第8話 「毎日つけるもの」
1
夕方に、帰宅して夕ご飯の準備をする。
今日、恒一さんは遅番で、23時前の帰宅になるだろう。
恒一さんにはいつも、先に食べてろと言われる。
そんなに心配しなくても、早い時間にパンをつまむとか、小さいおにぎり1個とか。
そのくらいは、食べているんだけどな。
それよりも、一緒にご飯食べながら、その日あった出来事を話して笑ったり泣いたり、気持ちを交差させることの方が、私には価値があると思っている。
20時には、ご飯の支度も終わって、洗濯物もたたみ終わっていた。
もう少ししたら、お風呂にお湯を入れないと。
今のうちに、ママに電話しておこう。
ママたちも、ちょうどご飯が終わった頃だろう。
「ママ?ひより」
―この間は、お疲れ様
―恒一さんは?お仕事?
「うん。今日は遅いの」
「23時前に帰ってくると思う」
―あら、大変ねぇ
「うん」
「でね、写真だけは撮ろうと思うの」
「フォトウェディング」
―いいわね
―最近は、そういうのが増えてるんですってね?
―衣装は決まったの?
「まだ」
「今度のお休みに試着」
「ドレスだけでいいと思ってるんだけど。恒一さんが…」
―打掛もって?
「うん。でも、結構高いんだよね」
―いいじゃない、2着でも3着でも着れば
―挙式、披露宴よりもかかんないでしょ?
「それはそうだけど、ほんとに高いのよ」
― 一生に一回なんだから、いいじゃないの
―うちの娘なんだから、私にだってそのくらいの用意はあるわよ
「でも…」
―まぁ、いいわよ
―それは、ひよちゃんの思うようにしなさいな
―あとは…指輪かしら?
「それもあったね」
「婚約指輪って、やっぱりあった方がいいの?」
―欲しいの?
―欲しいならもらえばいいじゃない
―記念の指輪だから
「うん…私は、指輪とかよりもその後の生活とか、そっちに目がいっちゃって」
―そうねぇ、無理してまで用意してもらうものでもないかもね
―結婚指輪は、毎日つけるけど、婚約指輪は案外しまったままになるわね
―つける機会もないもの
「ママも?」
―あははは!私のはもう、小指にも怪しいわよ
―指輪はつけてないと入らなくなっちゃうのよ
「そんなもの?」
―でも、もらった時の気持ちは覚えてるの
―だから、形よりもひよちゃんが嬉しいと思うものにしたら?
形よりも、嬉しいと思うもの。
電話を切ったあと、その言葉がしばらく胸に残っていた。
婚約指輪ではなく、毎日つける結婚指輪。
その方が、今の私にはしっくりくる気がした。
2
23時前に、恒一さんが帰ってきて、先にお風呂に入ってもらっている。
その方が、ご飯をいい温度で出せるから。
夜は、冷えるようになってきたので、シチューにした。
ちょっと本格的。
お肉もブロックで買ってきたし。
朝から赤ワインのと香味野菜の中で寝ていてもらったお肉だから。
ニンジンとブロッコリーのサラダ。
これは、私が好きだから。
ビーフシチューには、バゲット?
