第3話 「それぞれの隣」
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7月も、もう終わる。
毎日うだるような暑さが続いている。
今日は、ふたりそろってお休みだ。
こんな日は滅多にない。
午前中は、遅い朝食を摂って洗濯物を干した。
恒一さんが、横でタオルやTシャツをバサバサ振り回して、こちらに渡してくれる。
干すものも少なくなってきたところでランドリーバスケットの中は、私の下着だけになっている。
恒一さんは、見ないフリでベランダから中に入って言った。
「風呂掃除してくる」
ちょっと、おかしくなって笑ってしまう。
お昼になって、お風呂掃除のついでにシャワーまで終わらせた恒一さんがダイニングへ来た。
「何か食べる?」
私は、ストッカーを漁りながら、昼食を考えていた。
「そうめんとかどう?暑いし」
そう言って、ストッカーの中にあった買い置きのそうめんを見せた。
私のそばまで来て、彼はそうめんの束の入った袋を手に取った。
「これくらいなら、俺でもできる」
「作ってくれるんですか?」
大丈夫かしら?
でも、やる気をくじくのもよくない。
「だって、茹でるだけだろ?」
まぁ、そうなんだけど。
早速、鍋に水を入れている。
早く沸騰させたいらしく、強火にしていた。
私は、食器を出したり、お箸を用意していた。
鍋を見るともう沸騰してきている。
恒一さんは、鍋にそうめんを入れて箸で混ぜていた。
私は大丈夫そうだと思って、冷蔵庫に生姜とネギがあったはずだと、冷蔵庫の扉を開けたとき。
「あ!」
恒一さんの声と同時に、鍋が噴きこぼれる様子が目に入った。
慌てて、火を止めている。
私は、おかしくなって笑いをこらえながら、鍋の中身をザルにあけた。
「上手にできましたねー」
レンジ周りを拭きながら、少し早口になって言った。
「そうめんに水かけて冷やしといてください」
「失敗じゃないから、そんな顔しないで」
もう、悲壮な顔で固まる恒一さんが、おかしくて笑っていた。
食べるときになっても、恒一さんはちょっと落ち込んでいる。
「大丈夫、ちゃんとおいしい」
恒一さんも、そうめんを食べて言った。
「普通に食える」
「でしょ?」
「私は、ダイニングテーブルも組み立てられないけど」
「あなたは上手にできる」
「それでよくないですか?」
笑って、言った。
「うん」
彼も、笑っていた。
後片付けは一緒にやった。
他愛もない話をしながら。
近くに新しいケーキ屋さんがオープンしたとか。
車上荒らしが出没してると、マンションの1階に注意喚起の張り紙がしてあったとか。
ほとんど、私がしゃべっていて、彼は聞いているだけ。
でも、ちゃんと聞いてくれているし、覚えていてもくれるので、これでいい。
エアコンで冷えたリビングで、春に買ったロウソファに座り、ふたりでコーヒーを飲む。
特に会話はないけど、なんだか心地いい。
今日の夕ご飯、どうしようかと思ってスマホを見た。
おいしそうなレシピを探したり、近くのスーパーのチラシを見たりしていた。
「あ、駅前の広場でお祭りやってるみたい」
スマホの画面を彼に向けた。
「夜市?」
「キッチンカーとか縁日とか出るみたい」
「暑いぞ?」
「行きたいの?」
熱中症の心配でもしているみたいだった。
桜の下で、彼が「夏は花火も見たい」と言ってくれたことを思い出す。
「行きたい!」
「だって、花火も見ないと!」
恒一さんは、あきらめたように言った。
「夜なら少しはマシだろ」
私は、嬉しくなって言った。
「じゃあ、行く?」
「うん」
夏の夕方に恒一さんと出かける。
一緒にいても、なかなかできない。
それだけで、夏の宿題は半分くらい片付いた気がする。
何を着ていこう。
去年、神社の縁日に着た、涼しそうなワンピース。
色はアイボリーホワイト。
肩まで少し開いていて、アクアマリンのネックレスが映える。
寝室で着替えていたら、彼が入ってきて、私を見て言った。
「それで行くの?」
「変ですか?」
「いや、似合ってる」
そう言われて、ふにゃっとした顔になっていたのかも?
