第7話 「写真だけでも」
1
「いらっしゃいませ。お伺いいたします」
「あのぅ…駐車券を失くしてしまって……」
「さようでございますか」
「当館では入庫時刻の確認が必要となりますので、まずはお車のナンバーをお伺いしてもよろしいでしょうか」
この場合は、紛失料金を請求することになるだろう…
ひどく嫌な顔をされるが仕方がない。
隣では恵美が、スマホを紛失されたお客様の対応をしている。
「ご不安なところ、お越しいただきありがとうございます」
「まずは、お探しのスマートフォンの特徴を……」
対応がひと段落したところで、恵美が小さく息を吐いた。
「今日、なんか問い合わせ多いよね」
「そだね。お客様自体は少ないほうなのにね」
問い合わせが多いと、申し送りの書類も増える。
紙の書類は、ずいぶん減ったけれど。
問い合わせがあった方のお名前を書類に書いていく。
長谷川様……浅野様……倉田様……
―『朝倉様でご予約いただいております』
なんで今、そんなこと思い出すのかわからないけれど。
そういえば、お義父さんに帰り際、ロビーで言われたことを思い出す。
「挙式はしない意向だと聞いたけど」
「神社でも教会でも式だけなら面倒な準備も省けるんじゃないの?」
「せっかくだから、よく考えるといいよ」
ママは、私の気持ちを尊重するとは言ってた。
そのくせ、写真くらいは見たいらしい。
両家の顔合わせだけでも、大変だったのに挙式の準備は…
そもそも、私は盛大な結婚式にあまり憧れてはいない。
衣装を決めて、招待客、その席順、出す料理の試食まであるとか。
たぶん、それだけでは済まない。
カウンターに伏せるように、書類に向き合ってはいるが、一向にペンは動いていない。
目ざとく、そのことに気づいた恵美から声をかけられる。
「今度は何?」
「え?」
「あぁ…挙式?」
ささっと書類を終わらせて、背筋を伸ばして立つ。
「するんだ。興味なさそうだったのに」
恵美はボールペンを胸ポケットに挿して言った。
「んーん。式はしないと思う」
「式はなくてもいいかと思ってたんだけど」
「写真だけ撮れば?」
「今、多いらしいよ」
「写真かぁ」
恵美はパンフレットの補充をしながら言った。
「成人式と一緒じゃん。ふたりになるだけよ」
「披露宴なんてやったら、お互い疲れ果ててケンカになりそう」
「写真なら、ふたりの都合で決められるんじゃない?」
私は貸し出し用のベビーカーを拭きながら頷いた。
「なるほどね…」
「ドレスでも和装でも見てみれば?」
「見るだけなら、お金も要らないしさ」
「昔は、ここにもブライダル衣装のレンタルあったらしいよ?」
「そうなの?」
恵美が、私に紙を差し出しながら言った。
タイトルは『フロアガイド変更点及びテナント営業時間・休業情報』
「ま、見るだけで済むとは思えないけど」
夕方、帰りの電車の中で、「フォトウェディング」を検索していた。
オフショルダーの純白のドレスは素敵だった。
白無垢は限りなく清楚だ。
和装+洋装。
なるほど。
どれも、見ているだけならきれいだった。
自分が着るとなると、急に遠い。
式はしない。
そう思っていたけれど。
『写真だけでも』
皆が言う。
写真。
その言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
2
帰宅したのは、22時前だった。
恒一さんは17時上がりで、買い物をして、洗濯物を取り込んでいてくれていた。
私が遅番の夜は、その都度LINEで連絡しながら決めている。
今日のように、彼のほうが17時過ぎに帰宅する日は、お腹も空くだろうから。
私が17時の休憩でしっかり食べましたと言えば、待たなくていいとなる。
無駄な負担を暗黙のうちに減らしている格好だ。
お風呂上がり、頭からバスタオルを被ったまま、ダイニングでスマホを見ていた。
もう、寝たと思っていたら、恒一さんが寝室から出てきた。