一応、買ってはおいたけど、恒一さんはご飯のほうが好き。
炊飯器は、今日も大丈夫。
脱衣所の引き戸の音がする。
ご飯を食べながら、恒一さんに言ってみた。
「指輪なんだけど」
「うん」
ああ、お肉がおいしいのか、ちょっと待ってたほうがいいみたい。
「旨いね、これ」
「また、作って」
顔が嬉しそうで、私も嬉しくなった。
「よかった。いっぱい食べてね」
「まだ、あるから」
「うん」
こういうことがあるから、やっぱり手作りのご飯を食べてほしい。
ああ、そうだ、指輪だった。
そう思っていたら、恒一さんが言った。
「それで指輪」
聞いてたのね。
「うん。婚約指輪は、なくてもいいかなって」
「毎日つける指輪を、一緒に選びたいの」
恒一さんは、ちょっと黙ってから言った。
「本当にいいのか?」
「後悔しない?」
「はい」
「プロポーズのときに、用意してなかった」
気にしていたのね…
「あの時は…今もだけど、あなたが缶ビールのプルトップを指輪だって言ってくれたとしても」
「一生の宝物になってると思う」
「そのときの気持ちが欲しいもの」
「ひよ」
「じゃあ、結婚指輪は妥協するな」
「高いものを選べってことじゃない」
「わかってます」
「いや、わかってない顔してる」
「また顔ですか」
「値段を見て、先にあきらめるなって言ってる」
翌日はお互いに早番だったので、帰りに自宅の最寄り駅のジュエリーショップへ行った。
恒一さんは最初、大蔵屋で買えばいいと言ったけど、また騒ぎになるのが嫌だった。
サイズのこともあるので、家から近いところで探すことにした。
ショップ店員に、結婚指輪のことを言うと、すぐに笑顔になって言った。
「この度は、ご結婚おめでとうございます」
「どうぞ、こちらへ」
そう言って。ショウケースの前に案内された。
ベルベット張りのトレイの上に、細い指輪がいくつも並んだ。
店員さんが指で示しながら説明していく。
今いちばん人気のデザイン、少しひねりのあるデザイン、ダイアが多めに入ったもの。
どれも綺麗で、どれも「特別な指輪」という顔をしている。
でも、私は気づくと、小さな値札ばかり追っていた。
そして、指さした指輪は、その中でも一番値段の安いものだった。
そのとき、隣から声がした。
「それ、本当に気に入ったのか?」
「え?」
「値段見て決めてるだろ」
図星を刺されて、思わずムッとする。
「毎日つけるものだから、現実的に考えただけです」
私がそう言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。
「現実的なのと、遠慮するのは違うだろ」
「高いものを選べって言ってるんじゃない」
「ひよが本当に気に入ったものを選べと言ってる」
空気が、すっと重くなる。
店員さんが、重くなった空気を察して言った。
「もう少し、違ったタイプのものもあるんですよ」
「内側の刻印のサンプルもお持ちしますね」
そう言って、その場を退いていく。
ふたりだけになって、私は小さく言った。
「高いものを選ぶのが怖いんです」
「うれしいけど、全部お金に見えちゃって」
恒一さんが、私の頭に手を添えて、ほんの少し自分の胸に近づけて言った。
「わかるけど」
「これは、毎日つけるものだろ」
「遠慮した気持ちまで、毎日つけなくていい」
その言葉に胸の奥がきゅっとなる。
私は、もう一度トレイの上に並んだ指輪を見た。
最初に目が留まったものがある。
細すぎず、太すぎず、少しだけ丸みがあって、光を受けると柔らかく線が浮かぶ。
派手ではない。
でも、手元にあったら、きっと毎日見てしまう。
値札を見たときに、一度目を逸らしたものだった。
「これ……」
私が指先で示すと、恒一さんが静かに見た。
「それがいい?」
「はい」
「値段じゃなくて」
「毎日つけたいと思ったから」
そう言うと、彼は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、それにしよう」
店員さんが戻ってきて、指輪を私の指に通してくれた。
まだ正式なものではない。
サイズを見るためのサンプルだ。
それでも、左手の薬指に指輪があるだけで、胸の奥がふわっと熱くなった。
