第2話 スピンオフ 神田亮×前田恵美 「ボールペンのインクが出るまで」
1
7月。
とにかく、暑い。
あたしは、夏が嫌いだ。
大蔵屋の催事も、夏休みが始まってざわざわと人が多い。
今は、浴衣フェアの真っ最中。
浴衣ってのは、涼しそうな見た目をしているくせに、着てみると結構暑い。
でも、夏は嫌いでも避けられないなら、たまには浴衣もいいかもしれない。
隣にいるのは、同期の高阪ひより。
なんとまぁ、のどかな顔をしている。
先日、婚約者がたった3日間の出張に行くだけで、寂しそうにしていたのに。
恋人が帰ってきたら、いつもの柔らかい腑抜けのような表情に戻った。
ひよりが元気なら、大概の人は元気だ。
いいことだ。
そう思いながら、あたしは相変わらずインクの出の悪いボールペンを振っていた。
それを毎日のように見ているひよりが言った。
「恵美、そのボールペン、いい加減新しいの買えば?」
いいのよ、だってこれは…
「まだ、書けるから」
まだ書ける。
だから、捨てない。
そういうことにしている。
何度も床に落としたせいか、インクが中で切れている。
最初は、そのせいでインクの出が悪かった。
でも、もうインクは底を尽きかけている。
遠くに、ちらりと見える、黒い制服。
今日は、朝倉さんじゃない。
神田亮だ。
あたしよりひとつ年下の、KSSの警備員だ。
朝倉さんほどの圧はないけれど、十分背が高く、見た目は悪くない。
朝倉さんとは違って、よく舌の回る男だ。
「巡回です。異常ありませんか?」
あたしに聞くので、あたしが答える。
「ありません」
神田君は、私が振っているボールペンを見て言った。
「前田さん、またそれ振ってるんですか?」
「悪い?」
神田君は、苦笑している。
「悪くないですけど、もう出ないでしょ」
「出る」
あたしは、廃棄書類の裏に丸を書く。
「ほらね」
ちょっと掠れているけれど、丸だ。
「相変わらず頑固ですね」
そう言って、笑う神田君。
もう、何か月も前…まだ寒かったころ、閉店後の書類を書いていた時。
その時も、出の悪くなったボールペンに、苛立っていた。
それを見て、「使ってください」と差し出されたボールペンだ。
あれはたぶん、バレンタイン商戦で9階催事場も、大蔵屋の女性従業員たちも浮かれていた頃だ。
遅番で、閉店業務の最中だった。
日報を書いていたら、インクが出なくなった。
もう、そろそろ危ないとは思っていたけれど。
そこへ、鍵を受け取りに神田君が来たのだったと思う。
普段は、こちらから警備室へ預けに行く。
でも、その日はこちらに用でもあったのか、たまたま来たみたいだった。
「前田さん、ボールペンと戦ってますね」
へらへら笑っている。
「見ればわかるでしょ?」
少し、苛立っていた。
もちろん、ボールペンに。
「これ、使ってください」
「安いやつですけど」
普段から、仕事で高いボールペンを使うのは、医者か弁護士くらいじゃないのか。
「安いプレゼントね」
そう言ってやった。
でも、神田君も負けてない。
「じゃあ、今度ちゃんとしたの渡します」
「いらない」
でも、あたしはその安いボールペンを何か月も使っている。
そんなこと、本人には絶対に言わないけど。
「前田さん?」
呼ばれて、頭を上げた。
「なに?」
「今、ちょっと沈黙したんで」
「別に何でもないわよ」
あたしはもう一度、廃棄書類の裏に丸を書いた。
今度は少しだけ、かすれた。
「今日、終わったら飲みに行きません?」
「また?」
「またです」
それで、この前からの続きをやろうっての?
溜息出る。
2
飲みに誘われても、なぜか断れない自分がいる。
神田君は、話してても楽しいし、楽だ。
言いたいこと言って笑って、それで終わり。
それで、終わりでいいじゃない。
なんで、だめなの?