恥ずかしい……
そんな私の額にキスして、すぐに出ていってしまった。
18時でも明るいけれど、出かけることにした。
玄関で恒一さんが言った。
「歩きやすい靴にしろよ」
ほんとに心配性だ。
大丈夫よ、あなたがいるんだから。
まだ暑いけど、昼よりは風がある。
駅前広場には、思いのほか人が集まっていた。
屋台の匂い。
キッチンカー。
子ども向けの縁日。
浴衣の女の子。
ステージの音。
恒一さんは、ゆっくり周囲を見回して、人の流れを見ている。
なんか、仕事の顔になっている気がする。
「恒一さん」
「ん?」
「今日は仕事じゃないですよ」
「わかってる」
いや、わかってない。
かわいいキッチンカーを見つけて、そばへ行ってみた。
看板のメニューを見ていると、後ろから声を掛けられた。
「ひより?」
振り返ると、恵美がいた。
神田さんも一緒に。
「恵美?」
「やっぱり、ひよりだ」
恵美は少し驚いた顔をして、それから私の隣にいる恒一さんを見た。
「朝倉さんも。こんばんは」
「こんばんは」
「主任、お疲れ様です」
声に張りがある。
「休みだろ」
「癖で」
恵美が横で小さく笑った。
その笑い方が、仕事中に見る恵美と少し違う気がした。
雰囲気が、少し丸くなった気がする。
そして、神田さんとの距離が縮まったように思った。
偶然会えたことと、お祭りの賑やかな活気で少し楽しそうな恵美が言った。
「ふたりも来てたんだ」
「亮が、駅前で何かやってるから寄ろうって」
亮。
恵美がそう呼んだこと。
そして、恵美が神田さんを見る目が温かかったこと。
それだけで、私も嬉しくなった。
2
「主任は、これからどうするんですか?」
「ぐるっと一周回るとか?」
「いや、特に決めてないけど」
恒一さんが、私を見る。
私に聞いてくれているのだと分かった。
「あ、今日、夕ご飯用意してないんで、何か食べて帰ろうかなって」
「じゃあ、一緒にどう? あたしたちも、なんか食べようかって言ってたとこ」
恵美が周りを見回して、座る場所を探している。
思いのほか人が多い。
キッチンカーが並ぶ場所にいたせいか、パラソルの付いた丸いテーブルはどこも埋まっていた。
どうしようかと思った時、神田さんが、食べ終わって立ち上がりかけているカップルに声をかけた。
「ここ、もう大丈夫ですか?」
カップルが笑いながらその場を離れるのを見届けて、神田さんは自分のボディバッグを椅子に掛けた。
「恵美さん、ひよりさんも、ここ座ってて」
「俺、何か買ってくるんで」
「主任、混むからさっさと行きましょう」
なんだか、段取りよく仕切っている。
「亮! 水かお茶も! それと、から揚げ!」
恵美が、恒一さんと一緒に離れていく神田さんに声をかけた。
神田さんは振り返って、片手を上げた。
その仕草が自然で、恵美もそれを当然みたいに見送っている。
ふたりの距離が、前より近い。
そう思った。
私は、少し……いや、ずいぶんびっくりして、恵美をじっと見ていた。
「なに?」
恵美が「何か言いたいことでもある?」という顔をしている。
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
恵美は、ちょっと照れた様子だった。
「すごい馴染んでて、ふたりでいると楽しいんだろうなって思っちゃった」
「恵美、少し雰囲気変わったね」
「なにそれ」
「神田さんといると、すごくリラックスしてるっていうか、柔らかい感じ」
「……そう?」
「うん」
恵美は、テーブルに置いた手の親指の爪を見るように、少し視線を下げた。
「亮、軽そうだけどさ」
