第12話 眠らない部屋
アシュレイ陛下の部屋は、寝室として作られていた。
大きな寝台。
柔らかい毛布。
眠りを助ける香草を入れるための銀の器。
窓には、朝日が強く入りすぎないよう薄い幕が重ねられている。
けれどそこは、もう寝室ではなかった。
寝台の上には王国全土の地図が広げられ、枕元には封印文書の箱が積まれている。香草の器には眠気覚ましの苦葉が詰められ、毛布の上には署名待ちの書類が三束。
眠るために作られた部屋が、眠らないための執務室になっている。
「本当にここでお休みになっていないのですね」
私が言うと、陛下は地図から顔を上げずに答えた。
「休んではいる」
「どこで」
「椅子で」
「それは休みではありません」
「倒れていない」
「倒れる前だけが問題ではありません」
ノア様が扉の横で小さくうなずいた。
味方がいた。
陛下はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「ノア。君はどちらの近衛だ」
「陛下の近衛です。ゆえに、陛下が椅子を寝台と言い張る件についてはミラ様に賛同します」
「裏切りが早い」
「十年待ちました」
その返事に、私は思わず笑ってしまった。
陛下も怒らなかった。
ほんの一瞬だけ、口元が緩んだ気がした。
王が少し笑うだけで、部屋の空気が変わる。
それなのに、この人は十年、笑う余裕も眠る余裕もなかったのだ。
私は作業台として借りた小机に、十五番の婚約花冠と記録札を並べた。
甘さの確認用として、杏の砂糖漬けも置かれている。
陛下が置けと言った。
リディア様が記録しろと言った。
ノア様が食べ忘れを監視すると言った。
私はいつの間にか、花冠より厳重に管理されている。
「不満そうだな」
陛下が言う。
「不満ではありません。慣れていないだけです」
「何に」
「壊れないように扱われることに」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを口にするつもりはなかった。
部屋が静かになる。
陛下は地図から手を離した。
「第三修復室では、誰もそうしなかったのか」
「第三修復室では、花冠を壊さないことが大事でした。修復師は、替えがききます」
「君は替えがきかない」
即答だった。
胸が詰まる。
王の秘密を読めるから。
十五番の恐怖を読めるから。
便利だから。
そう理由をつけようとして、陛下の目を見てやめた。
この人は、そういう意味だけで言っていない。
少なくとも、そう思いたい目をしていた。
「陛下も替えがききません」
「王は替わる」
「アシュレイ様は替わりません」
言ってしまった。
ノア様が天井を見た。
聞かなかったことにする顔だ。
陛下は私を見た。
「今、何と呼んだ」
「陛下」
「違う」
「言い間違いです」
「そうか」
陛下はそれ以上追及しなかった。
けれど耳元が少し赤いように見えたのは、花灯りのせいだろうか。
空気を変えるように、ノア様が報告書を差し出した。
「ディクス男爵家の証人二名を押さえました。一名は金銭を受け取ったことを認めています。もう一名は所在不明です」
「逃げたか」
「おそらく」
「ヴァーン家との接触は」
「直接の証拠はまだありません。ただ、第二七束の封印糸が保管記録上、王妃候補花冠試作へ使用されたことになっています」
陛下は眉を寄せた。
「セレスティアの花冠か」
「試作段階です。本人が触れたかは不明です」
私は胸元の咲かない蕾を思い出した。
セレスティア様は、花を踏まない。
でも、彼女自身の花は咲かない。
もし彼女の花にも封印糸が関わっているなら、十五番の事件は分家の破談では終わらない。
王妃選定。
貴族院。
王の婚姻。
そして、戴冠花冠。
糸はどこまで続いているのだろう。
「ミラ」
陛下が私を呼んだ。
「はい」
「君はセレスティアの花を読めるか」
「本人の許可があれば」
「許可がなければ」
「読みません」
答えると、陛下は少しだけ安堵したようだった。
「そう言うと思った」
「なぜですか」
「君は花を救いたがるが、花を奪うことは嫌う」
その言葉は、私自身より私を知っているようで、少し怖かった。
私は机の上の十五番を見た。
「救えるとは限りません」
「それでも、処分棚には置かない」
「はい」
短い返事。
でも、それが私の芯なのだと思う。
夜が深くなる。
ノア様が一度退室し、リディア様からの追加記録を取りに行った。
部屋には私と陛下だけが残った。
陛下は地図を畳もうとして、指先を滑らせた。
「陛下」
「問題ない」
「あります」
私は立ち上がり、地図を押さえた。
距離が近い。
陛下の疲労が、肌で分かるほど近い。
ふっと、彼のまぶたが落ちかけた。
私は反射的に手を伸ばした。
触れる寸前、陛下が身を引く。
「触れるな」
鋭い声だった。
私は固まった。
陛下はすぐに顔を歪めた。
「違う。君を拒んだのではない」
「分かっています」
「眠りたくなる」
その一言が、胸に残った。
触れられると眠りたくなるほど、疲れている。
眠りたいのに、眠れない。
私は手を下ろした。
「いつか、触れても眠れるようにします」
陛下は答えなかった。
ただ、長い沈黙のあとに言った。
「それは、残酷な希望だ」
「はい」
私は頷いた。
「でも、花冠は壊れたところからしか直せません」
眠らない部屋に、花灯りが揺れていた。
寝台の上の書類も、眠気覚ましの苦葉も、奪われた記憶の札も、すべてがこの人の壊れた場所を示している。
私はそれを見なかったことにはできない。
たとえ見るたび、自分の何かを失うとしても。




