表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

第8話 「毎日つけるもの」

1


夕方に、帰宅して夕ご飯の準備をする。

今日、恒一さんは遅番で、23時前の帰宅になるだろう。


恒一さんにはいつも、先に食べてろと言われる。

そんなに心配しなくても、早い時間にパンをつまむとか、小さいおにぎり1個とか。

そのくらいは、食べているんだけどな。


それよりも、一緒にご飯食べながら、その日あった出来事を話して笑ったり泣いたり、気持ちを交差させることの方が、私には価値があると思っている。


20時には、ご飯の支度も終わって、洗濯物もたたみ終わっていた。

もう少ししたら、お風呂にお湯を入れないと。


今のうちに、ママに電話しておこう。

ママたちも、ちょうどご飯が終わった頃だろう。




「ママ?ひより」


―この間は、お疲れ様

―恒一さんは?お仕事?


「うん。今日は遅いの」

「23時前に帰ってくると思う」


―あら、大変ねぇ


「うん」

「でね、写真だけは撮ろうと思うの」

「フォトウェディング」


―いいわね

―最近は、そういうのが増えてるんですってね?

―衣装は決まったの?


「まだ」

「今度のお休みに試着」

「ドレスだけでいいと思ってるんだけど。恒一さんが…」


―打掛もって?


「うん。でも、結構高いんだよね」


―いいじゃない、2着でも3着でも着れば

―挙式、披露宴よりもかかんないでしょ?


「それはそうだけど、ほんとに高いのよ」


― 一生に一回なんだから、いいじゃないの

―うちの娘なんだから、私にだってそのくらいの用意はあるわよ


「でも…」


―まぁ、いいわよ

―それは、ひよちゃんの思うようにしなさいな

―あとは…指輪かしら?


「それもあったね」

「婚約指輪って、やっぱりあった方がいいの?」


―欲しいの?

―欲しいならもらえばいいじゃない

―記念の指輪だから


「うん…私は、指輪とかよりもその後の生活とか、そっちに目がいっちゃって」


―そうねぇ、無理してまで用意してもらうものでもないかもね

―結婚指輪は、毎日つけるけど、婚約指輪は案外しまったままになるわね

―つける機会もないもの


「ママも?」


―あははは!私のはもう、小指にも怪しいわよ

―指輪はつけてないと入らなくなっちゃうのよ


「そんなもの?」


―でも、もらった時の気持ちは覚えてるの

―だから、形よりもひよちゃんが嬉しいと思うものにしたら?



形よりも、嬉しいと思うもの。

電話を切ったあと、その言葉がしばらく胸に残っていた。

婚約指輪ではなく、毎日つける結婚指輪。

その方が、今の私にはしっくりくる気がした。


2


23時前に、恒一さんが帰ってきて、先にお風呂に入ってもらっている。

その方が、ご飯をいい温度で出せるから。


夜は、冷えるようになってきたので、シチューにした。

ちょっと本格的。

お肉もブロックで買ってきたし。

朝から赤ワインのと香味野菜の中で寝ていてもらったお肉だから。

ニンジンとブロッコリーのサラダ。

これは、私が好きだから。

ビーフシチューには、バゲット?