「あ、起きてました?」
「何見てる?」
そう言いながら、私の髪を拭いてくれる。
「フォトウェディング」
そう言って、後ろで私の髪を拭く彼に、腕を高く上げてスマホの画面を見せた。
「撮るの?」
「まだ、考えてるんですけど…」
「でも、撮るとなったら、また段取り大変よ?」
「俺は、ひよが撮りたいならいい」
私は、頭を後ろに倒して、恒一さんを見上げた。
「お式はなくてもいいと思ってたんですけど」
「ママは写真くらい見たいとか言うし」
「恵美も成人式と一緒だって」
「みんな、写真、写真って言うから、気になっちゃって」
恒一さんは、私の頭を起こして、今度は前に回る。
「じゃ、撮ろう」
「そんな簡単に決めちゃうんですか?」
「ひよが嫌じゃないなら」
「んー…これも、親孝行の一環?と思ってみたり」
「自分が着たいのかどうか、わからないところもあって」
恒一さんは、私の髪を指で梳かして言った。
「親のためだけにする必要はないと思うけど」
「ひよが、ちょっとでも着たいと思うなら、俺は見たいけど?」
また、そんな目で見る…
吸い込まれてしまいそう。
「見たい?」
「見たい」
ママに言われても迷うけど、恒一さんに言われたら迷えない。
「じゃあ…」
私は、スマホをスクロールして彼に聞いた。
「どれがいいですか?」
「白のドレスと白無垢と色打掛」
「全部」
「全部はダメ」
「だって、似合うから」
「それじゃ、相談になってませんよ」
私は、笑ってそう言った。
「ひよが着るなら、全部見たい」
「ダメですよ。ほら」
料金表を見せた。
「和装と洋装、両方だと…見て?」
「結構高いんですから」
恒一さんは、毛先をタオルで握りながら言った。
「俺が出すから」
「もう…すぐ出すっていうんだから」
「一度、見に行けばいい」
「話だけでも聞きに行きます?」
「うん」
そんなことを言っているうちに、髪はおおかた乾いていた。
式はしない。
そう思っていたのに、彼は婚礼衣装を着た私を見たいと言ってくれる。
写真を残す。
28歳の今の私と今の気持ち。
それが写真と一緒に残るなら、それも悪くないのかもしれない。
3
日が暮れるのが、ずいぶん早くなった。
気温もお昼はともかく、夜は涼しい。
今日も遅番だ。
催事はアクセサリーのポップアップ。
週替わりで入れ替えなので、私も毎週行きたい。
行く時間があればの話だけど。
17時。
お客様も静かなので、そろそろ休憩だ。
「恵美、休憩行く?」
「軽く?しっかり?」
「しっかり」
何かというと、ご飯のことだ。
私が早番なら、恒一さんの帰りを待って一緒に食べる。
逆に、私が遅番の日は、ご飯は作らないときが増えた。
ふたりして遅番なら、作り置きしたお惣菜なんかで一緒に夕食。
できるだけ一緒に食べないと、一緒に暮らしていてもすれ違ってしまうから。
恒一さんは、待ってないで先に食べろとは言ってくれるけれど、私としては一緒に食べたい。
ご飯を作らない日があることを、恒一さんはいいことだと言う。
たまには、じっとしてろと。
好きでやっているのにとは思うけど、こんな日は恒一さんが食べないで待ってる。
だから、待たないでいいように、しっかり食べる。
ほんとに、厄介な職場だ。
そして、今日はしっかり食べる日だ。
食堂はもう閉まっているから、休憩室で買ってきたお弁当を食べる。
ああ、そうだ。
これから、遅番の日はお弁当を作ってもいいかもしれない。
恵美と地下で買ったお弁当を持って休憩室へ行った。
座ってから、恵美に言った。
「写真撮る方向で決まりそう」
「見るだけじゃ、済まなかったでしょ?」
恵美はそういうもんだという顔だ。
「まだ、見てないよ。これから」
エビフライを箸で掴んで、恵美がそれをこちらに向ける。
「朝倉さんは見たいって言ったでしょ?」
わたしは、箸を止めて言った。
「なんで、わかるの?」
「顔」
また顔か!
