第82話 候補ではない修復師
王妃候補ではない、という言葉は便利だった。
私は候補者席に座らなくていい。
花冠を試着しなくていい。
家門の名を読み上げられなくていい。
それでも、誰も私を候補の外だとは見ていなかった。
王の仮婚約者。
眠りの呪いを知る修復師。
森から戻った女。
私につけられた名は増えた。
けれど私自身は、まだ第三修復室の机と道具箱が一番落ち着く。
選定初日の朝、候補者花冠の検分室へ入ると、八つの花冠が並んでいた。
どれも美しい。
家門ごとの色、紋章、誓約花が緻密に編み込まれている。だが美しさの奥に、花の呼吸の乱れがあった。
リディア様が記録官として隣に立つ。
イオは補助記録。
パウルとニナは花冠の運搬。
花冠院は暫定評議制になったが、まだ多くの職員がこちらを疑っている。
だからこそ、手順を明確にする必要があった。
「読み取りは本人立ち会い、補助者二名、記録官一名」
私は声に出して確認した。
「候補者本人の同意なしに深読みしない。家門の同席者は、本人が望む場合のみ」
リディア様が頷く。
「記録しました」
最初に来たのは、北方侯爵家のアリアナだった。
銀髪で、背が高く、凛とした人だ。付き添いの母親は当然のように部屋へ入ろうとしたが、アリアナは静かに言った。
「母上は外で」
母親の顔が強張る。
アリアナは表情を変えない。
「本人同意が必要なのでしょう」
私は頷いた。
彼女の花冠は、氷晶花を中心に編まれていた。北方の忠誠と忍耐を示す花だという。だが花弁の先が細かく割れている。
「触れても?」
「どうぞ」
アリアナの声は落ち着いている。
私は氷晶花に触れた。
冷たい。
流れ込んできたのは、強さではなく、凍らせた恐怖だった。
北方領の飢饉。
弟たちを守るため、王妃候補になることを受け入れた少女。
泣けば家が弱く見えると教えられ、泣く感情を花ごと凍らせた記憶。
私は手を離した。
「花冠は壊れていません。ただ、氷晶花が泣くことを禁じられています」
アリアナの眉がわずかに動く。
「候補として不適格ですか」
「いいえ。泣けないことを強さとして提出されるなら、危険です」
彼女はしばらく黙った。
やがて、小さく笑った。
「初めてです。泣けないことを褒められなかったのは」
その笑みは冷たく見えたが、少しだけ解けていた。
二人目は商都伯家のメイベル。
金貨草と契約蔓の花冠は、見た目には華やかだった。だが蔓が内側へ食い込み、額に触れる部分が痛そうに尖っている。
本人は明るく笑っていた。
「商家の娘ですもの。多少の食い込みは利益の証です」
私は花冠に触れた。
利益。
交渉。
兄の期待。
商都と王家を繋ぐ取引材料としての自分。
そして、その中でも自分の商才を試したいという野心。
「食い込みは家門からの圧力です。でも花冠そのものは、あなたの野心も持っています」
メイベルの目が輝いた。
「野心は悪ですか」
「いいえ。ただ、誰の利益かを間違えると蔓が締まります」
「それは面白いわ」
彼女は本当に楽しそうに笑った。
候補者たちは、敵ではない。
それぞれの花が、それぞれの生を持っている。
夕方、すべての初回検分を終える頃、私は疲れ切っていた。
アシュレイ陛下が検分室へ来る。
候補者たちの花冠記録を見て、静かに言った。
「これは王妃を選ぶ場ではなく、国の傷を見る場だな」
「はい」
私は椅子に座ったまま答えた。
「そして、私は候補ではありません」
なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。
陛下は少し黙った。
「知っている」
胸が痛む。
知っている。
それは正しい答えなのに、なぜ痛いのだろう。
陛下は続けた。
「だが、君が候補ではないことと、私が君を見ていることは別だ」
息が止まった。
検分室の花冠たちが、いっせいに小さく揺れた気がした。
私は返事ができなかった。
候補ではない修復師。
その立場が、急にひどく危うく、ひどく大切なものに思えた。