「きれい……」
思わずそう呟くと、恒一さんが私の手元を見て言った。
「似合う」
「指輪が?」
「ひよに」
また、そういう言い方をする。
私は、照れ隠しに彼の指輪を選ぶふりをして、メンズのトレイを見た。
シンプルなものが多い。
でも、同じデザインでも幅が少し違うだけで、印象が変わる。
「恒一さんは、こっちの方が似合いそう」
「そうか」
「はい。手が大きいから、少し幅がある方が」
そう言うと、彼は店員さんから受け取った指輪を自分の指に通した。
それを見た瞬間、私は少し黙った。
「どうした」
「……似合います」
「そうか」
「なんだか、すごく……」
言葉に詰まってしまった。
制服でも、スーツでも、家の中のTシャツ姿でも。
どの恒一さんも好きだけれど。
左手の薬指に指輪があるだけで、彼が本当に私の夫になる人なのだと、急に形になって見えた。
店員さんが、内側の刻印について説明してくれる。
日付。
名前。
イニシャル。
まだ少し先の、四月の入籍日。
その日付を入れることになるのだろうか。
「刻印は、少し考えてからでも大丈夫ですか?」
「はい。ご注文までにお決めいただければ大丈夫です」
私は小さく頷いた。
指輪は、今日すぐ持って帰れるものではない。
サイズを合わせて、刻印を決めて、出来上がりを待つ。
それが少しだけよかった。
一度に全部が決まってしまうより、春までの時間を少しずつ埋めていくみたいで。
店を出るころには、外はすっかり暗くなっていた。
「ごめんなさい」
駅へ向かいながら、私は言った。
「何が」
「値段ばかり見てたこと」
「現実を見るのは悪いことじゃない」
「でも、遠慮してました」
そう言うと、恒一さんは少しだけ歩く速度を落とした。
「ひよ」
「はい」
「俺も見る」
「金のことも、生活のことも」
「でも、一緒に使うものは、一緒に選びたい」
その言葉が、胸に静かに落ちてくる。
毎日つけるもの。
毎日見るもの。
毎日、少しずつ夫婦になっていくためのもの。
「はい」
「ちゃんと、選びます」
恒一さんが、私の左手を取った。
まだ指輪はない。
けれど、さっきまでサンプルの指輪があった場所を、親指でそっとなぞる。
「届くの、楽しみだな」
「はい」
「似合ってた」
「もう聞きました」
「足りない」
その言い方に、私は思わず笑った。
まだ何もない左手の薬指が、少しだけ温かい。
そこにいつか、ふたりで選んだ指輪が来る。
婚約指輪はない。
でも、毎日つけるものを、ふたりで選んだ。
それが今の私には、いちばん嬉しい気がした。
3
ジュエリーショップを出て、外食して帰ることにした。
ひよりも、疲れているのだと思う。
何をするにも、シフトに阻まれる。
そのせいで、無理をしているのではないかと思う。
その上、彼女は俺の食事のことまで考えている。
そこまでしなくていいと言っても、そこは譲れないようだ。
外から帰ってきてから、指輪の注文書をいつまでも見ている。
紙一枚なのに、これからの全部がここに詰まっているみたいで、妙に重たい。
今日の彼女の様子は、最初から見ていた。
あのベルベットのトレイが出てきたときから、指輪より先に、値札に目が吸い寄せられていたのも多分無意識なのだろう。
ああいうところが、彼女にはある。
欲しいものよりも先に、相手にかかる負担を計算してしまうところ。
それが悪いとは思わない。
むしろ、これから一緒に生きていくには、大事な感覚だ。
ただ…結婚指輪まで、それで選ばれるのは嫌だった。
毎日つけるものを「これくらいなら負担にならないから」とか「申し訳ないからこの辺で」とか、そんな理由で決めてほしくない。
俺と一緒にいる未来を考えてくれるのと同じくらい、ただ、まっすぐに「欲しい」と思った物を選んでほしかった。
注文書に書かれた品番と、彼女の指にはめたときの表情を思い出す。
さっき、あの顔を見られたから、きっと大丈夫だとわかっているのに。
それでも…やっぱり、プロポーズのときに指輪を用意しておくべきだったのではないか。
本当は、最初から気になっていた。
あの日、プロポーズのとき。
あの時は、言葉を口に出すだけで精いっぱいだった。
