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7/8

第7話 「写真だけでも」

1


「いらっしゃいませ。お伺いいたします」


「あのぅ…駐車券を失くしてしまって……」


「さようでございますか」

「当館では入庫時刻の確認が必要となりますので、まずはお車のナンバーをお伺いしてもよろしいでしょうか」


この場合は、紛失料金を請求することになるだろう…

ひどく嫌な顔をされるが仕方がない。



隣では恵美が、スマホを紛失されたお客様の対応をしている。


「ご不安なところ、お越しいただきありがとうございます」

「まずは、お探しのスマートフォンの特徴を……」



対応がひと段落したところで、恵美が小さく息を吐いた。


「今日、なんか問い合わせ多いよね」


「そだね。お客様自体は少ないほうなのにね」


問い合わせが多いと、申し送りの書類も増える。

紙の書類は、ずいぶん減ったけれど。


問い合わせがあった方のお名前を書類に書いていく。

長谷川様……浅野様……倉田様……



―『朝倉様でご予約いただいております』



なんで今、そんなこと思い出すのかわからないけれど。


そういえば、お義父さんに帰り際、ロビーで言われたことを思い出す。


「挙式はしない意向だと聞いたけど」

「神社でも教会でも式だけなら面倒な準備も省けるんじゃないの?」

「せっかくだから、よく考えるといいよ」


ママは、私の気持ちを尊重するとは言ってた。

そのくせ、写真くらいは見たいらしい。



両家の顔合わせだけでも、大変だったのに挙式の準備は…

そもそも、私は盛大な結婚式にあまり憧れてはいない。

衣装を決めて、招待客、その席順、出す料理の試食まであるとか。

たぶん、それだけでは済まない。


カウンターに伏せるように、書類に向き合ってはいるが、一向にペンは動いていない。

目ざとく、そのことに気づいた恵美から声をかけられる。


「今度は何?」


「え?」

「あぁ…挙式?」


ささっと書類を終わらせて、背筋を伸ばして立つ。


「するんだ。興味なさそうだったのに」


恵美はボールペンを胸ポケットに挿して言った。


「んーん。式はしないと思う」

「式はなくてもいいかと思ってたんだけど」


「写真だけ撮れば?」

「今、多いらしいよ」


「写真かぁ」


恵美はパンフレットの補充をしながら言った。


「成人式と一緒じゃん。ふたりになるだけよ」

「披露宴なんてやったら、お互い疲れ果ててケンカになりそう」

「写真なら、ふたりの都合で決められるんじゃない?」


私は貸し出し用のベビーカーを拭きながら頷いた。


「なるほどね…」


「ドレスでも和装でも見てみれば?」

「見るだけなら、お金も要らないしさ」

「昔は、ここにもブライダル衣装のレンタルあったらしいよ?」


「そうなの?」


恵美が、私に紙を差し出しながら言った。

タイトルは『フロアガイド変更点及びテナント営業時間・休業情報』


「ま、見るだけで済むとは思えないけど」



夕方、帰りの電車の中で、「フォトウェディング」を検索していた。

オフショルダーの純白のドレスは素敵だった。

白無垢は限りなく清楚だ。

和装+洋装。

なるほど。


どれも、見ているだけならきれいだった。

自分が着るとなると、急に遠い。


式はしない。

そう思っていたけれど。


『写真だけでも』


皆が言う。


写真。

その言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。



2


帰宅したのは、22時前だった。

恒一さんは17時上がりで、買い物をして、洗濯物を取り込んでいてくれていた。

私が遅番の夜は、その都度LINEで連絡しながら決めている。


今日のように、彼のほうが17時過ぎに帰宅する日は、お腹も空くだろうから。

私が17時の休憩でしっかり食べましたと言えば、待たなくていいとなる。

無駄な負担を暗黙のうちに減らしている格好だ。



お風呂上がり、頭からバスタオルを被ったまま、ダイニングでスマホを見ていた。