「結構高いらしいじゃん」
恵美は、知っているのかしら。
「恵美は、何でも詳しいね」
恵美は、フフッと笑って言った。
「情報源は兄貴」
「あーそういえば、去年結婚したって……」
「そそ」
「衣装だけじゃないらしい」
「そうなの?」
今度は、恵美の箸にかぼちゃが刺さっている。
「ヘアメイクとか、アルバムとか、データとかさ、別料金なんだって」
「曜日でも違うって。土日は休日料金とかね」
「あぁ…なるほど」
結構、かかりそう。
「でも、花嫁衣装を着たひよりは見たいかも」
食べ終わると、恵美は更衣室へ行くと言って、席を立った。
ごみを捨てて、スマホで検索する。
スタジオ撮影、ホテル系、庭園ロケーション、和装+洋装、データのみ、アルバム付き。
………。
なにこれ。
料金表を見て、のけ反る。
写真だけのウェディングと言いながら、写真だけじゃない。
恒一さんにLINEでURLを送る。
〈ここ、どうですか?〉
〈和装、洋装、両方だと高いです〉
―送信
―返信
〈見に行こう〉
〈両方見たい〉
〈全部は無理ですって〉
〈それと、ご飯しっかり食べたので〉
〈あなたも、しっかり食べてね〉
―送信
―返信
〈ご飯は了解〉
〈見てから決めればいいから〉
〈それと、駅まで迎えに行く〉
スマホのカレンダーを見て確認する。
彼と休みが重なる日は来月までない。
顔合わせで無理やり休みを重ねて、次は10月。
ちょっと、ゆっくりしたいんだけどな。
10月7日。
この日しかない。
予約完了
【相談予約完了】
撮影相談
10月7日 11時
カレンダーに「フォト相談」と入力した。
式はしない。
でも、写真は残す。
春へ向かうその道の途中に、また寄る場所が増えるのだろうか。
4
10月7日。
久しぶりに、ふたりそろって休みだった。
本当なら、何も予定を入れずに家でゆっくりしていたいところだけど、今日はフォトウェディングの相談予約を入れている。
「相談だけですからね」
玄関で靴を履きながら、私は念を押すように言った。
「分かってる」
恒一さんは、いつものように短く答える。
でも、その顔はあまり分かっていない気がする。
「見るだけです」
「うん」
「見るだけで、決めないですからね」
「うん」
返事はちゃんとしてくれる。
けれど、私よりずっと落ち着いていて、もう決めてもいいと思っているようにも見えた。
相談に行くのは、横浜にあるフォトスタジオだった。
駅から歩いて少しの場所にあるビルの中で、白を基調にした入口には、ウェディングドレスを着たモデルの写真が飾られている。
それを見ただけで、私は少し足が止まった。
「どうした」
「いえ……」
「急に、現実味が」
恒一さんは、私の横に立って、その写真を見た。
「綺麗だな」
「モデルさんですから」
「ひよも似合う」
「まだ着てません」
「着れば似合う」
いつもの調子で言われて、私は返す言葉をなくした。
受付で名前を伝えると、奥の相談スペースに案内された。
テーブルには、分厚いアルバムが何冊も置かれている。
白いドレス、白無垢、色打掛。
画面で見るのとは違って、紙のアルバムに並ぶ写真は、妙に迫力があった。
スタッフの女性が、にこやかに説明してくれる。
「挙式はされず、お写真だけを残される方も最近は多いですよ」
「洋装のみ、和装のみ、あとは和装と洋装の両方のプランもございます」
そう言って、料金表を広げてくれた。
私は、思わず少し背筋を伸ばす。
数字というものは、夢を一瞬で現実に引き戻す力がある。
「衣装代、ヘアメイク、撮影料、データ……」
「アルバムは別なんですね」
「プランによって含まれるものが違いますので、ご希望に合わせてご案内できます」
なるほど。
恵美の言った通りだ。
写真だけと言いながら、写真だけでは済まない。
スタッフの女性は、私たちの様子を見ながら、今度は衣装のカタログを開いた。
「まずは、どんな雰囲気がお好きか見ていただいてもいいですよ」
「実際の衣装も、少しご覧になりますか?」
その言葉に、私は反射的に恒一さんを見た。
「見るだけです」
「分かってる」
いや、わかっていない。
衣装室へ案内されると、壁一面にドレスが並んでいた。
白いドレスが、いくつも、いくつも。
同じ白なのに、形も生地も全然違う。
胸元がすっきりしたもの。
袖のあるもの。
レースが細かいもの。
スカートがふわっと広がるもの。
見ているだけで、少し息が詰まる。
きれいすぎるものは、ドレスに負けてしまいそうで怖い。
「すごいですね……」
「うん」
恒一さんは、私の少し後ろで黙って見ていた。
仕事中の警備のように周囲を見ているわけではなく、ただ、私の反応を見ているようだった。