「意外とちゃんと見てるのよ」
「うん」
「だから、こっちも雑にしすぎたらダメかなって」
そう言った恵美の横顔が、少し優しかった。
「私は、去年の秋かな。お歳暮の催事が始まる前くらいから」
「そのあたりから……神田さんは、恵美に気があるなって思ってたから」
「あんた、知らない顔して、結構わかってたのね」
恵美はそう言って、けらけら笑った。
「恵美だって、何も言わないのに何でも知ってたじゃん」
「ひよりは、わかりやすいから」
「そう?ヤダ、気をつけよ」
私も、一緒に笑った。
遠くからでも、戻ってくる二人だとすぐにわかった。
人の頭の向こうに、高い肩のラインが見える。
神田さんも恒一さんも、それぞれ紙コップの入ったトレーと、白いビニール袋を下げていた。
神田さんは、恵美にトレーを少しだけ傾けて見せた。
「とりあえずお茶にしました。炭酸苦手でしたよね?」
そう言って、冷えたペットボトルを一本手渡す。
そして、ビニール袋を開いてみせた。
「唐揚げとポテトと、あとイカも。好きそうなのから攻めてください」
「え、こんなに買ってきたの?」
恵美が、びっくりして目を丸くしていた。
神田さんは、楽しそうに言った。
「外したくないから、多めに持ってきました」
恒一さんは私の前に立つと、まずペットボトルのお茶を差し出してくれた。
「とりあえず冷たいの。氷入りはお腹冷えるって言ってたから、こっちにした」
「ありがとう」
唐揚げの紙皿の底に触れて、ふっと眉を寄せた。
「これ、まだ皿の底が熱いから、直接持たないほうがいい」
「あと、これは多分辛い。唐辛子がけっこうかかってたから」
「最初は一個だけにしとけ」
そう言って、赤い粉のかかった唐揚げのほうは、自分のほうの紙皿に移した。
何でもないような顔で。
「一個ならいい?」
「大丈夫か?辛いと思うぞ?」
「……新婚さんですか」
ぽつりとした声に顔を上げると、神田さんが私たちを見ていた。
私は、神田さんを見て「え?」と間抜けな声を出した。
「普段からそんななの?」
恵美も似たようなことを言う。
「そんなって?」
恒一さんを見ると、居心地悪そうにお茶を飲んでいた。
私と恵美は、職場以外で話すことが少ない。
楽しい雰囲気も交じり合って、変わったお客さんが来た話で、大笑いしていた。
恵美が続けて、話す。
「でさ、この前の落とし物」
「なんかの蓋っぽいもの。正式名称、書けないわよ」
「結局それ、なんだかわからなかったの?」
「わかるわけないじゃん」
「まぁ、あるよねぇ、そういうの」
私も、うんうんと頷いた。
「男性用のさ、ほら、ズラもあったよ」
「なんであんなもの忘れて帰るのかわかんないわよ」
「取りに来づらいだろうし、来たとしてもこっちだって、どんな形状ですかとか事細かに聞くのも嫌よねぇ」
なんだか分からない落とし物の話は恵美の語り口調が、おもしろくてまともにお茶が飲めなかった。
私たちが笑っている間、恒一さんと神田さんは、なんだか真面目な話をしているようだった。
声が抑え気味だったのと、ステージからの楽器の音で、彼らの声はかき消されていた。
仕事の話かもしれない。
私が、恒一さんの方を見ると、彼が神田さんに向けて言った言葉が一瞬だけ聞こえた。
「そう、焦るな」
神田さんも頷いている。
目線をステージの方へ向けると、吹奏楽の演奏が終わったようだった。
ステージ前の観客が立ち上がる。
露店やキッチンカーが、多く並ぶこちら側へと移動し始めていた。
恒一さんと神田さんが、話しながら立ち上がり、私と恵美が座る椅子の後ろへ回った。
恒一さんは、私の座る椅子の背をもって、耳元で言った。