もう、寝たと思っていたら、恒一さんが寝室から出てきた。


「あ、起きてました?」


「何見てる?」


そう言いながら、私の髪を拭いてくれる。


「フォトウェディング」


そう言って、後ろで私の髪を拭く彼に、腕を高く上げてスマホの画面を見せた。


「撮るの?」


「まだ、考えてるんですけど…」

「でも、撮るとなったら、また段取り大変よ?」


「俺は、ひよが撮りたいならいい」


私は、頭を後ろに倒して、恒一さんを見上げた。


「お式はなくてもいいと思ってたんですけど」

「ママは写真くらい見たいとか言うし」

「恵美も成人式と一緒だって」


「みんな、写真、写真って言うから、気になっちゃって」


恒一さんは、私の頭を起こして、今度は前に回る。


「じゃ、撮ろう」


「そんな簡単に決めちゃうんですか?」


「ひよが嫌じゃないなら」


「んー…これも、親孝行の一環?と思ってみたり」

「自分が着たいのかどうか、わからないところもあって」


恒一さんは、私の髪を指で梳かして言った。


「親のためだけにする必要はないと思うけど」

「ひよが、ちょっとでも着たいと思うなら、俺は見たいけど?」


また、そんな目で見る…

吸い込まれてしまいそう。


「見たい?」


「見たい」


ママに言われても迷うけど、恒一さんに言われたら迷えない。


「じゃあ…」


私は、スマホをスクロールして彼に聞いた。


「どれがいいですか?」

「白のドレスと白無垢と色打掛」


「全部」


「全部はダメ」


「だって、似合うから」


「それじゃ、相談になってませんよ」


私は、笑ってそう言った。


「ひよが着るなら、全部見たい」


「ダメですよ。ほら」


料金表を見せた。


「和装と洋装、両方だと…見て?」

「結構高いんですから」


恒一さんは、毛先をタオルで握りながら言った。


「俺が出すから」


「もう…すぐ出すっていうんだから」


「一度、見に行けばいい」


「話だけでも聞きに行きます?」


「うん」


そんなことを言っているうちに、髪はおおかた乾いていた。


式はしない。

そう思っていたのに、彼は婚礼衣装を着た私を見たいと言ってくれる。

写真を残す。

28歳の今の私と今の気持ち。

それが写真と一緒に残るなら、それも悪くないのかもしれない。



3


日が暮れるのが、ずいぶん早くなった。

気温もお昼はともかく、夜は涼しい。

今日も遅番だ。


催事はアクセサリーのポップアップ。

週替わりで入れ替えなので、私も毎週行きたい。

行く時間があればの話だけど。


17時。

お客様も静かなので、そろそろ休憩だ。


「恵美、休憩行く?」


「軽く?しっかり?」


「しっかり」


何かというと、ご飯のことだ。

私が早番なら、恒一さんの帰りを待って一緒に食べる。


逆に、私が遅番の日は、ご飯は作らないときが増えた。


ふたりして遅番なら、作り置きしたお惣菜なんかで一緒に夕食。

できるだけ一緒に食べないと、一緒に暮らしていてもすれ違ってしまうから。

恒一さんは、待ってないで先に食べろとは言ってくれるけれど、私としては一緒に食べたい。


ご飯を作らない日があることを、恒一さんはいいことだと言う。

たまには、じっとしてろと。


好きでやっているのにとは思うけど、こんな日は恒一さんが食べないで待ってる。

だから、待たないでいいように、しっかり食べる。


ほんとに、厄介な職場だ。

そして、今日はしっかり食べる日だ。


食堂はもう閉まっているから、休憩室で買ってきたお弁当を食べる。

ああ、そうだ。

これから、遅番の日はお弁当を作ってもいいかもしれない。



恵美と地下で買ったお弁当を持って休憩室へ行った。


座ってから、恵美に言った。


「写真撮る方向で決まりそう」


「見るだけじゃ、済まなかったでしょ?」


恵美はそういうもんだという顔だ。


「まだ、見てないよ。これから」


エビフライを箸で掴んで、恵美がそれをこちらに向ける。


「朝倉さんは見たいって言ったでしょ?」


わたしは、箸を止めて言った。


「なんで、わかるの?」


「顔」


また顔か!