一応、買ってはおいたけど、恒一さんはご飯のほうが好き。

炊飯器は、今日も大丈夫。


脱衣所の引き戸の音がする。




ご飯を食べながら、恒一さんに言ってみた。


「指輪なんだけど」


「うん」


ああ、お肉がおいしいのか、ちょっと待ってたほうがいいみたい。


「旨いね、これ」

「また、作って」


顔が嬉しそうで、私も嬉しくなった。


「よかった。いっぱい食べてね」

「まだ、あるから」


「うん」


こういうことがあるから、やっぱり手作りのご飯を食べてほしい。


ああ、そうだ、指輪だった。

そう思っていたら、恒一さんが言った。


「それで指輪」


聞いてたのね。


「うん。婚約指輪は、なくてもいいかなって」

「毎日つける指輪を、一緒に選びたいの」


恒一さんは、ちょっと黙ってから言った。


「本当にいいのか?」

「後悔しない?」


「はい」


「プロポーズのときに、用意してなかった」


気にしていたのね…


「あの時は…今もだけど、あなたが缶ビールのプルトップを指輪だって言ってくれたとしても」

「一生の宝物になってると思う」

「そのときの気持ちが欲しいもの」


「ひよ」


「じゃあ、結婚指輪は妥協するな」

「高いものを選べってことじゃない」


「わかってます」


「いや、わかってない顔してる」


「また顔ですか」


「値段を見て、先にあきらめるなって言ってる」



翌日はお互いに早番だったので、帰りに自宅の最寄り駅のジュエリーショップへ行った。

恒一さんは最初、大蔵屋で買えばいいと言ったけど、また騒ぎになるのが嫌だった。

サイズのこともあるので、家から近いところで探すことにした。


ショップ店員に、結婚指輪のことを言うと、すぐに笑顔になって言った。


「この度は、ご結婚おめでとうございます」

「どうぞ、こちらへ」


そう言って。ショウケースの前に案内された。


ベルベット張りのトレイの上に、細い指輪がいくつも並んだ。


店員さんが指で示しながら説明していく。


今いちばん人気のデザイン、少しひねりのあるデザイン、ダイアが多めに入ったもの。

どれも綺麗で、どれも「特別な指輪」という顔をしている。


でも、私は気づくと、小さな値札ばかり追っていた。


そして、指さした指輪は、その中でも一番値段の安いものだった。


そのとき、隣から声がした。


「それ、本当に気に入ったのか?」


「え?」


「値段見て決めてるだろ」


図星を刺されて、思わずムッとする。


「毎日つけるものだから、現実的に考えただけです」


私がそう言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。


「現実的なのと、遠慮するのは違うだろ」

「高いものを選べって言ってるんじゃない」

「ひよが本当に気に入ったものを選べと言ってる」



空気が、すっと重くなる。


店員さんが、重くなった空気を察して言った。


「もう少し、違ったタイプのものもあるんですよ」

「内側の刻印のサンプルもお持ちしますね」


そう言って、その場を退いていく。


ふたりだけになって、私は小さく言った。


「高いものを選ぶのが怖いんです」

「うれしいけど、全部お金に見えちゃって」


恒一さんが、私の頭に手を添えて、ほんの少し自分の胸に近づけて言った。


「わかるけど」

「これは、毎日つけるものだろ」

「遠慮した気持ちまで、毎日つけなくていい」


その言葉に胸の奥がきゅっとなる。



私は、もう一度トレイの上に並んだ指輪を見た。

最初に目が留まったものがある。


細すぎず、太すぎず、少しだけ丸みがあって、光を受けると柔らかく線が浮かぶ。

派手ではない。

でも、手元にあったら、きっと毎日見てしまう。

値札を見たときに、一度目を逸らしたものだった。


「これ……」


私が指先で示すと、恒一さんが静かに見た。


「それがいい?」


「はい」


「値段じゃなくて」


「毎日つけたいと思ったから」


そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、それにしよう」


店員さんが戻ってきて、指輪を私の指に通してくれた。

まだ正式なものではない。

サイズを見るためのサンプルだ。

それでも、左手の薬指に指輪があるだけで、胸の奥がふわっと熱くなった。


「きれい……」


