第4話 「春よ来い」
1
とにかく暑い日が続いている。
今日は、恒一さんが当務明けで、私は早番だった。
私が、夕方駅に着くころに、彼が迎えに来てくれた。
暑いからって、車で。
相変わらず、心配性は変わらない。
でも、車で来てくれたので、お米を買った。
せめて自転車でもないと、お米は辛い。
今日はひどく暑かったから。
夕ご飯も終わって、私はダイニングの椅子に座って扇風機の風で髪を乾かしていた。
ドライヤーは耐えられない。
私は、卓上カレンダーを見ていた。
シフトの希望を出す時期が近付いている。
希望は5日くらい出しておけるけれど、実際に通るのは月に1日くらいが普通だ。
洗面・脱衣所の引き戸が閉まる音がする。
恒一さんが、お風呂から上がってきたみたい。
白いTシャツと、どこで買ったのか、ひどく派手な短パン姿だ。
夏は、黒が暑いので違う色にしたのかもしれない。
首にはタオルがかかっている。
恒一さんもダイニングに入ってきて、壁のカレンダーを見ている。
9月のページを1枚持ち上げて、戻して、また持ち上げている。
「シフトですか?」
「うん」
「私も」
そう言いながら、私はカレンダーをまだ見ていた。
すると、恒一さんが何か大切なことを話すときみたいに私を呼んだ。
「ひより」
「入籍、いつにする?」
「あ…」
ちょっと、息が詰まった気がした。
彼と一緒に住むようになって、もう7か月だ。
普通の家族のような暮らしを続けてきた。
でも、「入籍」と言われると、急に現実になる。
「私は、春がいいなと思ってました」
「桜が咲くころ」
「俺もその頃がいいと思ってた」
もう2か月もすれば、秋になる。
書類を役所に提出するだけなら、いつだってできるだろうけど。
家族にも無断でするのは、ちょっと違う。
式を挙げるにしてもその前に順序として、やらなければならないことも多いのではないか。
私の両親にも、まだ彼をちゃんと紹介していない。
そういう意味では、私は彼の家族のことも知らない。
彼の実家は長野県だと聞いている。
私たちが、出向いてご挨拶するのが筋だと思うけれど。
ただ、悲しいことに、私たちの仕事はお盆もお正月もない。
繁忙期に長い連休を取ることも、憚られる。
まずは、そこから調整しなければ始まらない。
「長野のご両親にご挨拶しないといけませんね」
私は、彼を見て言った。
「それなら、俺だってそうだ」
「うちは、そんなに遠くないから何とでもなると思うんです」
「9月なら、連休が取れると思うので、調整しましょうか?」
「いや…ひよりのご両親には申し訳ないけど、1回で済ませてしまうのがいいかもしれない」
「仕事柄、お互いに休みにくいだろ?」
「1回で、ですか?」
「両家顔合わせの食事会を、こっちでやる」
「俺の親には、俺から話す」
「ひよりのご両親にも、ちゃんと挨拶する」
恒一さんは、いつからそれを考えていたんだろう。
ちゃんと考えていてくれていたことに、胸の奥が少し緩む。
それなのに、私だけが頼っているような気がして、少しだけ落ち着かなかった。
「一緒に決めればいい」
私の顔を見ていたのか、恒一さんが静かに言った。
「はい」
4月なら、あと8か月。
長いようで、きっとすぐだ。
2
帰ってきて、夕ご飯を作る。
作っていても、いろいろな考えが浮かんでは消えてまとまらない。
もう、21時だというのにお米を洗っていない。
昨日に引き続き、今日も早番で職場は平穏無事だったと言える。
お盆も終わったので、夏休みも終盤だ。
毎年のように「9月に連休取ってゆっくりしたい」と恵美と話してはいる。
でも、簡単にはいかないのが、辛いところだ。
去年のお盆明けから、産休でお休みしている先輩は、保育園がなかなか見つからないらしい。
保育園の園児募集は半年に1回とかなんとか。
はい、そうですかと入園できることは、珍しいようだ。
私もそうなるんだろうか。
両家顔合わせでは、スーツのほうがいいのか。
いや、清楚なワンピースか。
明日の休憩時間に3階へ行って、どんなものか見るだけ見てみよう。
そういえば、入籍するには、ほかにも書類が必要だったはずだ。
あとで、ちゃんと調べておかないと。
水に沈んだお米を見ながら、考えはぐるぐると回っているだけだ。
名前が変わると、銀行やクレジットカード会社でも、手続きが要る。
結婚に関する手続き、決め事は煩雑だと、どこかで読んだ覚えがある。
でも、それはそうだろう。
人生の一大イベントだから。
挙式のこともある。
私は、盛大な挙式なんて、あまり興味がない。
でも、両親はどうだろう?
