第1話:死んだふりと、最初の布石
「若殿、本当にこれでよろしいのですか……?」
少弐家の宿老、筑紫栄門が、情けない声を出しながら俺の顔を覗き込んできた。
無理もない。
俺が指示した撤退作戦は、戦国武士の常識からすれば「あまりにも恥知らず」なものだったからだ。
「いいんだよ栄門。名誉で腹は膨らまないし、死んだら名門もクソもない。おい、そこの兵、もっと盛大に旗を放り捨てろ。兜もそこに置いていけ」
「は、ははっ!」
俺たちは今、龍造寺隆信の包囲網を間一髪で抜け出し、山間部を泥まみれになって逃走していた。
普通なら必死に形振りを整えて逃げるものだが、俺はあえて「少弐軍は完全にパニックを起こして壊滅した」ように見せる偽装工作を行っていた。
道中にわざと家宝の茶器(中身のない安物)を落とし、名のある武将の兜を転がす。
追撃してくる龍造寺の斥候が見れば、「少弐の若殿は恐怖で腰を抜かし、全軍崩壊して逃げ散った」としか思えない惨状だ。
なぜこんなことをするのか。
理由は一つ。
「肥前の熊」こと龍造寺隆信に、油断してもらうためだ。
史実の龍造寺隆信は、傲慢だが信じられないほど執念深い男だ。
少弐家が少しでも反抗の意志を見せれば、根切りにするまで追ってくる。
だが、逆に「少弐はもう完全に終わった。
若殿は精神が崩壊してただの抜け殻になった」と思わせれば、隆信の関心は次のターゲットである大内家や、肥前の他の国人衆(周辺の小領主たち)へと移る。
これこそが、俺の立てた歴史上最大の戦略――『国家規模の死んだふり』である。
「よし、これで追撃は緩むはずだ。栄門、このまま本拠の勢福寺城には戻らんぞ」
「えっ!? 本拠に戻られないのであれば、一体どこへ……!?」
「長崎だ。彼杵の奥、あの寂れた港へ向かう」
当時の長崎は、まだただの貧しい漁村に過ぎない。
史実では、このあと大村純忠という大名がキリシタンになり、南蛮貿易の港として開港することで、世界屈指の貿易都市へと大化けする場所だ。
つまり、「誰も価値に気づいていない今のうちに、俺が長崎を押さえる」。
「な、長崎……? あそこはただの僻地でございますぞ。何のために……」
「金を稼ぐためだ。龍造寺に勝つには、兵の数でも武勇でもない。『金』が必要なんだよ」
戦国時代の合戦は、究極のところ経済戦争だ。
どれだけ強力な武将がいようと、兵を養う米、鉄砲を買う金、弾薬となる硝石がなければ戦争は続けられない。
少弐家が今から泥臭く農業を頑張ったところで、龍造寺や大友の領地には到底追いつけないのだ。
なら、商業で、それも海外貿易の利益で一気にゴボウ抜きするしかない。
「(長崎を押さえたら、まずは現代の知識で『あの商品』を作って、南蛮人に売りつけてやる……!)」
俺は泥にまみれた顔のまま、ニヤリと笑った。
その目は、絶望的な敗走中とは思えないほど、怪しい野心に満ちていた。
後に九州の勢力図を根底からひっくり返す「怪物」が産声を上げた瞬間だった。




