第6話 「はじめましての日」
1
9月14日。
あっという間に、この日はやってきた。
化粧を済ませて、着替える。
大事なアクアマリンのネックレスは、私の首元で光っている。
2時間前には家を出ようと決めていた。
9月の半ばでも、外はまだ夏と変わらず暑い。
もう、今から緊張で、手が冷たい。
寝室から出て、ダイニングへ行くと、彼もリビングから出てきた。
ダークスーツに淡いシルバーのタイを締めた恒一さんは、絵の中から出てきたように素敵だった。
広い肩幅に沿って落ちるジャケットのラインが、彼の体格の良さをそのまま形にしている。
私は、両手で口元を押さえて、小さく声が出た。
「素敵……」
「いつも素敵だけど、今日は特別です」
あなたは、本当に私でいいんですか?と言ってしまいそうになった。
恒一さんも、私を見て言った。
「あぁ……綺麗だ」
そんなはずはないと思うけれど、今日だけはそう思いたい。
「もう、出られる?」
「はい」
胸が高鳴って、小さい声しか出せなかった。
品川駅を出て、高輪側へ向かう。
道を渡って、柘榴坂を登る。
多分気温は、夏日だろう。
長袖では、汗が滲む。
恒一さんは、ジャケットを手に持っていた。
「暑いな」
「大丈夫か?」
「はい」
そう答えたものの、暑いのか、緊張なのか、もう分からなくなっている。
柘榴坂が緩い坂ではないことも、緊張に拍車をかけている気がする。
正面玄関から一歩ロビーに足を踏み入れると、外の熱気が嘘みたいにすっと遠ざかった。
彼はジャケットに袖を通した。
それだけで、さっきまで隣を歩いていた恋人から、これから両親の前に立つ“婚約者”に変わったように見えた。
茶を基調としたロビーは重厚感があり、高い天井と大きな窓の向こうには、庭の緑が切り取られていた。
ロビーの奥にあるソファの近くで、母がこちらに気づいた。
「ひよちゃん」
そう呼ばれて、胸がきゅっとした。
今日は彼の婚約者としてここに来たはずなのに、母の声を聞いた瞬間、私は娘に戻る。
彼とふたり、両親の座るソファの前まで進んで、私は彼を見上げた。
「朝倉恒一です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ふたりで頭を下げると、父も表情は堅かったけれど、立ち上がって言った。
「こちらこそ。暑い中、大変でしたね」
「初めまして。高阪誠司です」
「こちらは妻の由紀子。ひよりの母です」
そう言って、右手を差し出した。
恒一さんも、躊躇うことなく右手を出して、握手をしていた。
私がふぅっと小さく息を吐いた時、客室用のエレベーターのある方から、声がした。
「……お兄ちゃん」
恒一さんは一瞬眉を寄せて、近づいてくる女性に小声で言った。
「声が大きい」
「普通に呼んだだけ」
そう言ってから、その人は私を見ると、すぐに背筋を伸ばした。
「はじめまして。妹の美咲です」
きちんと頭を下げたあと、少しだけ表情を緩める。
「お会いできるの、楽しみにしていました」
「うるさかった」
「お兄ちゃんが、何も教えてくれないからでしょ」
美咲さんは小さく言い返した。
そのやりとりが少しおかしくて、私は緊張していた肩の力がほんの少し抜けた。
一方、母は私のそばまで来て、小さな声で言った。
「素敵な人じゃないの」
私は、返事の代わりに小さく頷いた。
美咲さんの後ろから、ゆっくり歩いてくる背の高い男性と、穏やかな笑みを浮かべた女性。
恒一さんのご両親に違いない。
背が高い。
恒一さんが歳を取れば、こんな感じだろうと思わせる人だった。
隣を歩く女性は、柔らかな雰囲気で、こちらを見て微笑んでいる。
美咲さんが、もう一度私を見た。
「あの……ひよりさん」
「想像していたより、ずっと可愛い方で」
そう言ってから、美咲さんは少し慌てたように口元を押さえた。
「すみません。初対面で変なこと言いました」
「いえ……ありがとうございます」
私がそう答えると、恒一さんが低い声で言った。
「美咲。落ち着け」
「落ち着いてる」
「どこがだ」
その声は少し呆れていたけれど、嫌そうではなかった。
後ろから来た朝倉さんのお母さんが、美咲さんに言った。
「美咲、失礼よ。こんなところで」
「ごめんなさい」
美咲さんは素直に頭を下げた。
朝倉さんのお父さんは、私の父のところへ行って、挨拶していた。
「恒一の父、朝倉修一です」
「こちらは家内の和子です」
「お会いできるのを楽しみにしていました」
押し出しのいい声だった。
「わざわざ遠いところをお越しくださって、こちらこそ恐縮です」
「高阪誠二です」
父はそう言って、母を紹介し、握手をしていた。
