表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第4話 「春よ来い」

1


とにかく暑い日が続いている。

今日は、恒一さんが当務明けで、私は早番だった。

私が、夕方駅に着くころに、彼が迎えに来てくれた。

暑いからって、車で。

相変わらず、心配性は変わらない。


でも、車で来てくれたので、お米を買った。

せめて自転車でもないと、お米は辛い。

今日はひどく暑かったから。


夕ご飯も終わって、私はダイニングの椅子に座って扇風機の風で髪を乾かしていた。

ドライヤーは耐えられない。



私は、卓上カレンダーを見ていた。

シフトの希望を出す時期が近付いている。

希望は5日くらい出しておけるけれど、実際に通るのは月に1日くらいが普通だ。


洗面・脱衣所の引き戸が閉まる音がする。

恒一さんが、お風呂から上がってきたみたい。


白いTシャツと、どこで買ったのか、ひどく派手な短パン姿だ。

夏は、黒が暑いので違う色にしたのかもしれない。

首にはタオルがかかっている。


恒一さんもダイニングに入ってきて、壁のカレンダーを見ている。

9月のページを1枚持ち上げて、戻して、また持ち上げている。


「シフトですか?」


「うん」


「私も」


そう言いながら、私はカレンダーをまだ見ていた。


すると、恒一さんが何か大切なことを話すときみたいに私を呼んだ。


「ひより」

「入籍、いつにする?」


「あ…」


ちょっと、息が詰まった気がした。

彼と一緒に住むようになって、もう7か月だ。

普通の家族のような暮らしを続けてきた。

でも、「入籍」と言われると、急に現実になる。


「私は、春がいいなと思ってました」

「桜が咲くころ」


「俺もその頃がいいと思ってた」


もう2か月もすれば、秋になる。


書類を役所に提出するだけなら、いつだってできるだろうけど。

家族にも無断でするのは、ちょっと違う。


式を挙げるにしてもその前に順序として、やらなければならないことも多いのではないか。


私の両親にも、まだ彼をちゃんと紹介していない。

そういう意味では、私は彼の家族のことも知らない。


彼の実家は長野県だと聞いている。

私たちが、出向いてご挨拶するのが筋だと思うけれど。


ただ、悲しいことに、私たちの仕事はお盆もお正月もない。

繁忙期に長い連休を取ることも、憚られる。


まずは、そこから調整しなければ始まらない。


「長野のご両親にご挨拶しないといけませんね」


私は、彼を見て言った。


「それなら、俺だってそうだ」


「うちは、そんなに遠くないから何とでもなると思うんです」

「9月なら、連休が取れると思うので、調整しましょうか?」


「いや…ひよりのご両親には申し訳ないけど、1回で済ませてしまうのがいいかもしれない」

「仕事柄、お互いに休みにくいだろ?」


「1回で、ですか?」


「両家顔合わせの食事会を、こっちでやる」

「俺の親には、俺から話す」

「ひよりのご両親にも、ちゃんと挨拶する」


恒一さんは、いつからそれを考えていたんだろう。

ちゃんと考えていてくれていたことに、胸の奥が少し緩む。

それなのに、私だけが頼っているような気がして、少しだけ落ち着かなかった。


「一緒に決めればいい」


私の顔を見ていたのか、恒一さんが静かに言った。


「はい」


4月なら、あと8か月。

長いようで、きっとすぐだ。



2


帰ってきて、夕ご飯を作る。

作っていても、いろいろな考えが浮かんでは消えてまとまらない。

もう、21時だというのにお米を洗っていない。


昨日に引き続き、今日も早番で職場は平穏無事だったと言える。

お盆も終わったので、夏休みも終盤だ。

毎年のように「9月に連休取ってゆっくりしたい」と恵美と話してはいる。

でも、簡単にはいかないのが、辛いところだ。


去年のお盆明けから、産休でお休みしている先輩は、保育園がなかなか見つからないらしい。

保育園の園児募集は半年に1回とかなんとか。

はい、そうですかと入園できることは、珍しいようだ。

私もそうなるんだろうか。


両家顔合わせでは、スーツのほうがいいのか。

いや、清楚なワンピースか。

明日の休憩時間に3階へ行って、どんなものか見るだけ見てみよう。


そういえば、入籍するには、ほかにも書類が必要だったはずだ。

あとで、ちゃんと調べておかないと。


水に沈んだお米を見ながら、考えはぐるぐると回っているだけだ。


名前が変わると、銀行やクレジットカード会社でも、手続きが要る。

結婚に関する手続き、決め事は煩雑だと、どこかで読んだ覚えがある。

でも、それはそうだろう。

人生の一大イベントだから。


挙式のこともある。

私は、盛大な挙式なんて、あまり興味がない。

でも、両親はどうだろう?