私には、ほかに兄弟がいないので、娘の結婚式を見たくはないだろうか。
ん?
大変!カレー焦げてないかしら?
あぶない、あぶない。
慌てて火を弱めたところで、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま」
「おかえりなさい」
返事をしながら、私は鍋の底をお玉でそっと探った。
焦げてはいない。たぶん。
恒一さんがキッチンの入口に立って、私を見た。
「どうした」
「何がですか?」
「顔」
また顔だ。
最近、私は顔に出すぎている気がする。
「炊飯器のスイッチ、押し忘れてました」
「それだけか?」
それだけではない。
でも、何から話せばいいのか分からなかった。
「結婚って、やることが多いんですね」
そう言うと、恒一さんは少しだけ黙った。
それから、腕時計を外してダイニングテーブルに置いた。
「先に米を炊け」
「はい」
炊飯器のスイッチを押す音が、やけに大きく聞こえた。
「その間に、話せばいい」
その言い方があまりにも普通で、少しだけ息がしやすくなった。
「顔合わせの服とか、書類とか、名前が変わった後の手続きとか、式のこととか」
「考えていたら、炊飯器を忘れました」
「一人で考えなくていい」
「でも、私が調べておいた方がいいかなって」
「ひより」
「ん?」
「こっち、おいで」
恒一さんは、私をぎゅっと抱きしめて言った。
「俺の結婚でもあるだろ」
「ひとりで抱え込まなくていい」
カレーは、少しだけ鍋底にこびりついていた。
でも、焦げた匂いはしなかった。
たぶん、まだ大丈夫。
私も、このカレーも。
3
ご飯が炊けるまでの間に、カレーは少しだけ冷めた。
けれど、焦げた匂いはしなかった。
炊き立てのご飯にカレーをかけて、ふたりで向かい合って座る。
「少しだけ、鍋底にこびりついちゃって」
「焦げてない」
恒一さんはそう言って、普通に食べてくれた。
その普通さに、また少し息がしやすくなる。
彼の顔をそっと見上げて、私は言った。
「よかったら……ご家族のこと、聞いてもいい?」
ご飯をひと口のみ込んでから、彼はうなずいた。
「父と母と、妹。妹は今20歳で、俺とは11歳離れてる」
思っていたより、ずっと具体的な数字が出てくる。
遠い人たちなのではなく、ちゃんと日常の中にいる家族なんだと感じた。
「……母は、実の母親じゃない」
言い終えたあと、彼はそっとこちらを見る。
私がどう受け取ったのか、確かめるような視線だった。
「2歳のときに、実の母が亡くなって」
「俺が四歳のときに父が再婚して、その人に育てられた」
「物心ついたときから、俺にとってはその人が母だ」
静かな声に、からん、と食器が触れ合う音だけが聞こえた
私の中に、じわりと何かが広がっていく。
幼い彼を想像してしまって、そこで手を伸ばしてくれた女性のことを思う。
血のつながりより先に、毎日のごはんや、熱を出した夜や、ランドセルの重さを支えた人がいる。
そんな人を、迷いなく「母」と呼ぶ彼が、たまらなく愛おしい。
私は小さく笑った。
「素敵なお母さんなんですね」
「普通の人だ」
「でも、恒一さんを育ててくれた人です」
「うん」
「妹さんは?」
恒一さんは、何かを思い出すように視線をさまよわせて、ぽつりと言った。
「妹は、美咲。美しく咲くと書いて」
「まぁ……明るいよ。うるさいけどな」
「うるさい」と言いながら、声の奥に少し甘さが滲んでいる。
文句を言いながらも、なんだかんだで付き合ってあげている姿が目に浮かんだ。
こんな風に話す彼を見られるのは、私だけかもしれない。
さっき聞いた家族の過去と、今のささやかな日常が、同じ線の上でつながっていく気がした。
「美咲さんも、顔合わせにこられるんですか?」
「来ると思う」
「たぶん、止めても来る」
「お兄ちゃんのこと好きなんですね」
「どうだろうな」
そう言いながら、恒一さんは少し困った顔をした。
私には、兄弟がいない。
だから、妹という存在が少し不思議だった。
でも、恒一さんがお兄ちゃんだということは、なんとなくわかる気がした。
私は、この人の家族に会うのだ。
そう思うと、緊張と一緒に、少し楽しみも混ざった。