定時後、従業員通用口から駅に向かう。
神田君は暑いとかで、駅ビルの中で待ってると言ってた。
入って行くと、神田君がそこに立っていた。
「2階に無国籍料理の居酒屋があるんですよ」
「主任に教えてもらいました」
席に座って、まずビール。
お通しが出て、メニューを広げる。
まずは、から揚げ。
いつもの神田君のルーティン。
「ひよりさん、主任が帰ってきてからわかりやすく元気ですよね」
ビールが、届く。
神田君がジョッキを持ち上げ、私も倣う。
「お疲れ様」
「お疲れ様です!」
少し、口をつけてから、言った。
「ひよりはわかりやすいからね」
「出張中、主任はずっと帰りたそうにしてて」
「ひよりさんに会いたいだけでしょって言ったんですよ」
「そしたら『悪いか』って、なんか…いいなって思いました」
神田君は、ぐびぐびっと3分の1くらい飲んで、こっちを見る。
「前田さんも、わかりやすいですよ」
「どこが?」
「俺が誘うと、嫌そうな顔するくせに来るところ」
あたしは今日、なんでコイツについて来たんだろう?
「それは、あんたがしつこいからよ」
「じゃあ、しつこくして正解ですね」
何言ってんの。
「前田さん、やっぱりダメ?」
「俺と、付き合ってください」
懲りないやつ。
「またそれ?」
「またです」
「飽きないのか、懲りないのかどっち?」
彼のビールジョッキを握る指先が白かった。
「待ちます。待つって決めてるんで」
そういう顔をするから、困る。
冗談なら笑って流せるのに。
「唐揚げ、冷めるよ」
そのあとは、あたしも神田君も“あの話”をズルズル引っ張らない。
その辺の線引きは、評価してやる。
他愛もない話をして、店を出た。
7月でも、19時半を回れば薄暗い。
神田君とふたりで、駅に向かう。
遠くの方に、ひよりと朝倉さんらしき人影。
あのふたりも今日は外食して帰るのかなって思った。
柔らかい雰囲気のひよりと落ち着いた大人の朝倉さん。
手をつないで、先を歩いている。
あのふたりは、もう迷っていないように見えた。
隣で神田君が言った。
「主任とひよりさん、普通に夫婦みたいだ」
「婚約して一緒に住んでるからね。あとは書類だけの問題でしょ」
神田君は、ホームの入り口まで送ってくれた。
まぁ、これもいつものルーティン。
ひよりと朝倉さんは、ちゃんと変わる方を選んだんだと思う。
変わっても壊れないと、信じていたんだろう。
あたしには、それがまだ怖い。
部屋に戻ったのは、20時を過ぎていた。
スマホを充電するためバッグから出した時に、あのボールペンがまた床に落ちた。
転がるボールペンを目で追って思う。
神田君といるのは楽だ。
何を言っても、だいたい笑って返ってくる。
こちらが少しきつい言い方をしても、傷ついた顔をしない。
だから、つい甘えてしまう。
年下なのも、少し引っかかっていた。
ひとつだけ。
たったひとつなのに、なぜかそこに言い訳を置いていた。
本当は、年齢のせいじゃない。
付き合ってしまったら、この楽な距離が壊れるかもしれない。
飲みに行けなくなるかもしれない。
くだらない話で笑えなくなるかもしれない。
そう思うと、返事をするより、はぐらかしている方が簡単だった。
落ちたボールペンを拾って、また振った。
書くとちゃんと丸になる。
まだ、書ける。
だから、このままでいい。
あたしは、またボールペンを振った。
2
大蔵屋百貨店は、浴衣フェアも終わりに近づいている。
次の催事は、毎年恒例の“夏休みこどもフェア”だろう。
その前に、企画展か。
今年は、アルフォンス・ミュシャ展のはず。
あれは、あたしも見たい。
今日は、遅番だ。
昼前に財布の落とし物があったという記録が残っていた。
その持ち主は、あたしが出勤してカウンターに入るとすぐに現れた。
結構なお年寄りで、間の悪いことに財布を防災センターへ預けた直後だった。
防災センターへの道が、何度説明しても、なかなか伝わらない。
仕方なくあたしが、案内して一件落着した。
