第85話 公爵家の檻
ヴァーン公爵家の使者は、翌朝から露骨に動き始めた。
候補者たちの親族へ接触し、セレスティア様の蕾検分は修復師による誘導だと噂を流す。貴族院には、王が仮婚約者に入れ込み、公正な選定を歪めているという抗議文が提出された。
標的は私だけではない。
セレスティア様もだった。
父に従わない娘。
咲かない蕾。
家門を裏切る候補者。
そういう言葉が、王宮の廊下を歩く彼女の背に投げられた。
彼女は笑っていた。
完璧に。
だからこそ、私は心配になった。
「笑い方が固いです」
候補者控室の隅でそう言うと、セレスティア様は眉を上げた。
「失礼ね」
「すみません」
「謝るなら言わなければいいのに」
それでも彼女は怒らなかった。
窓の外には、王宮庭園の花が整然と並んでいる。どれもよく手入れされ、咲くべき時期に咲くよう管理されている。
美しい。
けれど、フロレアの大花冠祭を見たあとでは、少し息苦しい。
セレスティア様は庭を見たまま言った。
「父は、わたくしを愛していないわけではないの」
意外な言葉だった。
「そうなのですか」
「ええ。愛しているつもりなの。自分の家門を、自分の血を、自分が作ったわたくしを」
胸が痛む。
愛の形をした檻。
それは、憎しみよりほどきにくい。
「母は、何も言わない人でした」
セレスティア様は続けた。
「父に逆らわず、わたくしにも逆らうなと言わず。ただ沈黙していた。昔はそれを弱さだと思っていました」
「今は」
「沈黙にも、折れた沈黙と、待つ沈黙があると少し思うわ」
彼女は胸元の蕾に触れる。
「わたくしの蕾も、黙っていただけではなかった」
その時、扉が開いた。
入ってきたのはヴァーン公爵夫人だった。
セレスティア様の母。
初めて近くで見る彼女は、影の薄い人だった。美しいが、どこか色を抑えられている。手には小さな箱を持っている。
「セレスティア」
声は小さい。
セレスティア様が立ち上がる。
「お母様」
夫人は私を見た。
「修復師様も、聞いてください」
箱の中には、古い花弁が入っていた。
緑がかった白。
セレスティア様の蕾と同じ色。
「これは」
「私の婚約花です」
夫人は静かに言った。
「咲きすぎた花です」
触れる許可を得て、私は花弁に指を近づけた。
流れ込んできたのは、従順。
過剰な開花。
望まれる形になろうとし続け、自分の根を枯らした花。
セレスティア様の顔色が変わる。
夫人は娘を見た。
「私は咲きすぎました。だから、あなたが咲かないことを、羨ましく思ったことがあります」
「お母様」
「止められなくてごめんなさい」
短い謝罪だった。
長い年月のすべてを埋めるには足りない。
でも、初めて差し出された言葉だった。
セレスティア様の蕾が震える。
咲かない。
けれど、花弁の端がほんの少し柔らかくなった。
夫人は箱を置く。
「父上は、今夜の候補者晩餐であなたに署名させるつもりです。王妃選定継続と、本人同意確認の撤回に」
セレスティア様の目が冷える。
「そう」
「逃げなさい、とは言えません」
夫人は震える手を握った。
「でも、署名しない方法を選んでください」
それは、彼女にとって精一杯の反抗なのだろう。
セレスティア様は母の手を見た。
すぐには触れなかった。
許しも、和解も、急がなくていい。
ただ、彼女は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
公爵家の檻は、一枚岩ではなかった。
咲きすぎた花と、咲かない蕾。
二つの傷が、初めて同じ部屋に置かれた。