スタッフの女性が、一着のドレスを手に取った。
「高阪様でしたら、こちらのようなシンプルなラインもお似合いになると思います」
「首元のネックレスも素敵ですね」
ホワイトデーにもらったアクアマリン。
アクアマリンのネックレスに、自然と手が触れた。
「あ…これは、彼からの…」
「素敵ですね。撮影用のアクセサリーはこちらでもご用意がありますが、お持ち込みのものを一緒に写す方もいらっしゃいますよ」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
ウェディングドレスに合わせるには、少し細くて小さいかもしれない。
でも、彼にもらったネックレスを身につけて、その日を迎える。
少しだけ、想像できてしまった。
「和装もご覧になりますか?」
別のラックには、白無垢と色打掛が並んでいた。
白無垢は、名前の通りどこまでも白くて、ただそこにあるだけで背筋が伸びる。
色打掛は、赤や金や淡い色の刺繍が華やかで、見ているだけで目が追いつかない。
「どれがいいと思います?」
私は、つい恒一さんに聞いてしまった。
「全部」
まただ。
「だから、全部は無理です」
「似合うだろ」
「相談になってないです」
スタッフの女性が、少し笑った。
恥ずかしくなって、私はカタログに視線を落とす。
「でも……」
「もし撮るなら、ドレスだけでもいいかなと思ってました」
「白無垢も見たい」
「恒一さん」
「色打掛も」
「増やさないで」
思わずそう言うと、恒一さんは少しだけ笑った。
その顔を見て、私はまた困ってしまう。
この人は、式には強い希望がないと言う。
でも、私が婚礼衣装を着ることには、どうやらかなり興味があるらしい。
それが分かると、逃げ道が少しずつ狭くなる。
スタッフの女性が、試着だけでもできますよ、と言ってくれた。
今日は相談だけのつもりだった。
見るだけのつもりだった。
でも、目の前には、ウェディングドレスがある。
「……一着だけなら」
私が小さく言うと、恒一さんがこちらを見た。
「着るのか」
「見るだけじゃ、分からないので」
言い訳みたいに言ったのに、彼は真面目に頷いた。
「うん」
スタッフの女性が、私に似合いそうなドレスを二着ほど選んでくれる。
そのうちの一着を持って、試着室へ向かった。
カーテンの向こうで、ドレスを身体に合わせてもらう。
まだ本番ではない。
髪もいつものまま。
メイクだって普通だ。
それなのに、鏡の中の私は、少しだけ知らない人みたいだった。
スタッフの女性が、背中の仮留めを整えてくれる。
「では、外に出てみましょうか」
心臓が、やけに大きく鳴った。
カーテンを開けると、恒一さんがこちらを向いた。
その瞬間、彼の表情が止まった。
ほんの一瞬。
でも、確かに止まった。
「……変、ですか?」
自分でも、変なことを聞いたと思う。
恒一さんは、ゆっくり首を振った。
「綺麗だ」
それだけだった。
でも、その声がいつもより少し低くて、私は鏡を見るより先に、彼の顔から目が離せなくなった。
スタッフの女性が、にこにこと少し離れたところで待っている。
私は、急に恥ずかしくなって、スカートの布を少しつまんだ。
「まだ、髪も何もしてないのに」
「関係ない」
「関係あります」
「ない」
短い言い合いなのに、胸の奥が熱くなる。
相談だけのつもりだった。
見るだけのつもりだった。
でも、ドレスを着た私を見て、恒一さんがそんな顔をするから。
写真だけでも。
その言葉は、もうただの提案ではなくなっていた。
5
試着室で元の服に着替えると、急に現実に戻った気がした。
さっきまで身体にまとっていたドレスは、もうカーテンの向こうに戻されている。
髪もいつものまま。
メイクもいつものまま。
それなのに、鏡の中の自分が少しだけ違って見えた。
相談スペースに戻ると、スタッフの女性が改めてプラン表を広げてくれた。
「本日ご覧いただいたドレスでしたら、洋装プランでご案内できます」
「和装もご希望でしたら、別日で試着していただくこともできます」
私は、もう一度料金表を見る。
数字は、やっぱり現実だった。
「ドレスだけでも、ちゃんとした金額ですね」
思わずそう言うと、スタッフの女性は少し笑った。
「お写真だけでも、衣装やヘアメイクが入りますので」
「ただ、挙式や披露宴よりは、ぐっとご負担は少ないと思います」
それは、たぶん本当だ。
けれど、私たちにとっては、決して小さな金額ではない。
隣に座る恒一さんを見ると、彼はプラン表を真面目に見ていた。
「和装は、今日は見ないのか?」
「見たら、また迷うから……」
「迷えばいい」