11時の巡回では、神田君が来たらしい。
けれど、16時の巡回は朝倉さんだった。
朝倉さんなら、ひよりが対応するので、あたしは出る幕がない。
ひよりがいつものように少し柔らかい顔で対応する。
「変わりなし?」
「はい」
その声を聞きながら、あたしはカウンターの端でボールペンを振っていた。
朝倉さんは、ひよりを見る。
ひよりも、朝倉さんを見る。
あの二人は、もう迷っていない。
それが羨ましいのか、少し腹立たしいのか、自分でも分からなかった。
11時には来たのに、16時に来ないのは少し珍しかった。
別に待っていたわけじゃないけど。
『またそれ振ってるんですか』
そんな声がないだけで、カウンターの中の音が消えた気がした。
外は暑いのに館内は涼しく、ちょっと寒いくらいだ。
休憩時間が近づいてきている。
足も疲れるし冷える。
ひよりに声をかけて、お手洗いに向かった。
従業員はバックヤードの手洗いを使うことになっている。
化粧直しもできるように、結構立派なレストルームだ。
入って行くと、3階の婦人服のテナントの女の子たちが3人で化粧直し中だ。
あたしが、入って行っても雑談は止まらない。
「朝倉さん、結婚かぁ…好きだったのに」
「何言ってんの。あんた彼氏いるじゃん」
きゃはははと笑い声。
今度は、別の子が思い出したように言う。
「そういえば、KSS」
最初話していた2人が耳ざとく興味津々の目を向けた。
「神田さん、異動らしいって聞いた」
「え!マジ?私、好きだったのにぃ」
「あんた、さっき朝倉さんが好きって言ってたとこじゃん」
また笑いが起こる。
「新しい施設の応援らしいよ?」
「昨日、鍵預けに行ったときにちらっと聞いただけなんだけど」
異動…
応援って言ってた。
期間限定なんだろうか。
いや、別に会えなくなるわけじゃない。
LINEだって、電話だってあるんだから。
お手洗いから出ても、さっきの会話が耳に残っていた。
期間限定なのか、完全な異動なのかも分からない。
ただ、あの子たちの軽い会話の中では、神田君はもう大蔵屋からいなくなる人みたいに扱われていた。
そもそも、あたしたちは付き合っているわけでもない。
だから、何を気にすることがあるのか。
そう思いながらインフォメーションカウンターに戻ると、ひよりがこちらを見た。
「恵美、遅かったね」
「お手洗い混んでた」
嘘ではない。
三人もいたし、会話も長かった。
「顔、怖いよ」
「いつもでしょ」
そう言って、カウンターの下からボールペンを取った。
意味もなく振る。
カチ、カチ、と中で何かが鳴った。
「今日、いつもより振ってる」
ひよりは、そういうところだけ妙に鋭い。
「インクが悪いのよ」
「だから、新しいの買えばいいのに」
「まだ出る」
廃棄書類の裏に丸を書く。
線は薄い。
それでも、丸には見える。
まだ出る。
まだ使える。
まだ、このままでいい。
そう思いたかった。
忙しくしている間は、考えなくて済む。
でも、少し手が空くたびに、黒い制服を探してしまう。
18時を回って、コスメエリアからひとりの女性がカウンターに来た。
LUMIELの佐伯さんだった。
いつ見ても、髪も爪も隙がない。
リップの色も、アイラインの角度も、きっと計算されている。
自分が綺麗だと知っている人の立ち方をしている。
「前田さん、少しいいですか」
「はい。どうされました?」
仕事の顔で答える。
佐伯さんは、カウンターに肘をつくような無作法はしない。
ただ、少しだけ声を落とした。
「KSSの神田さん、異動になるって本当ですか?」
一瞬、返事が遅れた。
「私は詳しく知らないです」
「そうなんですか」
佐伯さんは、きれいに整えた唇で、薄く笑った。
「前田さん、神田さんと仲いいから、ご存じかと思いました」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「普通に話すくらいです」
「駅で何度か見ましたよ」
思わず、佐伯さんを見た。