「結構高いらしいじゃん」


恵美は、知っているのかしら。


「恵美は、何でも詳しいね」


恵美は、フフッと笑って言った。


「情報源は兄貴」


「あーそういえば、去年結婚したって……」


「そそ」

「衣装だけじゃないらしい」


「そうなの?」


今度は、恵美の箸にかぼちゃが刺さっている。


「ヘアメイクとか、アルバムとか、データとかさ、別料金なんだって」

「曜日でも違うって。土日は休日料金とかね」


「あぁ…なるほど」


結構、かかりそう。


「でも、花嫁衣装を着たひよりは見たいかも」


食べ終わると、恵美は更衣室へ行くと言って、席を立った。



ごみを捨てて、スマホで検索する。


スタジオ撮影、ホテル系、庭園ロケーション、和装+洋装、データのみ、アルバム付き。

………。

なにこれ。

料金表を見て、のけ反る。


写真だけのウェディングと言いながら、写真だけじゃない。


恒一さんにLINEでURLを送る。


〈ここ、どうですか?〉

〈和装、洋装、両方だと高いです〉

―送信


―返信

〈見に行こう〉

〈両方見たい〉


〈全部は無理ですって〉

〈それと、ご飯しっかり食べたので〉

〈あなたも、しっかり食べてね〉

―送信


―返信

〈ご飯は了解〉


〈見てから決めればいいから〉

〈それと、駅まで迎えに行く〉



スマホのカレンダーを見て確認する。

彼と休みが重なる日は来月までない。


顔合わせで無理やり休みを重ねて、次は10月。

ちょっと、ゆっくりしたいんだけどな。


10月7日。

この日しかない。


予約完了

【相談予約完了】

撮影相談

10月7日 11時


カレンダーに「フォト相談」と入力した。


式はしない。

でも、写真は残す。


春へ向かうその道の途中に、また寄る場所が増えるのだろうか。



4


10月7日。

久しぶりに、ふたりそろって休みだった。

本当なら、何も予定を入れずに家でゆっくりしていたいところだけど、今日はフォトウェディングの相談予約を入れている。


「相談だけですからね」


玄関で靴を履きながら、私は念を押すように言った。


「分かってる」


恒一さんは、いつものように短く答える。

でも、その顔はあまり分かっていない気がする。


「見るだけです」


「うん」


「見るだけで、決めないですからね」


「うん」


返事はちゃんとしてくれる。

けれど、私よりずっと落ち着いていて、もう決めてもいいと思っているようにも見えた。


相談に行くのは、横浜にあるフォトスタジオだった。

駅から歩いて少しの場所にあるビルの中で、白を基調にした入口には、ウェディングドレスを着たモデルの写真が飾られている。

それを見ただけで、私は少し足が止まった。


「どうした」


「いえ……」

「急に、現実味が」


恒一さんは、私の横に立って、その写真を見た。


「綺麗だな」


「モデルさんですから」


「ひよも似合う」


「まだ着てません」


「着れば似合う」


いつもの調子で言われて、私は返す言葉をなくした。


受付で名前を伝えると、奥の相談スペースに案内された。

テーブルには、分厚いアルバムが何冊も置かれている。

白いドレス、白無垢、色打掛。

画面で見るのとは違って、紙のアルバムに並ぶ写真は、妙に迫力があった。


スタッフの女性が、にこやかに説明してくれる。


「挙式はされず、お写真だけを残される方も最近は多いですよ」


「洋装のみ、和装のみ、あとは和装と洋装の両方のプランもございます」


そう言って、料金表を広げてくれた。


私は、思わず少し背筋を伸ばす。

数字というものは、夢を一瞬で現実に引き戻す力がある。


「衣装代、ヘアメイク、撮影料、データ……」

「アルバムは別なんですね」


「プランによって含まれるものが違いますので、ご希望に合わせてご案内できます」


なるほど。

恵美の言った通りだ。

写真だけと言いながら、写真だけでは済まない。


スタッフの女性は、私たちの様子を見ながら、今度は衣装のカタログを開いた。


「まずは、どんな雰囲気がお好きか見ていただいてもいいですよ」

「実際の衣装も、少しご覧になりますか?」


その言葉に、私は反射的に恒一さんを見た。


「見るだけです」


「分かってる」


いや、わかっていない。


衣装室へ案内されると、壁一面にドレスが並んでいた。

白いドレスが、いくつも、いくつも。

同じ白なのに、形も生地も全然違う。


胸元がすっきりしたもの。

袖のあるもの。

レースが細かいもの。

スカートがふわっと広がるもの。

見ているだけで、少し息が詰まる。


きれいすぎるものは、ドレスに負けてしまいそうで怖い。


「すごいですね……」


「うん」


恒一さんは、私の少し後ろで黙って見ていた。

仕事中の警備のように周囲を見ているわけではなく、ただ、私の反応を見ているようだった。


