第1話 「空白の3日」
1
暑い日が、続く。
世間は、夏休み直前だ。
大蔵屋百貨店、総合インフォメーションカウンターは、朝から忙しかった。
夏休みの企画展が、また始まる。
終わった企画や催事のパンフレットの廃棄。
案内を入れ替えたり、車椅子を貸してほしいというお客様も午前中に2人来られた。
ちょっと、落ち着いたのはお昼を過ぎたころだった。
隣に立つ同期の前田恵美が、廃棄する書類の裏にボールペンで丸を書いていた。
いい加減、新しいのを買えばいいのにと、いつも思っている。
「朝倉さん、出張でしょ?」
「あ、神田さんから聞いたの?」
「うん、神田さんも一緒らしい」
「そうなんだ」
昨日、彼は遅番で22時を過ぎて帰宅した。
夕方、少し食事は摂るはずだけど、私が早番や休みの時は夕ご飯を用意するようにしている。
恒一さんが、箸を取りながら言った。
「急なんだけど、明日大阪で仕事になった」
「え、なんで?」
私は、箸の動きを止めて聞き返した。
「名前は忘れた。歌手かアイドルか……芸能人のライブの警備」
「人が足りないらしい」
そうなのね、と悠長に考えていたけれど。
明日??
「急いで準備しないと!」
箸の動きが早くなる。
恒一さんは、“まぁまぁ、落ち着け”と言いたげな顔で、左手を小さく振った。
「2泊3日だから。」
「そんないろいろいらないだろ?」
そうは言っても、手ぶらじゃ行けない。
小さいキャリーケースは、リビングのクローゼットにあったかしら?と考えていた。
ご飯を済ませた後、恒一さんは後片付けを手伝うと言ってくれたけれど、お風呂に入ってもらった。
明日の朝は、7時の新幹線で行くと言う。
6時には家を出ないと間に合わない。
キャリーケースをクローゼットから引っ張り出して、着替えを詰め込んでいたら、お風呂から上がってきたようだ。
2泊3日用のキャリーケースだけど、男の人の荷物は埋まらないわね。
タオルも1枚だけ入れておこう…
「下着とシャツだけでいいって」
そんな適当な。
「スマホのチャージャーと、洗面台の電気シェーバー持ってきてください」
「寝る時はTシャツでいい?」
「ああ」
「靴下も入れときますね」
「二泊三日だろ」
「二泊三日でも、靴下は要ります」
恒一さんは何か言いたそうにして、結局、洗面台の方へ行った。
半分しか詰まっていないけれど、それでいい。
「半分空いてるから、大阪で何か買っても入りますね」
彼が持ってきたチャージャーと電気シェーバーを入れて、キャリーケースをぱたんと閉めた。
二泊三日。
当務なら、一晩いないことはよくある。
だから、大丈夫。
そう思っていた。
翌朝、彼はキャリーケースを引いて玄関に立った。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけて」
ドアが閉まる音は、思ったより小さかった。
それなのに、部屋は急に広くなった気がした。
……という話を恵美にしたら、彼女はボールペンを振りながら言った。
「三日でしょ?」
「うん。三日だけ」
そう。三日だけ。
そう思って、私はインフォメーションカウンターに視線を戻した。
……ん?