「一緒に帰ってましたよね。飲みに行かれることもあるんですか?」
「……たまにね」
「警備室でも、前田さんのことでからかわれてるの、聞いたことあります」
面倒な話になってきた。
「何が言いたいの?」
佐伯さんは、少しだけ首を傾げた。
「付き合ってるわけじゃないんですよね?」
事実だった。
だから、余計に腹が立った。
「そうだけど」
「じゃあ、私が言っても問題ないですよね」
何を、と聞かなくても分かった。
神田君に。
好きだと。
「それ、あたしに確認すること?」
「あとで面倒になるの嫌なので」
にこりと笑っている。
でも、笑っているだけだ。
この人は、自信がある。
綺麗でいる努力もしている。
自分が神田君の隣に立ってもおかしくないと思っている。
きっと、それは間違っていない。
間違っていないから、嫌だった。
「好きにすれば」
そう言うしかなかった。
佐伯さんは、少し満足そうに目を細めた。
「ありがとうございます」
礼を言われる筋合いはない。
そう思ったのに、言葉にはならなかった。
佐伯さんがコスメエリアへ戻って行く。
その背中を見ながら、あたしは手の中のボールペンを強く握っていた。
あたしは神田君の彼女じゃない。
返事もしていない。
だから、誰が神田君に何を言っても、止める権利なんてない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥がざらざらした。
閉店後、カウンター下の収納庫の鍵を警備室へ預けに行った。
廊下の角に佐伯さんがいる。
あたしは思わず立ち止まった。
ここにいていいのか。
立ち聞きしているようで、嫌だった。
だからと言って、このままこの廊下を右折する気にはなれなかった。
神田君の声がした。
「いや、申し訳ないけど俺、好きな女がいるんですよ」
佐伯さんはそれでもめげない。
自分は絶対に、前田恵美には負けていないと確信しているように。
「でも、お付き合いはしていないんですよね?」
ちょっと、困ったような神田君の声が続いた。
「待ってるんですよ。ずっと、彼女の返事を」
「返事はないかもしれないじゃありませんか」
神田君は、今度こそはっきり言った。
「返事はあってもなくても、俺には彼女しかいない」
「佐伯さんが、悪いわけじゃない」
「だから……」
最後は佐伯さんも、LUMIELのプライドを発揮したようだ。
「そうですか」
佐伯さんの声は、少し硬かった。
「でも、私はあの人と違って、ちゃんとあなたが好きだと言いました」
神田君は、何も言わなかった。
「また、大蔵屋でお会いしても、笑ってご挨拶させてください」
その声は綺麗だった。
綺麗だからこそ、痛かった。
佐伯さんの足音が遠ざかる。
あたしは、廊下の角から動けなかった。
手の中のボールペンを握る。
聞いてはいけないものを聞いた。
そう思ったのに、胸の奥で何かがほどけていく。
神田君は、待っていると言った。
ずっと、あたしの返事を。
ボールペンを振った。
けれど、もうインクは出なかった。
3
佐伯さんは来た道を戻らず、搬入口へ通じるドアから出たようだった。
風にあたりたかったのかもしれない。
あたしが彼女ならそうすると思う。
とりあえず、鍵はいつまでも持ってるわけにはいかない。
曲がり角まで歩いて、右へ曲がる。
右折する前に、神田君と鉢合わせした。
そうなると思ってた。
神田君は、立ち止まってあたしを見た。
「前田さん」
あたしは、足が凍ったように固まっていた。
立ち聞きではなく、聞こえただけだ。
聞いていないふりをするのも、ガラじゃない。
「モテるね」
神田君の口調も少し硬かった。
「聞いてました?」
「聞こえたのよ」
神田君は両手を下ろし、ぎゅっと拳を握っていた。
「俺、誰にでも言ってるわけじゃない」
「前田さんにしか言ってないです」
「何回も言ってるから、軽く聞こえるかもしれないけど」
「はぐらかされても、軽くいなされても、最悪拒絶されても、関係を壊したくなかった」