係の人が近づいてきて、予約名を確認する。
「朝倉様でご予約いただいております」
そう言われて、私は少しだけ背筋が伸びた。
朝倉様。
まだ私の名前ではない。
でも、いつか私もそう呼ばれるのだと思うと、胸の奥がふわっと熱くなった。
2
「こちらのお部屋でございます」
小さな前室を抜けると、障子戸の個室があった。
そこを開けると、低めのテーブルと座椅子が並ぶ和モダンな部屋が現れる。
8人用のテーブルだ。
ここまで来て、今更ながら席順が気になった。
だが、レストランのスタッフは、心得ているようで迷いがなかった。
両親を上座に、彼と私を入り口側の両親の向かい側の席へ案内し席に着いた。
美咲さんは、恒一さんの隣だ。
視線のやり場に困って、私は目の前の箸袋の文字を必要以上に見つめていた。
すると、隣に座る恒一さんの落ち着いた声が、沈黙を破った。
「あの…」
「今日は、お忙しいところ集まっていただいて、ありがとうございます」
「本当であれば、一緒に暮らし始める前にご挨拶に伺うべきでした」
「今日まで、きちんとした場を作れず、申し訳ありませんでした」
「遅くなりましたが、改めて、よろしくお願いします」
短くはっきりとした口調で締めくくられた。
私の父が「うん」と頷いて、言った。
「娘からは聞いていました」
「今日、こうしてお会いできてよかったです」
母が続ける。
「お電話でもご丁寧に…ね?」
「言っていただきましたから」
そう言って微笑んだ。
恒一さんのお父さんが、次に続いて言った。
「当初は、結納のことも、一度は考えましたが…」
「ひよりさんのお母様からは、顔合わせの食事会で十分だとお聞きしましてね」
「こうして、皆さんとテーブルを囲めて、私もほっとしております」
私の母が答える。
「お気持ちだけで、十分ありがたいことだと思っております」
話が、一段落ついたところで、飲み物が届いた。
最初は、レストランスタッフが皆に注いでくれた。
スタッフが引き揚げ、恒一さんのお父さんが「では…」と落ち着いた声で言った。
「差し出がましいようですが、新郎側の父親として音頭を取らせていただきます」
「今日は、堅苦しくなりすぎず、ふたりの話を聞かせてもらえればと思います」
「ふたりの幸せを願って」
「乾杯」
皆でグラスを上げた。
グラスが小さく振れ合う音がして、ようやく顔合わせが始まった気がした。
3
乾杯の後、運ばれてくる料理に合わせて、少しずつ会話も増えていった。最初は皆、箸をつけるタイミングをうかがっていたのに。
恵美が言っていた通りになったと、あとになって思った。
彼のお母さんが「こういう場所は久しぶりで緊張しちゃって」と笑ったあたりから、空気がふっと和らいだ。
父は、彼の仕事の話を熱心に聞いていたし、母はお義母さんと、私が子供のころの話で盛り上がっていた。
料理が少し進んだころ、恒一さんが改めて背筋を伸ばした。
「入籍は、来年の四月を考えています」
その言葉に、胸がまた少し高鳴る。春。桜のころ。
その話は、もう私たちだけのものではない。
「それで、婚姻届の保証人ですが」
「できれば、両家のお父様にお願いしたいと思っています」
父が、少し驚いたように私を見た。朝倉さんのお父さんも、静かに恒一さんを見ている。
「まだ提出は先ですが」
「今日お願いできればと思って、持ってきました」
え。持ってきていたんですか。
そんな顔をしていたのだと思う。恒一さんは、私を見て小さく言った。
「機会が少ないだろ」
確かにそうだ。
両家の父が、同じ席にそろうことなんて、これから何度もあるとは限らない。
父は少しだけ目元を緩めて、言った。
「私でよければ」
朝倉さんのお父さんも、頷いた。
「もちろんです」
恒一さんが、丁寧に折れないようにしていた婚姻届を出した。
まだ、私たちの欄はすべて埋まっているわけではない。
でも、保証人欄に、父の名前と、朝倉さんのお父さんの名前が並んでいく。
高阪誠司。
朝倉修一。
同じ紙の上に、ふたつの家の名前が並んだ。
それを見ていたら、急に息が詰まった。
これは、ただの書類ではないのだと思った。
私たちが家族になることを、父たちが見届けてくれている証なのだ。
最後に出された甘味を食べ終えるころには、最初に胸を締め付けていた硬さはもうどこにもなかった。
ただ、これからのことを一緒に話していける人たちが同じテーブルを囲んでいる。
そのことを、実感した。
14時過ぎに、ホテルのロビーで解散となった。
朝倉さんのご両親と美咲さんは、このまま少し休んでから、夕方までホテルで過ごすらしい。
私の両親は横浜へ帰ると言って、何度も頭を下げていた。
