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第86話 恋を知る距離

 候補者晩餐の前、私は王宮書庫へ呼ばれた。


 アシュレイ陛下は、窓辺に立っていた。


 机には王妃選定の資料、王家罪状公表の草案、花冠院再編案が積まれている。どれも重い。けれど今日の彼は、それらを見ていなかった。


 私を見る目が、いつもと違った。


「疲れているか」


 最初の言葉はいつも通りだった。


「少し」


「嘘は」


「半分です」


 正直に言うと、彼は少し笑った。


 その笑みを見るだけで、胸が温かくなる。


 もう、喜びは戻っている。

 完全ではないかもしれない。

 時々遅れることもある。


 でも今は、確かに届いた。


 陛下は机の上から小さな箱を取った。


 中には、フロレアでトマから受け取った布花が入っていた。


「これを、戴冠十周年儀式の花冠に入れようと思う」


「花がない花を、王の冠に?」


「嫌か」


「いいえ。とても」


 言葉が詰まる。


 とても、何だろう。


 嬉しい。


 今度はちゃんと分かった。


「嬉しいです」


 言うと、陛下の表情が柔らかくなった。


「戻ってきたか」


「はい」


 彼はそれだけで、深く安堵したように見えた。


 私の喜びを、彼は本当に覚えていてくれたのだ。


 静かな時間が流れる。


 けれど、外では王妃選定が進んでいる。


 候補者たちがいる。

 セレスティア様が戦っている。

 私は候補ではない。


 その事実が、部屋の中に見えない花冠のように置かれている。


「ミラ」


 陛下が名を呼ぶ。


「はい」


「私は、君を見ている」


 以前、検分室で言われた言葉。


 今度は逃げられなかった。


「それは」


「王として言うべきではないと分かっている」


 彼の声は低い。


「仮婚約は君を守るための制度だった。私の眠りを直す契約でもあった。そこに私情を混ぜれば、君を縛る」


 救うことと縛ること。


 私たちは何度もその境界を見てきた。


 だからこそ、彼は簡単に言えない。


 私も簡単に答えられない。


「私も」


 声が震えた。


「陛下を、見ています」


 彼の目が揺れる。


「王としてだけではなく」


 言ってしまった。


 胸が痛いほど速く鳴る。


 けれど、言ったあとに後悔は来なかった。


 怖さと、嬉しさが同時にある。


 アシュレイ陛下は一歩近づいた。


 触れられる距離。


 触れてはいけない距離。


 眠りの呪いはまだ完全には解けていない。仮婚約も、王妃選定も、制度も、全部が間にある。


 彼は手を伸ばさなかった。


 代わりに、白い契約花の蕾を見た。


 もう半分以上開いている花。


「君を選びたい」


 息が止まった。


「だが、仮婚約のまま選べば、君に逃げ道がない。王妃選定の中で選べば、候補者たちを踏み台にする。今ここで言えば、君を政治の中心に引きずり込む」


 彼は苦しそうに言う。


「だから、まだ言うだけだ。求めない。答えなくていい」


 答えなくていい。


 それは優しさで、同時にひどく切ない。


 私は白い契約花に手を添えた。


「では、私もまだ言うだけにします」


 陛下が私を見る。


「私は、あなたを選びたいです」


 静かに言った。


「でも、選べる形になるまで待ちます」


 彼の目が、深く揺れた。


 眠りの水面で名を呼び合った時よりも、今の方がずっと近い。


 触れない。


 それでも、この距離はもう空白ではない。


 晩餐の鐘が鳴った。


 私たちは同時に現実へ戻る。


 王妃選定は続く。


 恋を知ったまま、制度の中へ戻らなければならない。


 それでも私は思った。


 待つことは、諦めることではない。


 咲かない蕾と同じように、私たちの花も今はまだ、選ぶために開ききらないのだ。


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