「軽く言うしか、自分にはできなかった」
ああ…この人は、本気だった。
それを自分の都合で、待たせた。
こんな、あたしを辛抱強く。
「あんた、軽いから」
「誰にでも愛想いいし、年下だし」
「バカな話して、笑って話せるのが楽だったの」
「付き合って、うまくいかなかったら?」
「今の心地いい距離まで、なくなってしまうのは嫌だったの」
神田君は、凍り付いて足が廊下に張り付いているあたしのそばまで来た。
「俺は」
「終わらせたいんじゃなくて」
「ちゃんと始めたい」
深呼吸みたいに、深く息を吸ってからあたしは言った。
「もう、待たせないから」
神田君が息を止めた気がした。
「一回、ちゃんと付き合ってみる?」
「お試し期間?」
神田君が苦笑い。
しっかり顔を上げて、自分よりずっと高いところにある彼の目を見た。
「文句ある?」
「ないです」
あたしは、手に持っていた収納庫の鍵を差し出して言った。
「亮」
亮は、鍵ごとあたしの手を握った。
「今、呼ばれました?」
「あんた、亮だよね?違った?」
「神田」
「亮です」
相変わらず、亮はあたしの手を両手で包んだままだった。
「いい加減離して」
いつまで経っても手を離さない亮に言った。
「やだ」
「職場だよ」
「わかってます」
あたしは、空いた手でポケットから、インクの尽きたボールペンを出した。
「これ、返すから」
「明日、新しいのちょうだい」
亮は、やっと手を放してボールペンを受け取った。
「うん」
「今日、一緒に帰ってくれたら」
その声は、彼があたしにだけ言う、小さなわがままみたいだった。
仕事を終えて通用口を出ると、亮が待っていた。
「駅までね」
「ホームまで」
「いつもでしょ」
歩き出すと、亮があたしの手を取った。
嫌じゃなかったから、黙っていた。
手が大きかった。
年下のくせに。
軽いくせに。
でも、離す気にならなかった。
ホームの入り口で手を離した時、亮が言った。
「恵美さん、明日、ボールペン持って行きます」
恵美さん…
ちょっと、びっくりしたけどポーカーフェイスで返した。
「うん。忘れたら、一緒に帰ってあげない」
そう言うと、亮は笑って言った。
「忘れない。俺を信じて」
信じてるから、手を離さなかったんでしょ。
電車がホームに入ってくる音がした。
あたしが階段を登りきるまで、亮はそこに立っていた。
エピローグ
数日後。
大蔵屋百貨店、一階インフォメーションカウンター。
あたしは新しいボールペンで、遺失物台帳に記入していた。
あたしは、この作業が嫌いだ。
今までよく、掠れたボールペンでがんばっていたものだ。
最終的に、高価なものは警察に届けることになるので、事細かく書くのが本当に面倒臭い。
でも、今は振らなくても線が出る。
隣にいたひよりが、それに気づいた。
「恵美、ボールペン新しくなってる」
「まぁね」
「神田さん?」
「なんでそう思うのよ?」
ひよりは、いつものようにきれいに笑った。
その顔は、もうだいたい知っている人の顔だった。
「違うの?」
「……違わない」
言ってから、少しだけ後悔した。
「恵美が嬉しそうでよかった」
「そう見える?」
「うん」
今日のひよりは、鋭いじゃないの。
それはそれとして……、これは遺失物台帳に何と書けばいいのか一向に分からない。
たぶん、家電の一部だ。
何かの蓋?
悩んでいると、台帳に影が差した。
顔を上げると、亮だった。
「書きやすいですか?」
「前のよりはね」
「そうだ、応援の話は?」
「月に数回くらい、異動じゃない」
「紛らわしいわね」
「俺のせいじゃない」
「それより」
「今日、待ってます」
「知ってる」
ひよりはにこにこしながらこちらを見ている。
「ひより、顔緩んでるよ」
そう言って亮を見たら、亮の顔も緩んでいた。
全く、どいつもこいつも。
あたしはため息をついて、遺失物台帳に丸をつけた。
今度は、ちゃんと濃い丸になった。
ひより日和 婚約編 神田亮×前田恵美 スピンオフ「ボールペンのインクが出るまで」おわり




