第10話 封印糸のほころび
花冠院の封印糸は、ただの糸ではない。
誓約花の状態を固定し、外部からの改変を防ぎ、修復師が読み取った記録を花冠に留めるためのものだ。
本来なら、修復を守るために使われる。
けれど十五番の婚約花冠では、恐怖の枯れ方を不誠実の腐敗に見せるために使われていた。
守るための糸が、嘘を縫いつけていたのだ。
封印糸の保管記録を調べるには、花冠院の糸庫へ入る必要がある。
当然、院長の許可がいる。
そして院長は、許可を出さなかった。
「糸庫は花冠院の管理領域です。王命であっても、手続きがございます」
オルド院長の返答は、見事なほど丁寧だった。
丁寧な拒絶は、乱暴な拒絶より厄介だ。
アシュレイ陛下はその文書を読み、短く言った。
「ノア」
「はい」
「合法的に面倒にしろ」
「承知しました」
合法的に面倒にする、という言葉を私は初めて聞いた。
具体的には、宰相府、王宮監査官、騎士団物資管理部、神殿誓約監督官へ同時照会を出すことだった。
花冠院の糸庫は花冠院の管理領域だが、封印糸には王家花材庫から提供された銀繊維が含まれる。王家花材庫は宰相府の管轄で、銀繊維の誓約認証には神殿が関わる。
つまり、花冠院だけの問題ではない。
王宮という場所は、花冠のように複雑に編まれている。
一か所を引くと、思わぬ場所がほどける。
その日の午後、私はリディア様に連れられて旧作業室へ向かった。
糸庫へ直接入れないなら、封印糸が使われた花冠の過去記録を見る。
記録から糸の番号を追う。
リディア様の提案だった。
「ただし、公式記録は当てにならないかもしれない」
「偽られているからですか」
「偽られている記録と、偽った人間が偽ったことを忘れるために残した記録がある」
「後者は何ですか」
「良心の言い訳よ」
旧作業室は、第三修復室より古かった。
壁には使われなくなった道具が並び、棚には古い花冠の写し絵が積まれている。窓は小さく、昼なのに薄暗い。
リディア様は棚の奥から、赤い背表紙の記録帳を取り出した。
「封印糸使用控え。十年前から五年前まで」
「持ち出していいものですか」
「よくないわ」
「では」
「だからここで見るの」
リディア様は思ったより大胆な人だった。
私たちは記録帳を開き、十五番の封印糸に似た記録を探した。
封印糸には番号がある。
花材、染料、銀繊維の配合、封印者の署名。
十五番に使われていた糸は、赤みが強く、銀繊維が細い。特徴だけなら、五年前に製造された第二七束に近い。
第二七束。
使用先は、三つ。
一つ目、商会同盟花冠。
二つ目、地方騎士団忠誠花。
三つ目。
王妃候補花冠試作。
私は指を止めた。
「王妃候補」
リディア様の顔が曇る。
「セレスティア様の選定準備ね」
胸元の咲かない蕾を思い出す。
彼女は花を踏まない。
けれど、彼女自身の花は咲いていない。
「この糸は、セレスティア様にも使われた可能性が?」
「試作記録だけでは断定できない。でも、つながりはある」
その時、旧作業室の外で足音がした。
リディア様が素早く記録帳を閉じる。
扉が開き、若い正修復師が顔を出した。
「リディア様。院長がお呼びです」
「今行くわ」
彼の視線が、私と記録帳の間を一瞬だけ動いた。
見られた。
リディア様も気づいたようだった。
「ミラ。あなたは先に戻りなさい」
「でも」
「戻りなさい」
強い声だった。
私は記録帳の番号だけを記憶し、旧作業室を出た。
廊下を曲がったところで、背後から声がした。
「仮婚約者様」
振り返ると、さきほどの若い正修復師が立っていた。
柔らかい顔立ちの青年だ。
けれど、目が笑っていない。
「旧作業室は、下級修復師が入る場所ではありません」
「今は仮婚約者です」
「便利な立場ですね」
「便利ではありません」
「では、危険な立場だ」
彼は一歩近づいた。
「花を読みすぎる人は、自分が読まれていることに気づかない」
胸が冷えた。
「どういう意味ですか」
「院長は、あなたが何を失う力を持っているか知りたがっています」
彼はそれだけ言って、去っていった。
私はしばらく動けなかった。
何を失う力。
花を読む代償は、私だけが知っているはずだった。
昨夜、陛下とノア様には話した。
リディア様にも少し知られた。
でも院長が知りたがっている。
それは、私を道具として使うためか。
あるいは、私を壊すためか。
王の書庫へ戻ると、アシュレイ陛下が待っていた。
「顔色が悪い」
「院長に、私の代償を知られるかもしれません」
陛下の目が冷たくなった。
「誰から聞いた」
「分かりません。でも、旧作業室で第二七束の記録を見ました。十五番の糸と、王妃候補花冠試作がつながっています」
「セレスティアか」
「まだ可能性です」
「可能性で十分だ。ノア」
ノア様が扉の外から入ってくる。
「第二七束の糸の所在、王妃候補花冠試作、セレスティア嬢の誓約花。この三つを調べろ」
「承知しました」
陛下は私を見る。
「君はしばらく単独行動禁止だ」
「それは困ります」
「困れ」
「修復が」
「修復師が壊れたら意味がない」
厳しい声だった。
けれど、そこに怒りだけではないものが混じっていた。
心配。
そう受け取っていいのか、まだ分からない。
でも、その言葉で胸の奥が少しだけ温かくなった。
同時に、十五番の箱がかすかに鳴った。
中の花冠が震えている。
私は箱を開けた。
黒い染みの下から、赤い封印糸の端が一本、ほどけかけていた。
ほころび。
嘘は、完全には縫い止められていなかった。