思わずそう呟くと、恒一さんが私の手元を見て言った。


「似合う」


「指輪が?」


「ひよに」


また、そういう言い方をする。


私は、照れ隠しに彼の指輪を選ぶふりをして、メンズのトレイを見た。

シンプルなものが多い。

でも、同じデザインでも幅が少し違うだけで、印象が変わる。


「恒一さんは、こっちの方が似合いそう」


「そうか」


「はい。手が大きいから、少し幅がある方が」


そう言うと、彼は店員さんから受け取った指輪を自分の指に通した。


それを見た瞬間、私は少し黙った。


「どうした」


「……似合います」


「そうか」


「なんだか、すごく……」


言葉に詰まってしまった。

制服でも、スーツでも、家の中のTシャツ姿でも。

どの恒一さんも好きだけれど。

左手の薬指に指輪があるだけで、彼が本当に私の夫になる人なのだと、急に形になって見えた。


店員さんが、内側の刻印について説明してくれる。

日付。

名前。

イニシャル。

まだ少し先の、四月の入籍日。

その日付を入れることになるのだろうか。


「刻印は、少し考えてからでも大丈夫ですか?」


「はい。ご注文までにお決めいただければ大丈夫です」


私は小さく頷いた。


指輪は、今日すぐ持って帰れるものではない。

サイズを合わせて、刻印を決めて、出来上がりを待つ。

それが少しだけよかった。

一度に全部が決まってしまうより、春までの時間を少しずつ埋めていくみたいで。


店を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。


「ごめんなさい」


駅へ向かいながら、私は言った。


「何が」


「値段ばかり見てたこと」


「現実を見るのは悪いことじゃない」


「でも、遠慮してました」


そう言うと、恒一さんは少しだけ歩く速度を落とした。


「ひよ」


「はい」


「俺も見る」


「金のことも、生活のことも」


「でも、一緒に使うものは、一緒に選びたい」


その言葉が、胸に静かに落ちてくる。


毎日つけるもの。

毎日見るもの。

毎日、少しずつ夫婦になっていくためのもの。


「はい」


「ちゃんと、選びます」


恒一さんが、私の左手を取った。


まだ指輪はない。

けれど、さっきまでサンプルの指輪があった場所を、親指でそっとなぞる。


「届くの、楽しみだな」


「はい」


「似合ってた」


「もう聞きました」


「足りない」


その言い方に、私は思わず笑った。


まだ何もない左手の薬指が、少しだけ温かい。

そこにいつか、ふたりで選んだ指輪が来る。


婚約指輪はない。


でも、毎日つけるものを、ふたりで選んだ。

それが今の私には、いちばん嬉しい気がした。


3


ジュエリーショップを出て、外食して帰ることにした。


ひよりも、疲れているのだと思う。

何をするにも、シフトに阻まれる。

そのせいで、無理をしているのではないかと思う。


その上、彼女は俺の食事のことまで考えている。

そこまでしなくていいと言っても、そこは譲れないようだ。


外から帰ってきてから、指輪の注文書をいつまでも見ている。

紙一枚なのに、これからの全部がここに詰まっているみたいで、妙に重たい。


今日の彼女の様子は、最初から見ていた。

あのベルベットのトレイが出てきたときから、指輪より先に、値札に目が吸い寄せられていたのも多分無意識なのだろう。

ああいうところが、彼女にはある。


欲しいものよりも先に、相手にかかる負担を計算してしまうところ。

それが悪いとは思わない。

むしろ、これから一緒に生きていくには、大事な感覚だ。


ただ…結婚指輪まで、それで選ばれるのは嫌だった。


毎日つけるものを「これくらいなら負担にならないから」とか「申し訳ないからこの辺で」とか、そんな理由で決めてほしくない。

俺と一緒にいる未来を考えてくれるのと同じくらい、ただ、まっすぐに「欲しい」と思った物を選んでほしかった。


注文書に書かれた品番と、彼女の指にはめたときの表情を思い出す。

さっき、あの顔を見られたから、きっと大丈夫だとわかっているのに。


それでも…やっぱり、プロポーズのときに指輪を用意しておくべきだったのではないか。


本当は、最初から気になっていた。

あの日、プロポーズのとき。


あの時は、言葉を口に出すだけで精いっぱいだった。

