第92話 守るための嘘
私は嘘をついた。
それは小さな嘘だった。
王の眠り補助手順に関する記録で、私の代償を軽く書いた。
甘さの喪失。
喜びの遅れ。
感情鈍麻。
本当は、森から戻ってからもう一つ、欠けたものがある。
母の声を思い出す時、最後の一音だけが曖昧になった。
大切な記憶は残っている。
母の手も、言葉も、白い花弁も。
でも、私を呼ぶ声の終わりだけが、霧の向こうにある。
それを書かなかった。
書けば、王の共眠補助が危険だと貴族院に攻撃される。
陛下がまた自分を責める。
仮婚約の見直しも、候補者宣言も、全部が揺れる。
だから私は、記録を少しだけ軽くした。
嘘は、すぐに花へ出た。
白い契約花の花弁に、小さな灰色の点が浮かんだ。
最初に気づいたのはイオだった。
「ミラ様」
彼女の声が震える。
「この点、昨日はありませんでした」
私は道具箱を閉める手を止めた。
リディア様が記録紙を確認する。
そして、私を見る。
優しい顔ではなかった。
上級修復師の顔。
記録を守る人の顔。
「何を書きませんでしたか」
胸が冷える。
「大したことでは」
「その言い方は、大したことがある時です」
逃げられなかった。
私は二人に話した。
母の声の最後が曖昧になったこと。
それを記録しなかったこと。
イオは泣きそうになり、リディア様は深く息を吐いた。
「なぜ」
責める声ではない。
だから、余計につらい。
「陛下を守りたかったんです」
言った瞬間、自分で嫌になった。
守るための嘘。
なんて便利で、危うい言葉だろう。
先代王も、国を守るためと言った。
花冠院も、制度を守るためと言った。
ヴァーン公爵も、娘を守るためと言うかもしれない。
私の嘘は、それらと違うと言えるのか。
リディア様は静かに言った。
「陛下へ話しましょう」
「今は」
「今です」
逃げ道はなかった。
王宮書庫で、アシュレイ陛下は私の話を最後まで聞いた。
顔色が変わる。
予想通り、痛そうな顔。
それを見るのが嫌で、私は嘘をついたのだ。
「なぜ言わなかった」
声は低い。
「陛下を守るためだと思いました」
「私を守るために、君の欠落を隠したのか」
「はい」
「それは、私が一番嫌うことだ」
胸が刺されたように痛む。
分かっている。
彼は一人で背負うことをほどこうとしている。
私は、その彼にまた背負わせまいとして、自分の欠落を隠した。
逆向きに見えて、同じ誤りだ。
「ごめんなさい」
声が震えた。
陛下は目を閉じた。
怒っている。
でも、それ以上に悲しんでいる。
「謝罪は受け取る。だが、記録は修正する」
「はい」
「そして、私も謝る」
私は顔を上げた。
「なぜ」
「君が隠せば私が壊れると思わせた。私の責任だ」
「違います」
「違わない」
彼はゆっくり言った。
「私たちは、互いを守ろうとして嘘をつく危険がある」
その通りだった。
恋を知ったからこそ、相手を守るために歪むかもしれない。
それは甘いだけではない。
怖いことでもある。
白い契約花を机に置く。
灰色の点が、まだある。
私は修正記録を書いた。
母の声の末尾、一部不明瞭。
短い一文。
でも書くのに、ひどく時間がかかった。
書き終えると、灰色の点は消えなかった。
ただ、広がるのをやめた。
嘘はなかったことにはならない。
でも、これ以上花を曇らせないことはできる。
私はそれを、痛みとして覚えておくことにした。




