第13話 奪われた名前
最初に奪われた記憶は、名前だった。
アシュレイ陛下がそう話し始めたのは、夜の三つ目の鐘が鳴ったあとだった。
眠らない部屋の窓の外では、春祭りの準備を終えた庭が静まり返っている。白銀の蔓だけが月明かりを受けて淡く光っていた。
私は十五番の記録を閉じ、陛下の方を向いた。
「名前、ですか」
「侍女の弟の名だ」
陛下は机の引き出しから、小さな札束を取り出した。
前にも見た記録札。
そこには、人名、日付、失われた記憶が淡々と書かれている。
「即位して二年目だった。国境紛争の処理が続き、三日ほどまともに眠っていなかった。椅子で落ちた。ほんの数分だ」
陛下の声は平坦だった。
でも、指先が札の角を強く押さえている。
「目が覚めると、侍女が泣いていた。弟の顔は分かる。声も、病弱だったことも、好きな菓子も覚えている。だが名前だけが分からないと言った」
「名前だけ」
「ああ。最初は疲れだと思われた。だが、次も起きた」
次は庭師の妻の声。
その次は近衛の剣を握る理由。
さらに次は、書記官が初めて文字を覚えた日の記憶。
どれも人生の全てではない。
けれど、人生の根に触れるものばかりだった。
「奪われる記憶に法則はありますか」
「大切なものだ」
陛下は短く言った。
「本人にとって、忘れたくなかったものが奪われる。私には何が奪われたか分からない。失われたあと、本人が語って初めて知る」
「陛下の中に残らない」
「残らない。残るのは、空白を作った感触だけだ」
空白を作った感触。
私は自分の代償を思った。
甘さが遠くなる。
怒りが鈍る。
恐怖が硝子越しになる。
私の場合、失ったものが自分の中に分かる。
陛下の場合、失ったものは他人の中に穴として残る。
どちらが残酷なのだろう。
比べることに意味はない。
それでも、考えてしまう。
「陛下は、いつから眠らないと決めたのですか」
「庭師が妻の声を忘れた時だ」
陛下は窓の外を見た。
「彼は妻を亡くしていた。声だけが、毎朝庭で花を手入れする理由だった。それを私が奪った」
「陛下が奪いたくて奪ったのではありません」
「奪った事実は変わらない」
返す言葉がなかった。
花冠を修復する時、よく似た場面がある。
悪意なく傷つけた誓約。
知らずに踏んだ花。
意図はなくても、花は枯れる。
だからといって、踏んだ人間を永遠に罰すればよいわけでもない。
けれど、踏まれた花に「悪気はなかった」と言っても救いにはならない。
「陛下は、奪った記憶を戻したいですか」
「戻せるなら」
「戻せないなら」
「奪わない方法を探す」
即答だった。
その答えに、私は少しだけ胸が痛くなった。
この人は、自分が救われる方法より先に、誰かを傷つけない方法を探す。
王として正しいのかもしれない。
でも、人としてはあまりに孤独だ。
「ミラ」
陛下が私を呼んだ。
「君は、私を哀れむな」
私は驚いて顔を上げた。
「顔に出ていましたか」
「出ていた」
「すみません」
「謝ることではない。ただ、哀れみで近づくな。君が傷つく」
「では、修復師として近づきます」
「それも傷つくだろう」
「たぶん」
「なら、なぜ来る」
問いは静かだった。
責めているのではない。
本当に分からないという声だった。
私は少し考えた。
「十五番の花冠を見捨てられなかった理由と同じです」
「私は花冠ではない」
「はい。でも、壊れた理由を誰にも読まれないまま処分されかけているように見えます」
陛下は黙った。
言いすぎただろうか。
けれど、嘘ではない。
眠らない竜王。
冷酷な王。
夜も玉座を離れない王。
噂はこの人を分かりやすい花冠に編み直している。
けれど本当は、もっと複雑に壊れている。
「君は本当に、花冠で世界を見るのだな」
「それしか得意なことがありません」
「十分だ」
陛下は札束を私に差し出した。
「読めるか」
「記憶の札をですか」
「私が奪った記憶の残響が、ここに残っているかもしれない」
ノア様が扉の外にいる。
リディア様は別室で封印糸の記録を調べている。
今ここで触れるべきか、迷った。
でも陛下は命令しなかった。
差し出したまま、待っている。
「一枚だけ」
私は言った。
「読んだ前後の記録をつけます」
陛下は頷いた。
私は最初の札を手に取った。
侍女マリー。
弟の名を忘れる。
残響は、弱かった。
朝の厨房。
白い湯気。
小さな男の子が笑う。
姉さん、と呼ぶ声。
そのあとに続く名が、黒い花びらに吸い込まれる。
私は指を離した。
胸の奥が、少しだけ空いた。
「何を失った」
陛下がすぐに聞く。
「寂しさが、少し遠くなりました」
リディア様がいなくても、私は記録をつけた。
寂しさ、軽度低下。
甘さ、遠いが残存。
恐怖、回復傾向。
書き終えると、陛下が静かに言った。
「もう読むな」
「一枚だけと言いました」
「そうだったな」
陛下は札を箱へ戻した。
「マリーの弟の名は、後に記録から調べた。だが彼女は、思い出したとは言わなかった。知っただけだ、と言った」
知ることと、思い出すことは違う。
私はその違いを、花冠の傷のように覚えた。
この呪いを解くには、奪われた記憶を戻すだけでは足りない。
失われたものが、その人の中へ帰れる形を探さなければならない。
窓の外で、夜明け前の鳥が一度だけ鳴いた。
陛下はまだ眠らない。
眠れないのではない。
眠らないことを選び続けている。
その選択が、いつかこの人自身を空っぽにしてしまう前に。
私は、修復の方法を見つけたいと思った。