私には、ほかに兄弟がいないので、娘の結婚式を見たくはないだろうか。


ん?

大変!カレー焦げてないかしら?

あぶない、あぶない。


慌てて火を弱めたところで、玄関の鍵が回る音がした。


「ただいま」


「おかえりなさい」


返事をしながら、私は鍋の底をお玉でそっと探った。

焦げてはいない。たぶん。


恒一さんがキッチンの入口に立って、私を見た。


「どうした」


「何がですか?」


「顔」


また顔だ。

最近、私は顔に出すぎている気がする。


「炊飯器のスイッチ、押し忘れてました」


「それだけか?」


それだけではない。

でも、何から話せばいいのか分からなかった。


「結婚って、やることが多いんですね」


そう言うと、恒一さんは少しだけ黙った。

それから、腕時計を外してダイニングテーブルに置いた。


「先に米を炊け」


「はい」


炊飯器のスイッチを押す音が、やけに大きく聞こえた。


「その間に、話せばいい」


その言い方があまりにも普通で、少しだけ息がしやすくなった。


「顔合わせの服とか、書類とか、名前が変わった後の手続きとか、式のこととか」

「考えていたら、炊飯器を忘れました」


「一人で考えなくていい」


「でも、私が調べておいた方がいいかなって」


「ひより」


「ん?」


「こっち、おいで」


恒一さんは、私をぎゅっと抱きしめて言った。


「俺の結婚でもあるだろ」

「ひとりで抱え込まなくていい」



カレーは、少しだけ鍋底にこびりついていた。

でも、焦げた匂いはしなかった。


たぶん、まだ大丈夫。

私も、このカレーも。



3


ご飯が炊けるまでの間に、カレーは少しだけ冷めた。

けれど、焦げた匂いはしなかった。


炊き立てのご飯にカレーをかけて、ふたりで向かい合って座る。


「少しだけ、鍋底にこびりついちゃって」


「焦げてない」


恒一さんはそう言って、普通に食べてくれた。


その普通さに、また少し息がしやすくなる。



彼の顔をそっと見上げて、私は言った。


「よかったら……ご家族のこと、聞いてもいい?」


ご飯をひと口のみ込んでから、彼はうなずいた。


「父と母と、妹。妹は今20歳で、俺とは11歳離れてる」


思っていたより、ずっと具体的な数字が出てくる。

遠い人たちなのではなく、ちゃんと日常の中にいる家族なんだと感じた。


「……母は、実の母親じゃない」


言い終えたあと、彼はそっとこちらを見る。

私がどう受け取ったのか、確かめるような視線だった。


「2歳のときに、実の母が亡くなって」

「俺が四歳のときに父が再婚して、その人に育てられた」

「物心ついたときから、俺にとってはその人が母だ」


静かな声に、からん、と食器が触れ合う音だけが聞こえた


私の中に、じわりと何かが広がっていく。


幼い彼を想像してしまって、そこで手を伸ばしてくれた女性のことを思う。

血のつながりより先に、毎日のごはんや、熱を出した夜や、ランドセルの重さを支えた人がいる。


そんな人を、迷いなく「母」と呼ぶ彼が、たまらなく愛おしい。


私は小さく笑った。


「素敵なお母さんなんですね」


「普通の人だ」


「でも、恒一さんを育ててくれた人です」


「うん」


「妹さんは?」


恒一さんは、何かを思い出すように視線をさまよわせて、ぽつりと言った。


「妹は、美咲。美しく咲くと書いて」

「まぁ……明るいよ。うるさいけどな」


「うるさい」と言いながら、声の奥に少し甘さが滲んでいる。

文句を言いながらも、なんだかんだで付き合ってあげている姿が目に浮かんだ。


こんな風に話す彼を見られるのは、私だけかもしれない。


さっき聞いた家族の過去と、今のささやかな日常が、同じ線の上でつながっていく気がした。


「美咲さんも、顔合わせにこられるんですか?」


「来ると思う」

「たぶん、止めても来る」


「お兄ちゃんのこと好きなんですね」


「どうだろうな」


そう言いながら、恒一さんは少し困った顔をした。


私には、兄弟がいない。

だから、妹という存在が少し不思議だった。


でも、恒一さんがお兄ちゃんだということは、なんとなくわかる気がした。


私は、この人の家族に会うのだ。

そう思うと、緊張と一緒に、少し楽しみも混ざった。




今日はふたりして遅番だ。

遅番の朝は、のんびりモード。


