第15話 幽霊にも人権があるって言うならせめて家賃の半分は持ってほしい
人は疲れすぎると、重い荷物を持っている感覚すらなくなるらしい。
俺は今、黄ばんだ相談票の段ボールを抱えたまま、夜明け前の廊下を歩いていた。百件近い未受理案件。しかも差出人欄に九条の名字つき。軽いわけがないのに、腕の感覚がとうに死んでいる。たぶん心が先に死んで、腕があとを追っている。
「返してください」
九条さんが俺の横で言った。
「何を」
「その箱です。正確には、その箱の一番上から三十件ほど」
「さらっと件数指定するな。やっぱり心当たりあるんじゃないですか」
「あります」
認めるんかい。
振り向いたら、九条さんはいつもの無表情をしていた。けど、目の下だけが薄く青い。寝ていない人の顔だ。たぶん俺も似たようなものだろう。違うのは、俺が寝不足でひどい顔になっても日常運転だという点だけである。社会的に終わってる人間の顔面は、睡眠不足ぐらいじゃ大差がつかない。
「昔、未整理案件の一次振り分けをやっていました」
「その雑な言い方で済ませていい量じゃないですよね」
「済ませていないから、今こうなっています」
その返事だけは、ほんの少し重かった。
本庁舎の夜間窓口が閉じても、地獄は営業時間を守らない。俺は継続処理者だの何だの、勝手に窓口側へ登録されてしまい、その場で簡易机まで与えられた。机の引き出しには、ボールペン、付箋、訂正文言の定型集。まるで俺が最初からここで働く予定だったみたいだ。やめろ。俺は履歴書にも書けない仕事をこれ以上増やしたくない。
午前四時すぎ、最初の客が来た。
客、という呼び方が正しいかは知らない。だがあの窓口では、怒鳴る人間ほど丁寧に“お客様”と呼ばれる。たぶん爆弾の別名みたいなものだ。
男は四十代前半、ブランドロゴの大きいパーカーに、妙に高そうなスニーカー。鼻の頭だけ赤く、徹夜明けか深酒明けかわからない顔をしていた。紙袋を机に叩きつける。
「おい。これ、どこへ言えば全額出るんだ」
中から出てきたのは、車のドアパネルの破片と、写真数枚。へこんだワゴン車。屋根に丸い焦げ跡。どう見ても事故写真だ。
「まず事情を」
「説明しただろうが。空から落ちてきたんだよ。観光船の、なんかキラキラした部品が」
声がでかい。
廊下で仮眠していた警備員が、かわいそうなくらい目を覚ました。
男は身を乗り出してくる。
「俺、被害者な? 営業車つぶれて、その日の契約飛んで、信用も落ちて、精神的苦痛もある。百万じゃ足りねえ。いや、宇宙案件なら桁が違うだろ」
百万じゃ足りねえ、の時だけ目が輝いた。人間、つらい時でも希望の話になると急に元気になるから困る。
俺は写真を並べた。焦げ跡、へこみ、道路脇の防犯カメラの位置、時刻メモ。雑だけど、雑な中に変な整い方がある。
「落下時刻、二十二時十七分」
「そうだ」
「でもこの写真、コンビニの看板が消灯してますよね。あそこの店、二十四時間営業じゃなかったですか」
男が一瞬だけ詰まる。
「あ?」
「あと焦げ跡。外側だけ焼けてる。もし高温の部品が落ちたなら、塗装だけじゃなく金属の変形が先に来る。これ、あとから表面だけ焼いたんじゃないですか」
自分でも嫌になるくらい、こういう時だけ頭が回る。
九条さんが小声で言った。
「嬉しくない才能ですね」
「褒める時の顔じゃない」
男は机を叩いた。
「素人が決めつけんな。宇宙のことなんかわかんのかよ」
「わかりません。だから人間のほうを見てます」
口から出た瞬間、ちょっとだけ名言っぽく聞こえた。でも実際は疲れたクレーム担当のぼやきだ。
俺は写真の端に映った電柱番号を指差した。
「この場所、昨日のうちに通行規制が入ってる。通報記録だと、車両は路肩に寄せられてから後送されてる。なのに写真のタイヤ位置が全部違う。撮り直してますよね」
男の目つきが変わった。強気じゃなく、めんどくさい説明を求められた時の顔だ。人はそこで本性が出る。
「……細けえな」
「仕事です」
「どこの」
「それを俺も知りたい」
ほんの少し、背後で笑いをこらえる気配がした。真壁さんだ。いつからいたんだこの人。