「そのままでいい」
多くの人が、一度に押し寄せて恒一さんの後ろを通っていく。
神田さんは恵美の椅子の後ろに手を添えて、椅子ごと内側へずらしていた。
「恵美さん、ちょっとじっとしてて」
恵美は、一瞬驚いていたけれど、神田さんに言われた通り動かない。
恵美が上を向いて、優しい顔で何か言った。
たぶん、ありがとうと言ったのだと思う。
神田さんは、いつもの軽い神田さんではなかった。
恵美を守るときの顔は、ちゃんと大人の男性だった。
恵美がちょっと、顔を赤くして私にささやいた。
「SPみたい……」
「そだね」
私もそう思った。
人の流れが落ち着いたころ、レンガを模したタイルの地面にぽつりと丸いしみができた。
「え?」
私は、空を見上げた。
頭上のパラソルをたたく音が、すぐに早くなる。
「来たな」
恒一さんが短くそう言って立ち上がり、テーブルの上に残っていたものを迷いなくかき集めた。
「とりあえず、駅ビルまで走るぞ」
そう言って、私のトートバッグを掴んで、手を取った。
神田さんも恵美が忘れかけていたポーチをさっと掴み、恵美の手を取っている。
「走るよ。足元、気を付けて」
視界の端で、ほかのテーブルの人たちも立ち上がっていた。
屋台の周りにいた人、ベビーカーを押す人、子どもを慌てて抱き上げる人。
ざわめきだけが、大きくなる。
駅ビルの屋根の下に滑り込んで、息をついた。
恒一さんの肩と髪が濡れて、落ちていくしずく。
恵美は、バッグからタオルのハンカチを引っ張り出していた。
「びしょびしょ……」
恵美は、隣に立つ神田さんの肩をタオルで拭いている。
「ありがとう。俺は平気だから」
「恵美さんの髪、先に拭いたほうがいいのに」
「平気じゃないでしょ」
「いや、嬉しくて」
「外で言わないで」
そんな声が聞こえる。
恒一さんの肩を拭いていた私に彼が言った。
「寒くないか?」
「少しだけ」
そう答えると、恒一さんは、私のタオルを取って言った。
「貸して」
そう言って、私の髪を拭ってくれた。
恵美は、前よりずっと素直になった気がする。
全部変わったわけではないけれど、恵美らしく神田さんをちゃんと気にしていた。
この雨のせいで、花火は中止になったらしい。
駅前広場にアナウンスが流れていた。
「花火、中止になっちゃいましたね」
私は少し、残念そうに言った。
「8月に、河川敷でまたあるから」
「そうですね。楽しみ」
神田さんが、腕時計をちらりと見て言った。
「じゃあ、俺たち電車あるうちに帰りますね」
「ああ、気を付けて」
恒一さんが答えた。
私も、恵美に手を振って言った。
「明日ね!」
「うん。明日」
恵美も手を振っていた。
自然とふたりを見送る形になった。
駅に向かうふたりを、私はしばらく見ていた。
恵美がそっと神田さんの手に指を絡ませているのが見えた。
私の胸まで温かくなって、恒一さんに小さな声で言った。
「神田さん、少し違って見えました」
「そうだな」
「恵美のこと、大事なんだなって」
「好きなら大事にするさ。あいつだって」
「そうですね」
私は、濡れた地面を見た。
駅前の明かりが、水たまりに揺れている。
花火は見られなかったけれど、とても楽しい夜だった。
それぞれの隣に、大事にしたい人がいる。
「帰るか」
恒一さんが言った。
「はい」
「花火は、また行けばいい」
「来年でも、再来年でも」
差し出された手を取った。
私は、つないだ手に少し力を込めた。
「一緒に。ね?」
恒一さんが、頷いた。
雨上がりの駅前は、さっきより涼しかった。
ひより日和 婚約編 第3話 「それぞれの隣」 おわり