仕事は13時からなので、ひとり暮らしのときは10時までベッドにいることも多かった。

お昼前に何か食べてから出勤していたように思う。


一緒に暮らすようになってからは、そろっている朝は何か食べるようにしている。

恒一さんは、私と暮らすようになって、少し太ったというけど、私にはわからない。


炊飯器の中は、ご飯が残ってはいるけど、ふたりで食べるには足りない。

今日はパンにする。


パンを焼いて、目玉焼きを焼いていたら恒一さんが起きてきた。


「卵焼けたら、起こそうと思ってたけど、目が覚めましたね」


「うん…」


彼はそれだけ言って、洗面所へ行ってしまった。

まだ、眠いのかも?疲れているんだろうな。



ふたりでパンをかじりながら、昨日の話をした。


「ご飯食べたら、実家に電話してみますね」

「両家の顔合わせのこと、早めに言っとこうと思って」


「そうだな。早いほうがいい」

「俺も、あとで親父に電話しとく」


恒一さんは、パンとハムエッグを平らげた後、昨日のカレーの鍋に火をつけている。

炊飯器に残っているご飯も全部食べてほしかったので、ちょうどいい。

今日は、お米を洗ってから出勤しよう。

その前に、実家に電話をしなければ。



リビングで私がスマホをじっと見つめていたら、恒一さんが言った。


「電話、かける?」


「はい…」



母のスマホにはすぐにつながった。


「あ…ママ?」


―あら、ひよちゃん、どうしたの?珍しいわね。


「えっと、4月にね、前に話した朝倉さんと結婚することにした」


―そう、いよいよね。


「でね、両家の顔合わせなんだけど、来月か再来月、こっちに出てこれる?」


―それはいいけど、本当は、一緒に暮らす前に一度お会いしたかったわね。


「それは、私も事後報告だったから…ごめんなさい」


恒一さんが、横で「代わる」と手を伸ばしている。


「あ、ママ。朝倉さんが代わるって」


恒一さんの少し緊張の混じった声が、リビングに響いた。


「もしもし。 朝倉恒一です」

「大切なひよりさんと一緒に暮らし始めたのに、ご挨拶が遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」


一度、そこで言葉を切った。


「同棲を始める前に、お時間をいただいてご挨拶するべきでした」

「ひよりさんのことを大切に思う気持ちは、同棲を始めたころから変わっていません」

「ご両親に、きちんと筋を通せていなかったことを反省しています」

「来年、4月に入籍したいと、ふたりで話し合って決めました」

「9月に両家での顔合わせの時間をいただきたくて、お電話させていただきました」

「その時に、改めて直接お会いして、今日お伝えしたことも含めて、きちんとご挨拶させていただきたいと思っています」


―あら、まぁ、ご丁寧に。

―こちらこそ、よろしくお願いしますね。

―朝倉さんのご両親にも、よろしくお伝えくださいね。


電話口から、母の声が漏れている。


「はい。ありがとうございます」


私は、ぼーーっと、恒一さんを見ていた。


スマホを返されて、改めて母と話す。


「あ、ママ?そういうことだから……」


―しっかりした方ね。

―びっくりしちゃった。

―パパには言っとくから、詳しい日程決まったら連絡ちょうだい。


―ひよちゃん。


「ん?」


―よかったわね。おめでとう。


「……うん」


それだけ言うのが、やっとだった。

ちょっと、泣きそうになった。


電話を切ると、リビングが急に静かになった。


「大丈夫?」


恒一さんが私を見る。


「はい」

「でも、ちょっと……」


うまく言えなくて、スマホを胸の前で握った。


「おめでとうって、言ってもらいました」


「そうか」


たったそれだけなのに、恒一さんの声が少しだけ柔らかかった。



スマホを開いて、カレンダーを見た。


4月。

桜のころ。


まだ何も書き込まない。

ただ、その月をしばらく眺めていた。


恒一さんが私のスマホを見て言った。


「4月か」


「はい。まだ見るだけ」


「見るだけでもいい」

「そこに向かって決めればいい」



春が少しだけ、近づいた気がした。




ひより日和 婚約編 第4話 「春よ来い」 おわり



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