第12話 クマサンの秘密
夜風は冷たかった。
自転車を飛ばし、駅へ向かう。
胸の奥がざわつく。
駐輪場に滑り込み、駅へ駆ける。
だが――
駅は閉まっていた。
シャッターが下り、金属の冷たい光を街灯が照らしている。
人影はない。
音もない。
……いない?
俺はクマサンの顔を知らない。
だが、いけばわかるだろうと思っていた。
――誰もいない。
深夜営業の店もコンビニもなく、目につくのは公衆トイレだけだ。
……トイレか?
今日の夜は冷える。用を足しに行っている可能性はある。
そう考えて、俺はそちらへ向かった。
その時――
甲高い悲鳴が、夜を裂いた。
「――っ!」
心臓が跳ね上がる。
駆け出す。
反射的に男子トイレを覗くが、無人。
すぐに、女子トイレ側から物音。
一瞬だけ、ためらい――だが、次の瞬間には踏み込んでいた。
「――――!?」
黒い服の男が、女性を床に押さえつけている。
完全に――事件だ。
「おい! 何やってる!」
叫びながら男の肩を掴む。
でかい。
俺より一回りは大きい。
……いや、待て。この男がクマサンなのか?
ストーカー女を相手に逆上した可能性がよぎる。
だが、それでもやっていいことじゃない。
彼がしていることは明らかな暴行だ。
「やめろっ!」
ギルドメンバーを犯罪者にするわけにはいかないと、俺は男を力ずくで女の人から引きはがす。
男の下から現れたのは、まだ若い女の子だった。
倒れたその子は、スカートの下の白い太ももが無防備に露わになっている。
見てはいけない。とっさにそう思い、視線を引き剥がして、男に向き直った。その瞬間――
ビリッ、と空気が裂けた。
耳をつんざくような電子音。
同時に、全身を貫く衝撃。
「がっ……!」
筋肉が勝手に跳ねる。
力が一瞬で抜け落ちる。
――スタンガン。
理解したときには、膝が崩れていた。
突き飛ばされ、床に叩きつけられる。
「何だお前! 邪魔しやがって!」
視界の端で、スタンガンが火花を散らす。
服越しでこの威力だ。
直接当てられたら――終わる。
「邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ!」
男が血走った目で叫び、再び構える。
――まずい。
もう一度食らえば、完全に動けなくなる。
それどころか、気絶したっておかしくない。
くそっ……!
動かない体に、無理やり命令を叩き込む。
倒れたまま、足を振り上げた。
狙いなんてない。ただの悪あがきだ。
だが――
「ぐっ!」
偶然、男の腕を蹴り上げた。
スタンガンが手を離れ、宙を舞う。
――いける!
そう思った次の瞬間。
「何しやがる!」
男が一気にのしかかってきた。
重い衝撃。
背中が床に叩きつけられる。
「っ……!」
首に指が食い込み、力任せに締め上げられる。
息が吸えない。
喉が潰れる。
視界が滲む。
酸素が足りない。
やばい。
これは――死ぬ。
抵抗しなければ終わりだとわかっているのに、体が言うことをきかない。さっきのキックが当たったのも、どうやら本当に偶然だったらしい。
職場で追い詰められ、無職になり、そしてこんな場所で――
ゲームの中なら、包丁一本でネームドモンスターだって倒せた。なのに現実の俺は、男一人に首を絞められて、何もできずに死んでいく。
冗談みたいな最期だ。
――せめて、あの子だけでも逃げてくれ。
そんなことを願いながら意識が遠のきかけた、そのとき。
ビリビリ、と嫌な音が再び響いた。
反射的に身がすくむ。
代わりに、首を締めていた手から、ふっと力が抜けた。
男の体が、俺の上に崩れ落ちる。
重い。
だが――動かない。
横目で確認すると、男は白目を剥き、完全に意識を失っていた。
ゆっくりと視線を上げる。
そこに立っていたのは、さっき襲われていた女の子だった。
震える手で、スタンガンを握りしめている。
……助かった。
本当に、助かった。
なんとか体をずらし、男を押しのけて起き上がる。
「……ありがとう。助かったよ。君のほうは大丈夫?」
女の子は小さく息を吸い、ゆっくりとうなずいた。
天井のLED照明が、無機質な白い光で空間を照らしている。
不思議だった。視界だけが、やけに鮮明なのだ。
なのに、頭はぼうっとして、うまく働かない。
視線だけが、あてもなく、さまよっていた。
床に長く伸びる、影。乱れた純白のブラウス。震えで揺れる赤いスカートの裾。頬に張りついた黒いショートボブ。小刻みに震える、細い肩。
何もかもが、輪郭までくっきりと見える。
なのに――その影だけは、ぶれていない。
華奢で、可愛らしい女の子だった。
どう見ても、力でかなう相手じゃない。
それでも――この子は、あの巨体に、自分からスタンガンを押し当てたのだ。
華奢なのに、強い。
そして――どこかで、見たことがある気がする。
だが、思い出せない。そのことが、妙に引っかかった。
……いや、それより問題は、この男だ。
もしこれがクマサンだったとしたら――最悪だ。
どう見てもこの男は彼女に襲いかかっていたし、俺も殺されかけた。
擁護できる自信がない。
この状況では、警察を呼ぶしかないだろう。
そう考えた、そのとき――
「……ショウだよね?」
目の前の女の子の震える唇から、かすれた声が落ちた。
「……え?」
間抜けな声が漏れる。
彼女は、わずかに息を整えて続けた。
「キャラと似ているから、すぐにわかったよ」
――は?
アナザーワールドのショウと、リアルの俺が似ている?
何を言っているんだ、この子は。
俺はあんなに格好良くない。
そもそも、なぜゲームの中の俺を知っている?
思考が高速で巡る。
そして、一つの答えに行き着いた。
それしか、辻褄が合わない。
「……もしかして、クマサン?」
彼女は、こくりとうなずく。
「うん。来てくれるって、思ってた」
――――は?
あの、いかつい熊型獣人の中身が。
この、ちっちゃくて可愛い女の子?
頭が、追いつかない。
さっきまで味わっていた死の恐怖よりも、クマサンの正体が美少女だったという事実のほうが、よほど現実味がなかった。
俺の思考は、完全に停止した。