これ以上、何かの段取りを考える余裕がなかった。

それを後悔しているわけじゃない。

あの日の俺には、あれが限界だったし、彼女も笑って受け止めてくれた。


それでも、何ひとつ「形になるもの」を残してやれなかったことが、どこかでずっと引っかかっている。


彼女は、婚約指輪がなかったことについて、何もわだかまりはないという。


「缶ビールのプルトップを指輪だって言って渡してくれていても、それは一生の宝物」


本気の顔で、そんなことを言う。

たぶん、彼女は本当にそう思っている。

そこが困るところだ。


何でもないものにも意味を見つけて、大事にしてしまう人だからこそ、適当なもので済ませたくない。


だから今日、彼女に「ちゃんと自分の欲しいと思う指輪を選んでほしい」と言わずにはいられなかった。

あの時、渡せなかった分まで。


これから先、彼女の左手に残るものくらいは、胸を張って「ちゃんとしたものだ」と言えるようにしてやりたかった。


いや、違う。

してやりたい、ではない。

俺が、そうしたいのだ。


洗面所の方から水音が止まった。


少しして、ドアが開く音がする。


風呂上がりのひよりが、タオルで髪を押さえながらダイニングへ来た。


「まだ見てるんですか?」


「ああ」


「指輪、まだ届きませんよ」


「わかってる」


そう言いながら、俺はテーブルに置いていた注文書を少し寄せた。


ひよりは不思議そうな顔で、隣の椅子に座る。


俺は、彼女の左手を取った。

薬指には、まだ何もない。

けれど、今日、あの店で見た。

その指に、指輪が通ったところを。


「届いたら、毎日つけろ」


「はい」


「遠慮したら外す」


「外さないでください」


ひよりが少し笑った。

その指に、まだない指輪の場所を確かめるように、親指を滑らせる。


細い指だ。

仕事で何度も頭を下げて、荷物を持って、家では米を研ぎ、俺のシャツにアイロンをかける手。

その手に、俺との指輪が来る。


「恒一さん?」


「楽しみだな」


そう言うと、ひよりは少し驚いた顔をした。

それから、嬉しそうに目を細める。


「はい」


まだ何もない。


けれど、ここに来るものは決まっている。

毎日つけるもの。

毎日、彼女が俺の隣にいることを思い出すもの。


そう思ってから、自分で少しだけ苦笑した。

たぶん、待っているのは俺の方だ。


4


今日は、なんだか左手が気になって仕方がない。

仕事中だというのに、右手で左手の薬指を触っていたり、じっと見ていたり。

昨日の、指輪の感触と恒一さんが触れた左手が、まだ残っているようで。

まだ、指輪はないのに。


隣から、恵美が言った。


「今度は左手なの?」

「朝から何回見てんのよ」


「あ…なんか、つい…」

「昨日、結婚指輪を選んだの」


恵美が、にっこり笑って言った。


「よかったじゃない」

「気に入ったのが見つかったのね」


「うん」

「彼は、婚約指輪も考えていてくれてたんだけどね」

「母と電話で話してたら、いらないかなって思っちゃって」


恵美も頷いて言った。


「あたしも婚約指輪はいらないかも」

「つける機会が、あるのかなって思うよ」

「でも、朝倉さんは気にしてたんじゃない?」


「そうなの。だから…」

「プルトップでも指輪だと言って私にくれたら、大事にするって言ったんだけどなぁ」


恵美は、半眼になって言った。


「重い。重いわ、それ」


「え?そう?」


「朝倉さんは、嬉しかったでしょうけどね」


「そう?そうかな。そうだといいな」


恵美は、ずっと半眼のままだった。



向こうから、黒い制服がこちらに来るのが見えた。

長身と分厚い肩のラインで、遠くからでも彼だとすぐにわかる。


インフォメーションカウンターの前で立ち止まり、私を見て言った。


「変わりはない?」


「はい」


そして、彼も私の左手を見る。

指輪はまだないのに。


横に立つ恵美の耳はたぶん巨大化している。

かすかな物音さえ聞き逃さない顔をしていた。


「まだありませんよ」


「わかってる」


「じゃあ、見ないでください」


「似合ってたから」


まだ、何もない左手の薬指が、春を待つ場所になった。




ひより日和 婚約編 第8話 「毎日つけるもの」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