「名倉さん、続けてください。非常に行政向きです」
「その褒め言葉、将来の選択肢を狭めるのでやめてください」
男は舌打ちし、別の書類を出した。損害見積書。だが社名欄に見覚えのあるロゴがある。星ヶ崎リスクサービス。保険会社と行政の間で、事故評価だの安全査定だのを請け負う外郭みたいな会社だ。前に高城案件で見た。
俺は紙をめくる。
「この見積もり、作成日が事故の前日ですけど」
沈黙。
俺、こういう沈黙は好きだ。貧乏暮らしにおける半額シールくらい好きだ。めったに手に入らないけど、当たるとでかい。
男は書類を引っつかもうとしたが、九条さんが先に押さえた。
「偽造ですね」
「ちげえよ、事前にテンプレ作ってただけだ」
「事故前に」
「そういう仕事なんだよ!」
言った。
俺と九条さんが同時に顔を上げる。
「どういう仕事です?」
男はしまった顔をした。そこへ、廊下の奥から整った靴音が近づく。嫌な予感というものは、だいたい靴音がきれいだ。
堂前透だった。
相変わらず、テレビ局のコメンテーターにいそうな柔らかい笑顔。スーツの色まで、人当たりの良さに最適化されている。こういう人が謝罪会見に出ると、つい許しそうになる。だが俺はもう知っている。この手の笑顔は、謝るためじゃなく、怒る人間を恥ずかしがらせるためにある。
「朝から賑やかですね」
「朝じゃなくて夜勤明けです」
「そういう細かさが、名倉さんの良さだ」
気持ち悪い褒め方をするな。
堂前は男の肩に軽く手を置いた。
「彼は関連業者です。事故の一次把握を急ぎすぎて、事務が粗くなった」
「事務が粗いで済む話ですか」
「済ませるための部署が、ここでしょう」
その言い方で、俺の胃が冷えた。
済ませる。受け止めるじゃない。片づけるでもない。済ませる。つまり、問題が解決したかどうかじゃなく、もう面倒を言わせないところまで持っていければ勝ちってことだ。
堂前は俺の前に、別の資料を滑らせた。
「宇宙観光客の小規模接触事故は、最近増えています。ですが、ほとんどは人的被害なしの観光誤差だ」
「観光誤差?」
「旅先では想定外も起こる。地球も例外じゃない」
軽い。
俺は笑いそうになった。笑ったら負ける類の怒りって、なんでこんなに変な筋肉を使うんだろう。
「家賃滞納も、人生誤差みたいな言い方ですね」
「君はそこから戻れる」
「戻れなかった人の紙、今朝だけで百件見ましたよ」
箱を指で叩く。黄ばんだ相談票が、段ボールの中で湿った音を立てた。
堂前の笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
「古い案件は、整理の仕方次第だ」
「つまり、見えなくする仕事ってことですか」
真壁さんがすっと前へ出た。
「堂前さん。その表現は記録します」
「どうぞ」
余裕の返事だ。腹が立つほど。
男は完全に居心地が悪くなったらしく、書類を抱えて後ずさった。逃がすかと思ったが、堂前は止めない。切り捨てるのが早い。末端なんか、替えが利くと知っている人の動きだ。
去り際、男が俺にだけ聞こえる声で吐いた。
「倉庫の棚、見てみろよ。消える前にな」
「は?」
だが男はもう行っていた。堂前も、何事もなかった顔で廊下を去る。
残ったのは、焦げたドアパネルと、俺の胸のむかつきだけだ。
九条さんが低く言った。
「今の、聞きましたか」
「倉庫の棚の話ですか」
「ええ」
「聞きました。あと“観光誤差”って言い方、一発殴りたかったです」
「私もです」
珍しく意見が合った。
その直後、俺のスマホが震える。非通知メッセージ。本文は短い。
《北棟資料倉庫/午前零時前/左から二番目の棚を見るな。見たなら生配信しろ》
見るなと言われて、見ない人間が都市伝説チャンネルをやるわけがない。
ただ、その文の最後に添えられていた一言が、妙に現実的で嫌だった。
《消されるのは紙だけじゃない》
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評価、ご感想などお待ちしております。
※作品への苦情につきましては、新宿駅地下、左から2番目の窓口までお願いいたします。