これ以上、何かの段取りを考える余裕がなかった。
それを後悔しているわけじゃない。
あの日の俺には、あれが限界だったし、彼女も笑って受け止めてくれた。
それでも、何ひとつ「形になるもの」を残してやれなかったことが、どこかでずっと引っかかっている。
彼女は、婚約指輪がなかったことについて、何もわだかまりはないという。
「缶ビールのプルトップを指輪だって言って渡してくれていても、それは一生の宝物」
本気の顔で、そんなことを言う。
たぶん、彼女は本当にそう思っている。
そこが困るところだ。
何でもないものにも意味を見つけて、大事にしてしまう人だからこそ、適当なもので済ませたくない。
だから今日、彼女に「ちゃんと自分の欲しいと思う指輪を選んでほしい」と言わずにはいられなかった。
あの時、渡せなかった分まで。
これから先、彼女の左手に残るものくらいは、胸を張って「ちゃんとしたものだ」と言えるようにしてやりたかった。
いや、違う。
してやりたい、ではない。
俺が、そうしたいのだ。
洗面所の方から水音が止まった。
少しして、ドアが開く音がする。
風呂上がりのひよりが、タオルで髪を押さえながらダイニングへ来た。
「まだ見てるんですか?」
「ああ」
「指輪、まだ届きませんよ」
「わかってる」
そう言いながら、俺はテーブルに置いていた注文書を少し寄せた。
ひよりは不思議そうな顔で、隣の椅子に座る。
俺は、彼女の左手を取った。
薬指には、まだ何もない。
けれど、今日、あの店で見た。
その指に、指輪が通ったところを。
「届いたら、毎日つけろ」
「はい」
「遠慮したら外す」
「外さないでください」
ひよりが少し笑った。
その指に、まだない指輪の場所を確かめるように、親指を滑らせる。
細い指だ。
仕事で何度も頭を下げて、荷物を持って、家では米を研ぎ、俺のシャツにアイロンをかける手。
その手に、俺との指輪が来る。
「恒一さん?」
「楽しみだな」
そう言うと、ひよりは少し驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに目を細める。
「はい」
まだ何もない。
けれど、ここに来るものは決まっている。
毎日つけるもの。
毎日、彼女が俺の隣にいることを思い出すもの。
そう思ってから、自分で少しだけ苦笑した。
たぶん、待っているのは俺の方だ。
4
今日は、なんだか左手が気になって仕方がない。
仕事中だというのに、右手で左手の薬指を触っていたり、じっと見ていたり。
昨日の、指輪の感触と恒一さんが触れた左手が、まだ残っているようで。
まだ、指輪はないのに。
隣から、恵美が言った。
「今度は左手なの?」
「朝から何回見てんのよ」
「あ…なんか、つい…」
「昨日、結婚指輪を選んだの」
恵美が、にっこり笑って言った。
「よかったじゃない」
「気に入ったのが見つかったのね」
「うん」
「彼は、婚約指輪も考えていてくれてたんだけどね」
「母と電話で話してたら、いらないかなって思っちゃって」
恵美も頷いて言った。
「あたしも婚約指輪はいらないかも」
「つける機会が、あるのかなって思うよ」
「でも、朝倉さんは気にしてたんじゃない?」
「そうなの。だから…」
「プルトップでも指輪だと言って私にくれたら、大事にするって言ったんだけどなぁ」
恵美は、半眼になって言った。
「重い。重いわ、それ」
「え?そう?」
「朝倉さんは、嬉しかったでしょうけどね」
「そう?そうかな。そうだといいな」
恵美は、ずっと半眼のままだった。
向こうから、黒い制服がこちらに来るのが見えた。
長身と分厚い肩のラインで、遠くからでも彼だとすぐにわかる。
インフォメーションカウンターの前で立ち止まり、私を見て言った。
「変わりはない?」
「はい」
そして、彼も私の左手を見る。
指輪はまだないのに。
横に立つ恵美の耳はたぶん巨大化している。
かすかな物音さえ聞き逃さない顔をしていた。
「まだありませんよ」
「わかってる」
「じゃあ、見ないでください」
「似合ってたから」
まだ、何もない左手の薬指が、春を待つ場所になった。
ひより日和 婚約編 第8話 「毎日つけるもの」 おわり