スタッフの女性が、一着のドレスを手に取った。


「高阪様でしたら、こちらのようなシンプルなラインもお似合いになると思います」

「首元のネックレスも素敵ですね」


ホワイトデーにもらったアクアマリン。

アクアマリンのネックレスに、自然と手が触れた。


「あ…これは、彼からの…」


「素敵ですね。撮影用のアクセサリーはこちらでもご用意がありますが、お持ち込みのものを一緒に写す方もいらっしゃいますよ」


その言葉に、胸が小さく跳ねた。

ウェディングドレスに合わせるには、少し細くて小さいかもしれない。

でも、彼にもらったネックレスを身につけて、その日を迎える。

少しだけ、想像できてしまった。


「和装もご覧になりますか?」


別のラックには、白無垢と色打掛が並んでいた。

白無垢は、名前の通りどこまでも白くて、ただそこにあるだけで背筋が伸びる。

色打掛は、赤や金や淡い色の刺繍が華やかで、見ているだけで目が追いつかない。


「どれがいいと思います?」


私は、つい恒一さんに聞いてしまった。


「全部」


まただ。


「だから、全部は無理です」


「似合うだろ」


「相談になってないです」


スタッフの女性が、少し笑った。

恥ずかしくなって、私はカタログに視線を落とす。


「でも……」

「もし撮るなら、ドレスだけでもいいかなと思ってました」


「白無垢も見たい」


「恒一さん」


「色打掛も」


「増やさないで」


思わずそう言うと、恒一さんは少しだけ笑った。

その顔を見て、私はまた困ってしまう。

この人は、式には強い希望がないと言う。

でも、私が婚礼衣装を着ることには、どうやらかなり興味があるらしい。

それが分かると、逃げ道が少しずつ狭くなる。


スタッフの女性が、試着だけでもできますよ、と言ってくれた。

今日は相談だけのつもりだった。

見るだけのつもりだった。

でも、目の前には、ウェディングドレスがある。


「……一着だけなら」


私が小さく言うと、恒一さんがこちらを見た。


「着るのか」


「見るだけじゃ、分からないので」


言い訳みたいに言ったのに、彼は真面目に頷いた。


「うん」


スタッフの女性が、私に似合いそうなドレスを二着ほど選んでくれる。

そのうちの一着を持って、試着室へ向かった。

カーテンの向こうで、ドレスを身体に合わせてもらう。


まだ本番ではない。

髪もいつものまま。

メイクだって普通だ。

それなのに、鏡の中の私は、少しだけ知らない人みたいだった。


スタッフの女性が、背中の仮留めを整えてくれる。


「では、外に出てみましょうか」


心臓が、やけに大きく鳴った。

カーテンを開けると、恒一さんがこちらを向いた。

その瞬間、彼の表情が止まった。

ほんの一瞬。

でも、確かに止まった。


「……変、ですか?」


自分でも、変なことを聞いたと思う。

恒一さんは、ゆっくり首を振った。


「綺麗だ」


それだけだった。

でも、その声がいつもより少し低くて、私は鏡を見るより先に、彼の顔から目が離せなくなった。


スタッフの女性が、にこにこと少し離れたところで待っている。

私は、急に恥ずかしくなって、スカートの布を少しつまんだ。


「まだ、髪も何もしてないのに」


「関係ない」


「関係あります」


「ない」


短い言い合いなのに、胸の奥が熱くなる。

相談だけのつもりだった。

見るだけのつもりだった。

でも、ドレスを着た私を見て、恒一さんがそんな顔をするから。


写真だけでも。


その言葉は、もうただの提案ではなくなっていた。



5


試着室で元の服に着替えると、急に現実に戻った気がした。

さっきまで身体にまとっていたドレスは、もうカーテンの向こうに戻されている。


髪もいつものまま。

メイクもいつものまま。

それなのに、鏡の中の自分が少しだけ違って見えた。


相談スペースに戻ると、スタッフの女性が改めてプラン表を広げてくれた。


「本日ご覧いただいたドレスでしたら、洋装プランでご案内できます」

「和装もご希望でしたら、別日で試着していただくこともできます」


私は、もう一度料金表を見る。

数字は、やっぱり現実だった。


「ドレスだけでも、ちゃんとした金額ですね」


思わずそう言うと、スタッフの女性は少し笑った。


「お写真だけでも、衣装やヘアメイクが入りますので」

「ただ、挙式や披露宴よりは、ぐっとご負担は少ないと思います」


それは、たぶん本当だ。

けれど、私たちにとっては、決して小さな金額ではない。

隣に座る恒一さんを見ると、彼はプラン表を真面目に見ていた。


「和装は、今日は見ないのか?」


「見たら、また迷うから……」


「迷えばいい」


「もう……簡単に言うんだから」


「決めるために来たんじゃないのか」


「話を聞きに来ただけです」