子どもがひどく泣いている。
どこだろうと、見回すと7階の時計・宝飾品売り場の従業員の女性が、泣いている女の子の手を引いてやってきた。
「迷子みたい」
「今ちょっと、大泣きしてて名前まで聞けてないのよ」
3歳くらいだろうか。
女の子は、顔中真っ赤にして、汗まみれになって泣いている。
「わかりました。お預かりします」
女の子のそばまで行って、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「お名前言える?」
女の子は、私を見て少し黙った。
「みおちゃん…」
「お名前ちゃんと言えたね。えらいね」
そう言って、恵美を見た。
恵美がアナウンスの準備をしている。
服装と年恰好など、あのボールペンで軽くメモしている。
『迷子のお知らせをいたします。
ただいま、一階総合インフォメーションにて、3歳くらいの女の子で、黄色のお洋服をお召しの、みおちゃんをお預かりしております。
お心当たりのお客さまは、1階総合インフォメーションまでお越しくださいますよう、お願い申しあげます』
普段とは打って変わって、恵美の丁寧なアナウンスが流れる。
アナウンスを聞いて、宝飾品売り場の従業員が、「お願いします」と売り場へ戻って行った。
私は、しゃがんだまま、女の子に話しかけた。
「もうすぐ、ママ来るからね。お姉ちゃんと一緒に待ってようね」
そう言って、立ち上がると、女の子は私のスカートを小さな手で掴んでいた。
「みおちゃん、こっちで座って待とうか」
そう言っても、女の子は首を横に振った。
小さな手は、私のスカートを掴んだままだ。
恵美が少し笑う。
「ひより、懐かれてるね」
「それどころじゃないよ」
取り急ぎ、カウンター横の待機スペースへ連れてきてみたけれど、スカートを掴まれたままだ。
離れようとすると、泣きそうな顔になる。
子どもは得意だと思ったことがない。
でも、こんなふうに小さな手で掴まれると、振りほどけない。
みおちゃんのお母さんがなかなか戻らない。
何かあったんだろうか。
10分、15分。
恵美がもう一度アナウンスを入れるか迷っていた。
「もう一回、流す?」
「うん。お願い」
すると、水野君がお母さんらしき女性を連れてきた。
ベビーカーを押していて、1歳くらいの赤ちゃんが乗っている。
それを見たみおちゃんは、私のスカートから手を離して、また泣き出した。
「マーマァー!」
さっきより大きな声だった。
けれど、それは怖くて泣いている声とは少し違う気がした。
やっと見つけた安心で、張りつめていたものが切れたのだろう。
お母さんはベビーカーを離して、みおちゃんを抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね」
水野君が、軽く事情を説明してくれる。
「七階の時計売り場にいらっしゃいました。腕時計の修理の依頼に来られて、そのあと、赤ちゃんのオムツ替えでお手洗いへ行かれたそうです」
母親に抱かれたみおちゃんは、やっと会えた安心からか、また大きな声で泣いている。
寂しくて、不安だったに違いない。
「そこにいると思ってたのに、いなくなってしまって……」
お母さんは、何度も頭を下げた。
赤ちゃんのオムツ替えに手間取って、すぐには探しに行けなかったようだ。
売り場にいた水野君が事情を聞いて、ここまで連れてきてくれたらしい。
「見つかってよかったです」
そう言うと、お母さんはもう一度深く頭を下げた。
ほんの十五分。
でも、みおちゃんには長かったのだろう。
たった三日。
そう思っていた言葉が、ふと胸の奥に引っかかった。
十七時に引き継ぎをして、退勤した。
自宅の最寄駅近くの、いつものスーパーで買い物をして帰る。
今日はひとりなのに、彼が好きなものを作ろうと無意識に考えている自分に気づいた。
彼が帰ってくる二日後のご飯は、何にしよう。
帰りは遅いのかしら。
ビールは数本あったはず。
明日も帰ってこないのに、なぜか揚げ出し豆腐を作らないと、と思う。
スーパーの二階には、お手頃価格の婦人服、フォーマルウェアのテナント、本屋が入っている。
そこで紳士物の靴下を見つけて、三足買った。
これで明日は、スーパーに寄らないで済むだろう。
帰宅してからは、洗濯物を取り入れた。
作り置きのお惣菜と、朝炊いて残ったご飯で夕食を済ませる。
お風呂上がりに、彼のシャツにアイロンをかけて、ベッドに入った。
普段の当務なら、彼は明日の朝、帰ってくる。
けれど今回は、明日も帰ってこない。
そう思うと、部屋の静けさが急に大きくなった。
たった三日。