「もう……簡単に言うんだから」
「決めるために来たんじゃないのか」
「話を聞きに来ただけです」
私が小さく言い返すと、恒一さんは少しだけ口元を緩めた。
「でも、撮るんだろ」
その言い方があまりにも自然で、私は返事に詰まった。
撮るんだろ。
そう言われて、もう自分の中では答えが出ていたのだと気づいた。
「……撮ります」
声に出すと、思っていたよりも簡単だった。
でも、その言葉の重さはちゃんとあった。
式はしない。
披露宴もしない。
でも、写真は残す。
今の私と、今の恒一さん。
春に向かう途中の、まだ夫婦になる前のふたりを。
「では、次回は衣装試着のご予約をお取りしましょうか」
「和装もご覧になるのでしたら、新婦様の白無垢や色打掛、それから新郎様の紋付袴も合わせてご案内できます」
新郎様。
その言葉で、私は固まった。
そうだった。
フォトウェディングは、私だけが婚礼衣装を着るわけではない。
恒一さんも、着るのだ。
タキシード。
紋付袴。
そのふたつの単語が頭に浮かんだ瞬間、さっきまで料金表で冷静になりかけていた気持ちが、また別の方向へ跳ねた。
ダークスーツでもあんなに素敵だった人が、タキシード。
あるいは、紋付袴。
だめだ。
想像だけで、だめだ。
「どうした」
恒一さんが、私を見る。
「いえ……」
「顔が赤い」
「暑いんです」
「寒いけどな?」
十月の室内で、しかも空調の効いたスタジオで。
我ながら苦しい言い訳だった。
スタッフの女性が、にこにこと微笑んでいる。
「新郎様は、洋装でしたらタキシード、和装でしたら紋付袴ですね」
「新婦様のお衣装に合わせて、お選びいただけます」
私は、恐る恐る恒一さんを見た。
「……着るんですか?」
「必要なら」
「タキシードも?」
「必要なら」
「紋付袴も?」
「必要なら」
必要なら。
そんな、作業着みたいに言わないでほしい。
こちらの心臓には、かなり必要以上の負担がかかっている。
「見たいのか?」
恒一さんが、少し低い声で聞いた。
私は、カレンダーを開いたスマホを握ったまま、小さく言った。
「……見たいです」
言ってしまった。
恒一さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
「俺も見たい」
「さっきから、そればっかり」
「本当だからな」
スタッフの女性が、あえて何も聞いていないような顔で、予約画面を操作している。
プロだ。
とてもありがたい。
「では次回は、和装も含めた衣装試着ということでお取りしておきますね」
「新婦様のお衣装を中心に、新郎様のお衣装もいくつかご覧いただけます」
新婦様。
新郎様。
呼び方がいちいち心臓に悪い。
私はスマホのカレンダーを見た。
ふたりの休みが合う日は、相変わらず少ない。
顔合わせ。
今日の相談。
次は試着。
結婚準備というものは、幸せだけど、なかなか容赦がない。
「この日なら……」
「俺も大丈夫」
恒一さんが横から言った。
「見てないのに?」
「見てる」
本当だ。
彼のスマホにも、シフトのカレンダーが開いていた。
予約を終えて、スタジオを出るころには、外の空気が少し冷えていた。
十月の夕方は、もう夏ではない。
少し前まで暑い暑いと言っていたのに、日が落ちると、風が肌に触れる。
駅へ向かう道を歩きながら、私は言った。
「本当に、写真だけでも大変ですね」
「うん」
「でも、少し楽しみになってきました」
「そうか」
「はい」
それだけ言って、私は少し笑った。
すると、恒一さんが歩く速度を少し落として、私の手を取った。
「ひよ」
「はい」
「今日のドレス、似合ってた」
また言う。
「……もう聞きました」
「足りない」
「何がですか?」
「言う回数」
そんなことを、真顔で言わないでほしい。
私は、つないだ手に少しだけ力を込めた。
「次は、和装も見るんですね」
「うん」
「また、全部似合うって言うんでしょう?」
「言う」
「相談になってないと思う……」
「見るだけでいい」
「何を?」
「ひよの花嫁姿」
風が少し冷たかった。
でも、つないだ手だけは温かい。
写真だけでも。
そう思っていたものが、いつの間にか、少し楽しみな予定になっている。
でも、問題は私のドレスだけではなかった。
タキシードの恒一さん。
紋付袴の恒一さん。
そんなものを見て、私は当日まで正気でいられるのだろうか。
春までの道の途中に、寄るかどうか迷っていた場所があった。
けれど、その場所に寄ろうと決めた。
きっとあとになって、残してよかったと思えるものになる。
そんな気がした。
ひより日和 婚約編 第7話 「写真だけでも」おわり