私が小さく言い返すと、恒一さんは少しだけ口元を緩めた。


「でも、撮るんだろ」


その言い方があまりにも自然で、私は返事に詰まった。


撮るんだろ。


そう言われて、もう自分の中では答えが出ていたのだと気づいた。


「……撮ります」


声に出すと、思っていたよりも簡単だった。

でも、その言葉の重さはちゃんとあった。


式はしない。

披露宴もしない。

でも、写真は残す。


今の私と、今の恒一さん。

春に向かう途中の、まだ夫婦になる前のふたりを。


「では、次回は衣装試着のご予約をお取りしましょうか」

「和装もご覧になるのでしたら、新婦様の白無垢や色打掛、それから新郎様の紋付袴も合わせてご案内できます」



新郎様。



その言葉で、私は固まった。

そうだった。

フォトウェディングは、私だけが婚礼衣装を着るわけではない。

恒一さんも、着るのだ。


タキシード。

紋付袴。


そのふたつの単語が頭に浮かんだ瞬間、さっきまで料金表で冷静になりかけていた気持ちが、また別の方向へ跳ねた。


ダークスーツでもあんなに素敵だった人が、タキシード。

あるいは、紋付袴。


だめだ。

想像だけで、だめだ。


「どうした」


恒一さんが、私を見る。


「いえ……」


「顔が赤い」


「暑いんです」


「寒いけどな?」


十月の室内で、しかも空調の効いたスタジオで。

我ながら苦しい言い訳だった。


スタッフの女性が、にこにこと微笑んでいる。


「新郎様は、洋装でしたらタキシード、和装でしたら紋付袴ですね」

「新婦様のお衣装に合わせて、お選びいただけます」


私は、恐る恐る恒一さんを見た。


「……着るんですか?」


「必要なら」


「タキシードも?」

「必要なら」


「紋付袴も?」


「必要なら」


必要なら。


そんな、作業着みたいに言わないでほしい。

こちらの心臓には、かなり必要以上の負担がかかっている。


「見たいのか?」


恒一さんが、少し低い声で聞いた。

私は、カレンダーを開いたスマホを握ったまま、小さく言った。


「……見たいです」


言ってしまった。


恒一さんは、ほんの少しだけ目を細めた。


「俺も見たい」


「さっきから、そればっかり」


「本当だからな」


スタッフの女性が、あえて何も聞いていないような顔で、予約画面を操作している。

プロだ。

とてもありがたい。


「では次回は、和装も含めた衣装試着ということでお取りしておきますね」

「新婦様のお衣装を中心に、新郎様のお衣装もいくつかご覧いただけます」


新婦様。

新郎様。


呼び方がいちいち心臓に悪い。


私はスマホのカレンダーを見た。

ふたりの休みが合う日は、相変わらず少ない。


顔合わせ。

今日の相談。

次は試着。

結婚準備というものは、幸せだけど、なかなか容赦がない。


「この日なら……」


「俺も大丈夫」


恒一さんが横から言った。


「見てないのに?」


「見てる」


本当だ。


彼のスマホにも、シフトのカレンダーが開いていた。


予約を終えて、スタジオを出るころには、外の空気が少し冷えていた。

十月の夕方は、もう夏ではない。

少し前まで暑い暑いと言っていたのに、日が落ちると、風が肌に触れる。

駅へ向かう道を歩きながら、私は言った。


「本当に、写真だけでも大変ですね」


「うん」


「でも、少し楽しみになってきました」


「そうか」


「はい」


それだけ言って、私は少し笑った。


すると、恒一さんが歩く速度を少し落として、私の手を取った。


「ひよ」


「はい」


「今日のドレス、似合ってた」


また言う。


「……もう聞きました」


「足りない」


「何がですか?」


「言う回数」


そんなことを、真顔で言わないでほしい。

私は、つないだ手に少しだけ力を込めた。


「次は、和装も見るんですね」


「うん」


「また、全部似合うって言うんでしょう?」


「言う」


「相談になってないと思う……」


「見るだけでいい」


「何を?」


「ひよの花嫁姿」


風が少し冷たかった。

でも、つないだ手だけは温かい。


写真だけでも。

そう思っていたものが、いつの間にか、少し楽しみな予定になっている。


でも、問題は私のドレスだけではなかった。


タキシードの恒一さん。

紋付袴の恒一さん。


そんなものを見て、私は当日まで正気でいられるのだろうか。


春までの道の途中に、寄るかどうか迷っていた場所があった。

けれど、その場所に寄ろうと決めた。


きっとあとになって、残してよかったと思えるものになる。


そんな気がした。




ひより日和 婚約編 第7話 「写真だけでも」おわり



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