そう思っていた一日目の夜は、思ったより長かった。
ただでさえ大きなベッドが更に大きく感じる。
そう思っていると、スマホが震えた。
〈ホテルに着いた〉
〈そっちは変わりない?〉
画面に彼の名前が灯っただけで、胸の奥が少し緩む。
〈迷子の女の子をお預かりしました〉
〈私のスカートをずっと掴んでいて〉
〈小さな手って、あんなに必死なんですね〉
送ると、少しして返事が来た。
〈ひよりは子どもに好かれそう〉
そんなことない、と打とうとして、少しだけ笑った。
2
新大阪に着いたのは9時を少し過ぎた頃だった。
6時に家を出て、9時にはもう、大阪だ。
このまま、現場へ直行するので、ホテルへのチェックインは夜だろう。
昨日は、ほとんど、ひよりが出張の準備をしてくれた。
そのくらいは、自分で…と思ってはいた。
2泊3日なら、下着とシャツだけで十分で、大きな荷物はいらないと思っていた。
でも、ひよりから、電気シェーバーとスマホのチャージャーを持ってこいと言われて、それもあったかと思った。
新幹線の下りホームで、神田に会った。
神田も一人暮らしなので、軽そうな荷物かと思っていたが、俺と同じようなキャリーケースだった。
新幹線の中で、神田に言った。
「お前は、手ぶらに近いと思ってた」
「いや、暑いじゃないですか」
「前田さんに帰りキツイかもだから、キャリーで行けって」
「全部、荷物で埋めないで空いたところにお土産入れて帰ってこいって言われました」
ああ、俺のキャリーの半分が空なのはそのせいか。
ひよりは自分に土産を買ってこいとは言わなかった。
たぶん、警備室への土産を想定してたのだろう。
現場に着いたのは10時くらいだった。
現場には係長がいた。
現場仕事では班長と呼ばれている。
この人とは、何度か仕事をしたことがあったので、顔見知りだ。
挨拶に行った。
「ひさしぶりだな。朝倉。わざわざ、すまんな」
「荷物、向こうの黒いバンに入れて、着替えたら搬入口」
「了解です」
機材の搬入はおおかた済んでいるようだったが、まだ少し残っているらしい。
黒い制服は夏の日差しがキツい。
ひよりがタオルを入れておいてくれて、助かった。
ライブは19時開演だが、こちらは非常口や避難経路、楽屋の点検など事前に済ませることも多い。
入場が始まれば、入場者の手荷物検査と金属探知。
チケット確認エリアまでの動線、ロープでバリケードとそれなりの人員がいる。
俺は、身辺警備の経験があるからか、開場後はバックヤードの楽屋周辺を警戒、ステージの袖での不審者警戒を任された。
とにかく、暑い。
バックヤードはエアコンもそんなに利いていない。
やっぱり、ひよりは優秀だ。
タオル1枚、あるとないで大きく違うだろうと思った。
2時間のライブが終わった。
ライブが終わっても、出演者がすぐに出るわけではない。
飲んだり食べたり、関係者に挨拶をしたりで、車に乗り込むまでには時間がかかる。
こちらは、その間ずっと楽屋前で立ちっぱなしだ。
前を通りかかったスタッフらしき女性が声をかけて来た。
「警備のお仕事に慣れてらっしゃるのね」
「お仕事振りが完璧ですね」
「ありがとうございます」
それだけ言った。
相手は、しばらく動かなかったが、黙っていたら楽屋へ戻って行った。
面倒だ。
数メートル先に立っていた神田が、もっと面倒だったが。
「主任、相変わらず、モテますね」
「うるさい」
お前のよく回る舌は、いつか縛ってやる。
22時を過ぎて、ようやく業務が終わった。
ホテルのフロントでカードキーを受け取った。
さっさとシャワーでも浴びて寝るかと思っていたのに、また神田だ。
「主任、飯行きましょう」
「暑いのに、お前は元気だな」
嫌味を言ったつもりなのに、一向に堪えてないのが神田だ。
「大阪まできて、コンビニの弁当はないでしょう」
「明日もある」
「だから、しっかり食わないと」
23時前だったが、ホテルの近くの串カツ屋へ入った。
暑いので、ビールが旨い。
「主任は今日もスマホよく見てましたよね」
お前は俺の観察でもしているのか。
「見てない」
「ひよりさんから、連絡ありました?」
ぐびぐびとジョッキを傾けて、半分くらいになっている。
「ひよりさんって言うな」
「いや、だって、そのうち朝倉さんでしょ?あの人も」
「じゃあ、もう、ひよりさんでよくないですか?」
串カツは旨いが、隣のこいつがうるさい。
ちょっと黙らせてやろうと思った。
「お前はどうなんだ。前田さんと付き合ってるのか?」
カウンターに肘をついて、ジョッキを触りながら神田が言う。
「うーん。俺は、何回も付き合ってって、言ってますけどね」
何回も……?
