第13話 クマサンの過去
ストーカー男が意識を取り戻す前に、俺はズボンのベルトで両手を縛り、動けないようにしてからスマホで警察に連絡を入れた。
通話を終えた瞬間、張り詰めていた糸がわずかに緩む。
俺もクマサンもようやくその場に腰を下ろし、近くのブロック塀に並んで座って警察の到着を待った。
隣にいる彼女の小さな身体は、まだかすかに震えている。
恐怖の余韻か、それとも単純に寒さのせいか――たぶん、両方だろう。
「クマサン、これ……よかったら」
俺は上着を脱ぎ、彼女の肩にそっとかけた。
家を出る前に着たばかりだし、変な匂いはしないはずだ。……たぶん。
「……ありがと」
彼女は上着を胸元へ引き寄せ、ぎゅっと身体に密着させた。
拒まれなかったことに安堵し、俺は小さく息を吐く。
やっぱり寒かったんだな。
「それにしても……クマサンが女の子だったとは思わなかったよ」
改めて横顔を見る。
どう見ても高校生、いや下手をすれば中学生にも見える。
あのクマサンがJKとかJCとか――頭が追いつかない。
「えっと……まだ学生さんだよね?」
恐る恐る聞くと、彼女はきょとんと首をかしげた。
「やだなぁ。社会人だよ?」
「――――え?」
衝撃。
体が小さいせいか、どう見ても十代にしか見えない。
それで大人だというのか。
いったいいくつなんだ……いや、さすがに年齢を聞くのは野暮だ。
「ごめん。すごく若く見えたから……」
「……まぁ、社会人って言っても、今は休業中なんだけどね」
少しだけ視線が落ちる。
「そうなんだ。でも、それなら俺と一緒だな。俺もいろいろあって会社辞めて、今は無職だし」
俺の情けない告白に、彼女は少し微笑んでくれた。
その表情に安堵しつつも、なぜか彼女の声が気にかかる。
先ほどからずっと耳に心地よく響いていたその声は、特徴的で、とても魅力的だった。
そして――どこかで聞いたことがあるような気がする。
「前に間違ってボイスチャットしてきたとき、すごく綺麗な声だと思ってたけど……実際に聞くと、もっと素敵だね」
「あのときはごめんね。驚いたよね? 私も焦ったんだけど……このゲームに誘ってくれた友達と話すときは、音声変更をオフにしてたんだよ。クマサンの声でやると違和感がすごくて、彼女が笑っちゃってさ」
「そうだったんだ……」
俺の想像とは逆だった。
可愛い女の子の声がリアルで、獣人クマサンの渋い声がボイス変更されたものだったなんて。
変な趣味を疑っていたなんて、口が裂けても言えない。
「えっと……クマサンは――いや、リアルでクマサンって呼ぶの変だよな。名前、聞いてもいい?」
言った瞬間、彼女はわずかに目を伏せた。
――まずい。リアルに踏み込みすぎたか。
取り繕おうとした、その前に。
「……熊野彩」
「熊野彩さんかぁ。あっ、もしかしてクマサンって名前から? でも、その名前、どこかで――」
言いかけて、止まる。
――熊野彩。
アイドル系アニメのメインキャスト。ライブにも出演していた、人気声優。
だが、ある日突然、休養を発表し――そのまま、姿を消した。
まさか、その人がクマサンだなんて……。
「あー、やっぱりショウも知ってるのかぁ。本名で活動してたからなぁ」
俺の顔を見て、彼女は察したように苦く笑った。
「私、声優をやってたんだ……」
その瞳が一瞬、かすかに揺れたのを横目で見て、俺は何も言えなくなった。
熊野彩の声が好きだったと言える状況じゃない。辞めた理由を聞くなんて、なおさらだ。
「私ね、自分じゃない誰かを演じるのが小さい頃から好きだったんだ。容姿には自信がないし、人前に出るのも苦手。でも、自分の声だけは好きで……それで、運よく声の仕事をさせてもらえるようになったの」
そこで、ほんの少し言葉が詰まる。
「でも最近の声優って、声だけじゃダメなんだよね。アイドルみたいな活動も求められて……。気にしなきゃいいって言われても、周りの目とか、ネットの声とか……やっぱり無理で」
視線が落ちる。
「胸がないとか、脚が太いとか。匿名だからって、平気で言われるんだよ。一番それを気にしてるのは私なのに」
小さく笑う。
自嘲の混じった笑いだった。
「気づいたら、拒食と過食を繰り返すようになってて。仕事にも影響が出ちゃって……一時休養。でも、休んだら休んだで、また憶測が増えて。……心も体も、もう無理だった」
そして、静かに言い切る。
「だから、辞めたの」
胸が締め付けられる。
正直、俺から見れば熊野さんの容姿はとてもキュートで、十分すぎるほど魅力的に映る。
少なくとも、あんな言葉を浴びせられるような存在じゃない。
俺が傷ついたわけじゃない。
それなのに、怒りと悔しさと、どうしようもない悲しさが入り混じって、胸の奥で渦を巻く。
言葉は、刃物だ。
悪意がなくても、人は傷つく。
それなのに、ネットにはむき出しの刃が無数に転がっている。
優しい言葉だってあったはずだ。
励ましも、きっとあった。
それでも――
一度深く刺さった傷は、簡単には塞がらない。
「熊野さん……」
何か言わなければと思うのに、言葉が見つからない。
どんな慰めも薄っぺらに思えて、結局、俺は黙り込んでしまった。
そんな沈黙を破るように、彼女が続ける。
「それでね、家で引きこもってたときに、友達が気分転換にどうかって、このゲームを勧めてくれたんだ。オンラインゲームなんて初めてで、最初は全然わかんなかったんだけど……」
少しだけ、声のトーンが和らぐ。
「キャラメイクの途中で、クマみたいなキャラを見つけて、急に興味が湧いてきたの。あ、私、熊野だからクマさん好きなんだ」
「……なるほど。だから熊型獣人キャラだったんだね」
それなら、もっと可愛いデザインにしたり、性別を女性にしたりもできただろうに。そう思いかけたところで――
「でも、キャラメイクのこと全然わかってなくてさ。性別も変えられるとか、体の大きさやデザインも調整できるとか、知らなかったんだよね。だから、そのまま始めちゃったの」
思わず間の抜けた声が漏れそうになる。
確かに、初期設定の熊型獣人は今のクマサンそのままだった。
性別もデフォルトは男だったはずだ。
「でも、一度作った容姿は変更できないけど、作り直しはできたよね?」
「キャラメイクで色々できるって知ったのはだいぶ後になってからだったんだ。その頃にはもう、今のキャラに愛着湧いちゃって……」
なるほど。
どうしてリアルでこんな可愛い女の子が、あんな熊型獣人を使っているのかと思ったが、理由は意外なほど単純だった。
深い理由なんてない。
むしろ、ちょっと間抜けで――微笑ましい。
そのギャップが、なんだか妙に愛おしく感じられる。
それにしても――
さっきの話だと、心も体も随分と追い詰められていたみたいだけど、今の熊野さんは穏やかに見える。
血色も悪くない。
痩せすぎでも、太りすぎでもない。
少なくとも――俺の目には、ちゃんと前を向いている人に映っていた。
「このゲームをやって、少しは元気が出たのかな? それだったら、俺も嬉しいんだけど」
うつむきがちだった熊野さんが、ゆっくり顔を上げる。
小さな顔に、大きな黒い瞳。
吸い込まれそうなほど澄んだその瞳が、まっすぐに俺を見つめていた。
「ショウのおかげなんだよ」
呼吸が一瞬止まった。