4
今日はふたりして遅番だ。
遅番の朝は、のんびりモード。
仕事は13時からなので、ひとり暮らしのときは10時までベッドにいることも多かった。
お昼前に何か食べてから出勤していたように思う。
一緒に暮らすようになってからは、そろっている朝は何か食べるようにしている。
恒一さんは、私と暮らすようになって、少し太ったというけど、私にはわからない。
炊飯器の中は、ご飯が残ってはいるけど、ふたりで食べるには足りない。
今日はパンにする。
パンを焼いて、目玉焼きを焼いていたら恒一さんが起きてきた。
「卵焼けたら、起こそうと思ってたけど、目が覚めましたね」
「うん…」
彼はそれだけ言って、洗面所へ行ってしまった。
まだ、眠いのかも?疲れているんだろうな。
ふたりでパンをかじりながら、昨日の話をした。
「ご飯食べたら、実家に電話してみますね」
「両家の顔合わせのこと、早めに言っとこうと思って」
「そうだな。早いほうがいい」
「俺も、あとで親父に電話しとく」
恒一さんは、パンとハムエッグを平らげた後、昨日のカレーの鍋に火をつけている。
炊飯器に残っているご飯も全部食べてほしかったので、ちょうどいい。
今日は、お米を洗ってから出勤しよう。
その前に、実家に電話をしなければ。
リビングで私がスマホをじっと見つめていたら、恒一さんが言った。
「電話、かける?」
「はい…」
母のスマホにはすぐにつながった。
「あ…ママ?」
―あら、ひよちゃん、どうしたの?珍しいわね。
「えっと、4月にね、前に話した朝倉さんと結婚することにした」
―そう、いよいよね。
「でね、両家の顔合わせなんだけど、来月か再来月、こっちに出てこれる?」
―それはいいけど、本当は、一緒に暮らす前に一度お会いしたかったわね。
「それは、私も事後報告だったから…ごめんなさい」
恒一さんが、横で「代わる」と手を伸ばしている。
「あ、ママ。朝倉さんが代わるって」
恒一さんの少し緊張の混じった声が、リビングに響いた。
「もしもし。 朝倉恒一です」
「大切なひよりさんと一緒に暮らし始めたのに、ご挨拶が遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」
一度、そこで言葉を切った。
「同棲を始める前に、お時間をいただいてご挨拶するべきでした」
「ひよりさんのことを大切に思う気持ちは、同棲を始めたころから変わっていません」
「ご両親に、きちんと筋を通せていなかったことを反省しています」
「来年、4月に入籍したいと、ふたりで話し合って決めました」
「9月に両家での顔合わせの時間をいただきたくて、お電話させていただきました」
「その時に、改めて直接お会いして、今日お伝えしたことも含めて、きちんとご挨拶させていただきたいと思っています」
―あら、まぁ、ご丁寧に。
―こちらこそ、よろしくお願いしますね。
―朝倉さんのご両親にも、よろしくお伝えくださいね。
電話口から、母の声が漏れている。
「はい。ありがとうございます」
私は、ぼーーっと、恒一さんを見ていた。
スマホを返されて、改めて母と話す。
「あ、ママ?そういうことだから……」
―しっかりした方ね。
―びっくりしちゃった。
―パパには言っとくから、詳しい日程決まったら連絡ちょうだい。
―ひよちゃん。
「ん?」
―よかったわね。おめでとう。
「……うん」
それだけ言うのが、やっとだった。
ちょっと、泣きそうになった。
電話を切ると、リビングが急に静かになった。
「大丈夫?」
恒一さんが私を見る。
「はい」
「でも、ちょっと……」
うまく言えなくて、スマホを胸の前で握った。
「おめでとうって、言ってもらいました」
「そうか」
たったそれだけなのに、恒一さんの声が少しだけ柔らかかった。
スマホを開いて、カレンダーを見た。
4月。
桜のころ。
まだ何も書き込まない。
ただ、その月をしばらく眺めていた。
恒一さんが私のスマホを見て言った。
「4月か」
「はい。まだ見るだけ」
「見るだけでもいい」
「そこに向かって決めればいい」
春が少しだけ、近づいた気がした。
ひより日和 婚約編 第4話 「春よ来い」 おわり




