「同型案件が多い。これは偶然ではない」
「なら早く押さえましょう。記録も人も消える前に」
「だからこそ、単独で動かないでください」
先回りされた。
俺はストローをつぶしそうになる。
「顔に出てました?」
「出ます」
恥ずかしい。だが、ばれているならなおさら腹が立つ。自分に。
「協力してる時間、ありますか。佐野さんだって――」
「だからです」
九条さんが言葉を切る。珍しく強い調子だった。
「急いで一人で動く人間から順に、消される」
正しい。正しすぎる。
でも正しい言葉は、だいたい焦ってる人間の足を止めるだけで、代わりに走ってはくれない。
喫茶店を出たあと、真壁さんから音声ファイルが送られてきた。古いバックアップから出たらしい。三年前の資料束と同年代の案件。ファイル名は整理番号だけで味気ない。イヤホンを差して再生する。
雑音、靴音、遠くのアナウンス。
それから、若い女の声。
『すみません、弟を探していて』
一拍。
別の女の声が、事務的に答える。
『苦情は左から二番目へ。』
その直後、録音が乱れる。人のざわめき。誰かが笑う声。最後に、小さく、ほとんど息みたいな声が入っていた。
『そこ、じゃない』
途切れた。
俺は歩道橋の下で立ち止まる。夕方の車が流れていく。どれも他人の生活を乗せて、ちゃんと前へ進んでいる。俺だけが取り残されたみたいで、腹が立った。
そこじゃない。
だったら、どこだ。
俺は真壁さんに電話をかけようとして、やめた。九条さんに相談しようとして、やめた。やめた理由をちゃんと言葉にすると、自分が相当ださいので嫌だった。
要するに、俺は焦っていた。
被害者の説明を何人分も聞いて、自分の遅さが急に恥ずかしくなったのだ。俺が一つ一つ受けている間に、向こうは十件単位で消していく。チャンネルの再生数みたいに、見てるだけで増減していく数字じゃない。人の人生だ。
そんな立派なことを言う資格は俺にない。
ないけど、じゃあ指をくわえて待てるかというと、それも無理だった。
夜、帰宅した俺は、家賃督促の紙を机の端へ寄せ、録音をもう一度聞いた。『そこじゃない』の直前、紙をめくる音が入っている。そのあと、低い機械音。庁舎のプリンタじゃない。もっと硬い、金属扉の解錠みたいな音だ。
俺は残った銀色の旅行ケースの写真を開く。側面に小さな番号シール。
B2-17。
地下二階、保管区画十七。そう読むのが自然だった。
単独で動くなと言われたその日のうちに、俺はメモ帳へ書いていた。
《B2-17 今夜確認》
人は反省が早いほど偉いらしい。
俺はたぶん、その逆でできている。
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