第11話 甘さを失う代償
封印糸の端がほどけた瞬間、十五番の婚約花冠は小さく息をした。
花冠が息をする、という表現は正しくない。
花は肺を持たないし、誓約は人のようには呼吸しない。
それでも、その時の私はそう感じた。
恐怖で固く閉じていたものが、ほんの少しだけ空気を吸い込んだように見えたのだ。
「触るな」
アシュレイ陛下の声が飛んだ。
私は伸ばしかけた指を止めた。
「でも、今なら読めます」
「だから止めている」
陛下は机の向こうから立ち上がった。
眠っていない体に無理をさせる動きだった。椅子の脚が床をこすり、ノア様が一歩前へ出る。
「陛下」
「構わない」
構わないはずがない。
陛下の顔色は、朝よりさらに悪い。目の下の影が濃く、指先はかすかに震えている。
それでも、私の指先の方を見ていた。
「君はさっき怒りを失ったと言った」
「少しです」
「少しを積み重ねて、何が残る」
答えられなかった。
花を読むたび、私は何かを少しずつ失う。
味。
匂い。
怒り。
喜び。
怖さ。
戻るものもある。戻らないものもある。
けれど、戻らないものを数え始めると、手が止まる。
だから数えないようにしていた。
「修復師が壊れたら意味がない」
陛下は第十話の終わりと同じ言葉を、今度はもっと低い声で言った。
「陛下も壊れかけています」
ノア様が息を呑む。
王に向かって言う言葉ではない。
分かっている。
でも、陛下の寝室になれない書庫と、眠りを避けるための香草と、奪った記憶の札を見てしまったあとでは、言わずにいられなかった。
陛下は怒らなかった。
ただ、疲れたように目を伏せた。
「そうだ。だから、同じ壊れ方を君にさせたくない」
その言葉は、命令ではなかった。
願いだった。
願われることに、私は慣れていない。
第三修復室で私に向けられる言葉は、命令か叱責か、せいぜい雑用の追加だった。
花の墓場で、私自身が壊れないように気をつける人はいなかった。
私は十五番の花冠から手を引いた。
「では、読む前に記録します」
「記録?」
「今の私に残っているものを」
陛下は少しだけ眉を寄せた。
私は紙を取り、書き始めた。
杏の砂糖漬けの匂いは、まだ遠い。
甘さは分かりにくい。
怒りは鈍い。
恐怖は戻りかけている。
嬉しさは、少し遅れて来る。
書いているうちに、情けなくなった。
こんなものを記録してどうするのだろう。
でも、記録しなければ私は自分の欠けた場所さえ分からなくなる。
リディア様が静かに紙を受け取った。
「これからは、読む前と読んだ後に記録をつけましょう」
「花冠の状態ではなく、私の?」
「あなたも修復対象よ」
その言い方があまりに真面目で、私は少し笑いそうになった。
笑えた。
まだ笑える。
陛下もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「読め。だが限界を感じたら即座に離せ」
「はい」
私は十五番のほころびに触れた。
今度の残響は、前より鮮明だった。
暗い部屋。
エミリア様の震える手。
ローレン・ディクスの声。
君が悪いことにすれば、全部丸く収まる。
花冠院も話を通してある。
封印糸は、きれいに不誠実を作ってくれる。
別の声がした。
低く、年配の男。
花は真実を言うのではない。真実として扱われる形を持てばよい。
顔は見えない。
けれど、金の鋏飾りが見えた。
私は指を離した。
甘さが、さらに遠くなった。
リディア様がすぐに聞く。
「何を失った?」
「甘さです。たぶん、少し」
「記録して」
私は震える手で書いた。
甘さ、追加で低下。
怒り、変化なし。
恐怖、戻りかけ。
陛下は何も言わず、机の上に小さな皿を置いた。
杏の砂糖漬け。
「食べろ」
「今は味が」
「だから確認する」
私は一つ口に入れた。
柔らかい。
少し酸っぱい。
甘さは、遠い。
でも完全には消えていない。
「まだ、少し分かります」
「そうか」
陛下の声に、わずかな安堵が混じった。
私はその安堵を、甘いと思った。
砂糖菓子よりもずっと分かりにくい。
でも、確かにそこにある甘さだった。
ノア様が咳払いをした。
「残響の内容は」
現実に戻される。
「花冠院も話を通してある、と言っていました。封印糸は不誠実を作る、と。声の主は見えません。でも金の鋏飾りが」
リディア様の顔色が変わった。
「院長飾り」
「断定はできません」
私はそう言った。
花は、見えたものすべてを裁きに変えるためにあるわけではない。
陛下は頷いた。
「断定は証拠を揃えてからだ。だが、向かう先は決まった」
「花冠院長ですか」
「そして、彼とつながる貴族院だ」
十五番のほころびは、小さい。
けれど小さな糸の端を引けば、大きな花冠がほどけることがある。
私はその怖さを、ようやく少し取り戻していた。