そんなこと、何回も言えるものか。
「前田さんが嫌だって?」
「嫌とは言わないですけど……はぐらかされてます」
「そうか。まあ、がんばれ」
神田が黙った。
黙らせるために聞いたら、本当に黙ってしまった。
ぽつりと神田が聞いてきた。
「主任は、1回で決めたんですか?」
「プロポーズしたんでしょ」
「ああ。ずいぶん考えた」
「俺だけで決める話じゃないから」
神田は珍しく、真面目な顔になって言った。
「俺は……言っても言っても、前田さんが笑って逃げるんですよ」
「嫌なら飲みに行かないだろ」
「そうなんですよね」
「だから、俺、待ってるんです」
「待てるなら、待てばいい」
「主任は、さっさと終わらせて帰りたそうだ」
「ああ、帰りたいね。家に」
「ひよりさんに会いたいだけでしょ?」
「悪いか?」
「いや、羨ましいです」
ホテルの部屋に戻ったのは、0時を回っていた。
部屋は、ひとり取り残されたように静かだった。
ひよりと暮らすより前に住んでいた場所も、音のない部屋だった。
よく、あんな耳鳴りするような部屋にいたものだと思う。
今の家は、音があって色がある。
ひよりがいるから。
ポケットからスマホを取り出して、ひよりにLINEを送った。
〈ホテルに着いた〉
〈そっちは変わりない?〉
もう寝ているかと思ったが、すぐに返信があった。
〈迷子の女の子をお預かりしました〉
〈私のスカートをずっと掴んでいて〉
〈小さな手って、あんなに必死なんですね〉
子どもか…
もし、いつかそんな日が来るなら。
ひよりに似ていればいいと思った。
泣き虫で、優しくて、きっと可愛い。
〈ひよりは子どもに好かれそう〉
あと1日が、ひどく長い気がした。
3
今日、恒一さんが帰ってくる。
帰ってくるその時間がわからないけれど。
夕ご飯は、家で食べるよね?
何を作ろう。
彼の好きな「揚げ出し豆腐」は外せない。
暑かっただろうし、疲れてるだろうから豚の生姜焼きなんかいいかも?
お味噌汁もあったほうがいいよね。
お野菜いっぱい入れて。
「すみません」
声を掛けられて、我に返る。
あわてて、笑顔。
「いらっしゃいませ。お伺いいたします」
今日は、この調子でずっと帰ってからのことばかり考えている。
「ひより」
恵美だ。
「顔。緩みすぎ」
緩んでる?
失礼な。機嫌がいいって言ってよ。
「3日でしょ?あんたには、3日でも長いんだろうね」
恵美の千里眼にはかなわない。
そんなにわかりやすいのかな?
気を付けよう。
「神田さんだって、今日帰ってくるじゃん」
「一緒にご飯食べるとか、予定ないの?」
恵美はフンと鼻を鳴らして言った。
「誘われてないから」
「誘えばいいじゃん」
「疲れてるだろうし。あたしからは誘わないことにしてんの」
「どうして」
「なんとなく」
恵美には恵美の思うところがあるのかもしれない。
これ以上、聞くのはよそうと思った。
***
朝から撤収作業だ。
もう、ライブは終わっているので、軽い。
ステージ解体・機材搬出の車両誘導と安全確保。
このくらいだ。
それなのに、なぜか時間がかかった。
大がかりな装置で派手にやっていたからかもしれない。
とにかく暑い。
昼までに終わると思っていたのに昼過ぎまでかかった。
神田と遅い昼飯を食って、土産を買いたいというので付き合った。
早く帰りたい気持ちはあるが、土産はあったほうがいい。
現場から、環状線で大阪駅へ。
どうせ、新大阪までの通り道だ。
東京と比べて、大阪はガヤガヤしている。
うるさいというより活気がある。
こういう雰囲気は、結構好きだ。
そのうち、ひよりともう一度訪れたい。
神田が珍しく、申し訳なさそうに言った。
「主任、付き合わせてすいません」
新大阪でも土産は買えるだろうが、繁華街のほうが選択肢は多い。
「いや、俺もひよりに買うから」
「職場にも」
普通に受け答えたら、神田がこちらを向いて笑う。
「ひよりって、呼んでるんですね」