母は、最後に私のそばへ来て、小さな声で言った。
「よかったわね、ひよちゃん」
それだけで、また泣きそうになった。
父は、恒一さんともう一度握手をしていた。さっきより、少しだけ表情が柔らかい気がした。
柘榴坂を下りながら、品川駅に向かった。
「終わりましたね」
「うん」
「私、ちゃんとできてましたか?」
「うん」
「ほんとに?」
恒一さんが、ぽつりと言った。
「ひよちゃん」
私は、吹き出しそうになるのを堪えた。
「ひよ」
「かわいいな」
ぼそっと言う恒一さん。
「お義母さんは、ずっと、ひよちゃん?」
私は、笑って言った。
「母には、あまり“ひより”って呼ばれたことないんです」
「母の中では、私の名前がもう“ひよちゃん”になってる感じ」
「俺も“ひよ”って呼んでいい?」
「え」
「ひよ」
恒一さんが、呼んだ。
「はい……なんですか?恒一さん?」
「早く帰ろう。俺たちの家へ」
4
玄関の鍵を閉めて、中へ入った。
いつもと同じ部屋のはずなのに、今日はどこか違う気がした。
朝、ここを出る時は、まだ顔合わせの前だった。
でも今は、両親にも、彼の家族にも会って、婚姻届の保証人欄には父たちの名前が並んでいる。
同じ部屋に帰ってきたのに、私たちは少しだけ先へ進んだ気がした。
彼がタイを少し緩めて、リビングのロウソファにどさっと腰を下ろした。
その隣に、私も少し脱力したように腰を落とした。
クッションが沈んで、隣り合った腕が密着する。
「おつかれさま」
隣から、低い声が落ちてくる。
「……おつかれさま」
声が、掠れていた。
それだけ、緊張していたんだろうか。
「今日のあなたは、ほんとに素敵でした」
「ひよも、綺麗だった」
胸の奥が、ふわっと熱くなる。朝から何度も緊張して、何度も息を詰めていたのに、その一言で全部ほどけてしまいそうになる。
「朝も、言ってくれました」
「言い足りなかった」
そう言いながら、恒一さんは私の頬に触れた。
外を歩いた時の熱はもう消えていて、指先は少し冷たい。
けれど、その手に包まれると、私の方が熱くなっていく。
「ずっと、隣にいてくれたから、ちゃんと話せた」
「私は、立っていただけです」
「それでいい」
彼の親指が、私の頬をゆっくり撫でる。
「これからも、ずっと……」
唇が触れそうになる。
「……うん。一緒に……」
私が言い終わる前に、唇が触れた。
リビングの時計の秒針の音が、遠くに聞こえる。
朝から張りつめていた体の力が、少しずつ抜けていく。
離れた唇が、もう一度重なる。
今度はさっきより少し長い。
私は、彼のジャケットの袖をそっと掴んだ。
まだ着替えていないスーツの布地は少し硬くて、いつもの部屋着の彼とは違う。
けれど、その硬さが今日一日のことを思い出させて、胸がまた熱くなった。
「……着替えないと」
そう言ったのに、恒一さんは私を離さなかった。
「あとでいい」
低い声でそう言われて、私は返事の代わりに、彼のシャツをそっと掴んだ。
はじめましての日は、終わった。
でも、私たちが家族になる日は、ここから始まっていくのだと思った。
エピローグ
昨日の緊張が解けたら、今日からまた仕事だ。
インフォメーションカウンターに立つ私に、恵美は目ざとく何かを察知したかのように聞いた。
「終わったのね」
「ん?」
「顔合わせ。無事終わったみたいね」
私は、少し笑って言った。
「うん。すごく緊張したけど、ちゃんと終わった」
恵美が、続けて聞いた。
「朝倉さんも、しっかりがんばったのね」
「そう。すごく、がんばってくれた」
「本当に」
なんか、顔が熱くなってきた。
やだ。仕事中なのに。
「昨日から、恒一さんが…」
「恒一さんが?」
「……“ひよ”って」
恵美の動きが止まった。
なんか、固まってるみたいに。
「は?」
「え、あぁ……だから」
なんで言ってしまったの!
私、完全にほうけている。
恵美は、薄ら笑いで言った。
「ひよって?朝倉さんがあんたを呼ぶの?」
「これは、事件だよね」
「事件じゃないよ」
「事件でしょ」
「なんだか、イメージができないわ」
16時に、恒一さんが巡回に来た。
いつもの仕事の顔。
「変わりなし?」
「はい」
そして端に寄る。
「ひよ。17時に上がれそう?」
「はい」
「わかった」
恵美の耳が巨大化している。
彼が去った後に、恵美が言った。
「聞いた」
「聞かないで」
ああ、もうこれは、神田さんにもバレたのと同じ。
帰って、恒一さんと対策を練らないと。
でも、こんなに幸せな対策って、あるかしら。
ひよりという名をつけてくれた両親に、心の中で「ありがとう」を言った。
ひより日和 婚約編 第6話 「はじめましての日」おわり




