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第9話 恐怖で枯れた婚約花

 花冠院長オルド・マグラスは、花より石に近い人だった。


 年は五十代後半。

 白髪を後ろへ撫でつけ、深緑の修復師正装を着ている。胸元には、花冠院長だけがつける金の鋏飾り。


 花を切るための鋏ではない。

 誓約の余分を整える権威の象徴だ。


 私はその鋏飾りを見た瞬間、あまり好きになれないと思った。


 もちろん、顔には出さない。

 覚えていることを顔に出さない練習をしろ、とリディア様に言われたばかりだ。


 院長はアシュレイ陛下へ深く礼をした。


「陛下。花冠院長として、仮婚約者様の花冠修復補佐任命についてご説明を求めに参りました」


 怒りに来たのではなく、説明を求めに来た。

 王宮では違うことになっている。


 昨日の陛下の言葉を思い出す。


「説明は文書で出した」


 陛下は執務机の向こうに座っている。

 私はその斜め後ろ。仮婚約者としては控えめすぎ、修復師としては近すぎる位置だ。


 ノア様は扉の横。

 リディア様は記録机。


 そして机の上には、十五番の婚約花冠。


 オルド院長は、それを見ても表情を変えなかった。


「王家花冠修復は上級修復師の職務です。下級修復師に補佐させる前例はございません」


「前例のある異常なら、君たちで解決できただろう」


 陛下の声は静かだった。


 院長はわずかに頭を下げる。


「昨夜の件については、花冠院としても遺憾に存じます」


「上級修復師が三名倒れ、一名が弟の名を忘れた」


「花冠の反応が予想を超えました」


「予想を超えた時、君たちは原因を読めなかった」


 院長の目が一瞬だけ私へ向いた。


「だからといって、記録にも残らない能力を持つ下級修復師に頼るのは危険です」


 私のことだ。


 陛下は言う。


「記録に残っていない能力を把握しているのか」


 院長は一瞬沈黙した。


 小さな隙。


 花冠院長ほどの人でも、完全な花冠ではない。


「十五番の件で、そう推察いたしました」


「なら、その十五番について説明してもらおう」


 陛下が机の上の花冠を示す。


「不誠実による破談として処分承認済みだった。だが再調査で、恐怖反応と封印糸が見つかった」


 院長は初めて、ほんの少し眉を動かした。


「封印糸ですか」


「知らなかったか」


「確認が必要です」


「確認はする。だが花冠院の封印糸が不正に使われた可能性がある」


「盗難の可能性もございます」


 リディア様と同じ言葉。

 けれど、院長が言うと意味が違う。


 守るための可能性ではなく、逃げるための可能性に聞こえる。


 私は十五番の花冠を見た。


 小さく震えている。


 恐怖。

 恐怖は、まだここにある。


「ミラ・リース」


 院長が私の名を呼んだ。


「はい」


「君は、この花冠を恐怖で枯れたと判断したそうだね」


「はい」


「どう読んだ」


 部屋の空気が変わる。


 リディア様が顔を上げた。

 ノア様が少しだけ身構えた。


 私は答え方を選ばなければならない。

 残響を読めると認めれば、花冠院に捕まる。

 嘘をつけば、花を裏切る。


「形、香り、黒染みの位置です」


 嘘ではない。

 それらも読んだ。


「それだけで恐怖と?」


「不誠実の腐敗は根から始まります。この花冠は根が守られ、中心だけが圧迫されていました。恐怖で誓約を曲げられた時に似ています」


「誰に教わった」


「第三修復室の花冠です」


 院長の目が細くなる。


「花が教えたと?」


「壊れた花冠は、よく似た壊れ方をします」


 また嘘ではない。


 院長はしばらく私を見ていた。


 私は顔に出さない練習をした。


 怖い。

 でも、幸いなことに、恐怖は昨日より少し鈍い。


「陛下」


 院長は視線を戻す。


「十五番については、花冠院内で再確認いたします」


「君たちに戻すつもりはない」


 陛下の声が落ちた。


「王命で再調査する。証拠品は王宮管理とする」


「花冠院の権限を侵すおつもりですか」


「花冠院の権限で花が偽られた可能性がある」


 院長は黙った。


 長い沈黙。


 その間、十五番の花冠がぴたりと震えを止めた。


 私は息をひそめる。


 花が、何かを待っている。


 院長はゆっくりと礼をした。


「承知いたしました。王命であれば、花冠院は協力いたします」


 言葉だけなら従順だった。

 けれど、その瞬間、十五番の花冠の黒い染みが一瞬だけ濃くなった。


 恐怖。


 この花は院長を恐れている。


 私は思わず花冠へ手を伸ばしかけた。


 陛下がそれに気づいた。


 何も言わない。

 けれど、私の前に書類を一枚置いて、院長から手元を隠した。


 小さな動きだった。

 王としての防御ではなく、人としての庇い方だった。


 胸の奥が少しだけ温かくなる。


 院長が退室したあと、私はようやく息を吐いた。


「十五番は、院長を怖がっています」


 ノア様の顔が険しくなる。


「断定できるのか」


「残響ではありません。反応です。院長が協力すると言った時、黒染みが濃くなりました」


 リディア様が目を閉じた。


「オルド院長が直接関わっているか、少なくとも花冠はそう感じている」


 陛下は机の上で指を組んだ。


「花冠院の封印糸の保管記録を調べる」


「院長が隠すでしょう」


「なら、隠した痕跡を調べる」


 私は十五番の花冠をそっと箱へ戻した。


 恐怖で枯れた花は、まだ何かを知っている。


 そして王宮の奥には、もっと大きな恐怖が黒い鱗として咲いている。


 小さな婚約花冠と王家の戴冠花冠。


 二つの花冠は、別々の事件ではない。


 その確信が、私の中で根を張り始めていた。


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