もう、誰に何を言われようが、どうでもよくなってきた。
帰る時間が、予定より少し遅れそうだ。
〈少し、遅くなりそう〉
〈晩御飯は先に食べてて〉
ひよりにLINEを送った。
返信は早かった。
〈わかりました〉
〈気をつけて帰ってきてください〉
通知音で、神田が気づいたようだ。
「ひよりさん?」
「晩飯、先食ってろって送ったら、わかりましたって」
神田が真面目な顔で言った。
「主任。鈍そうだから言いますけど…」
「それ真に受けないほうがいいですから」
「先に食うわけないでしょ」
「わかってるよ」
うるさそうな顔をして言い返したが、実はわかっていなかった。
***
退勤の少し前。
恒一さんからのLINEが届いた。
〈少し、遅くなりそう〉
〈晩御飯は先に食べてて〉
遅くなるのね。
すぐに、返信した。
〈わかりました〉
〈気をつけて帰ってきてください〉
食べないで待ってると言えば、彼は急いで帰ろうとするだろう。
そういう人だから。
疲れているだろうから、ゆっくりでいい。
必ず、帰ってくるんだから。
17時。定時に退勤して、自宅のある最寄り駅に着いたのは18時前だった。
この時間でも明るいのが嬉しい。
この駅前はショッピングモールとスーパーと本屋もあるし雑貨屋さんもいっぱいだ。
タワーマンションもどんどん建って、朝の駅はすごいことになるけれど。
スーパーで買い物をした。
豆腐は絶対。
豚肉も絶対。
朝ごはん用にもいろいろ。
たった3日離れていただけなのに、私はひどく浮かれている。
毎日一緒にいて、ご飯を食べて、朝起きたら隣に彼がいる。
彼がいて、当たり前の世界で生きている。
彼と離れていた3日間、私の世界は色を失ってはいない。
だけど、今日はその色が昨日よりも、もっと鮮やかに見えるのは気のせい?
早く帰って、夕ご飯を作ろう。
彼がいつ帰ってきてもいいように。
***
新大阪の待合スペースで、大阪駅の周辺で買った土産をキャリーケースの片側の空スペースにすっぽり入れた。
さすが、ひよりだ。完璧だ。
神田はまだ、新大阪駅の構内でも何か買いたそうにしていたが、俺が先を急ぐとついてきた。
そうだ、さっき神田に言われたように、彼女は待っている。
急いでほしくない、急かしたくない、そういう気づかいだとわかった。
大阪のホテルは、静かで空調も快適だった。
ベッドも悪くない。
体感だけでは、そうだ。
でも、ひよりのいる場所が自分のいる場所だと外へ出て実感した。
俺たちの部屋へ、早く帰りたい。
そう思うだけで、少し足が速くなった。
***
ちょっと、作りすぎたかもしれない。
お風呂も沸いている。。
お肉は焼くだけ。
豆腐は、熱いお出汁を掛ければ大丈夫。
お味噌汁は鍋の中。
窓辺の小さな置時計を見る。
20時45分。
音がする。
キャリーのホイール音だ。
鍵を回転させる音。
ドアが開かれる。
「ただいま」
小さな玄関にキャリーケースを置いて、彼は靴を脱ぎ切らないまま、少し腕を広げた。
おかえりなさいも言えないまま、その胸に飛び込んだ。
私を優しく抱きしめて彼が言った。
「遅くなった」
彼の胸に頬を付けたまま、背中へ回した腕に力が入る。
「待ってました」
「もう、ご飯食った?」
「まだ」
「だと思った」
恒一さんが、お風呂から出てきてテーブルをじっと見ていた。
「今日は、祭りでもあった?」
笑っている。
私は、顔が上気するのがわかって、ちょっと恥ずかしかった。
「あなたが帰ってくる日だから」
恒一さんは、私の頭を撫でて言った。
「待っててくれて、ありがとう」
いただきますの直前に、恒一さんが出してきた私への大阪土産。
「大阪限定フレーバーのカスタードプリン」
「わぁー!あとで一緒に!」
恒一さんは「うん」と頷いて言った。
「今度は一緒に行こう」
「出張じゃなくて?」
「旅行で」
こんな暖かい食卓で、近い未来の旅行の話をする。
幸せって、こういうこと。
3日分の空白が、食卓の湯気にほどけていった。




