第76話 帰還の朝
眠りの入口から戻った時、空は朝になっていた。
森の中なのに、青い光が木々の間を満たしている。夜明け竜胆が道の両脇にぽつぽつと咲き、黒い花弁は土に戻っていた。
アシュレイ陛下は目を開けていた。
眠った。
ほんの短く。
それでも眠った。
私は自分の記憶を確かめる。
母の手。
白い花弁。
第三修復室。
陛下の声。
ある。
どれも完全にある。
ただ、胸の奥に小さな空白があった。
何を失ったのか、すぐには分からない。
でも今回は、怖さだけではなかった。
空白の周りに、戻れる道がある。
アシュレイ陛下が体を起こす。
「奪ったか」
最初の言葉がそれだった。
私は首を振る。
「少なくとも、私の大切な記憶はあります」
リディア様が確認する。
「短い共眠補助は成功です。ただし、完全な解呪ではありません。眠りを一人に集めない道筋が見えただけ」
陛下は深く息を吐いた。
その顔は疲れている。
けれど、十年分の何かが少し緩んでいた。
「眠ったのだな」
「はい」
私が答えると、彼は目を伏せた。
「朝が来た」
たったそれだけの言葉に、胸が熱くなる。
森を出る道は、入った時より短く感じた。
王家を拒んだ花は、まだ陛下へ向かって咲かない。けれど閉じる速度が遅くなった。道を塞いだ根も、少しだけ端へ寄る。
許されたのではない。
でも、待たれている。
それで十分だった。
夢抜け道の出口で、ノア様たちと合流した。
イオは泣きながら駆け寄り、リディア様に抱きついた。カッサは無事だったが、杖の先が折れている。トマは疲れ切った顔で、それでも冠をしっかりかぶっていた。
「王都への道は開けました」
ノア様が報告する。
「旧記録庫は一部焼失。しかしセレスティア様と若手修復師たちが主要記録を退避。オルド院長の焼却指示に関する証言も取れています」
アシュレイ陛下の目が鋭くなる。
「戻る」
その声には、眠りの揺らぎが残っていなかった。
王都へ戻る馬車は、フロレアの門前で用意されていた。
街の人々が見送りに来ている。
女将、リナ、ベルク官吏、無花者たち、老夫婦、巡礼者。
大花冠祭で記憶を少し失った人々もいた。
完全な救済ではない。
けれど彼らは、私たちへ花を差し出した。
生きた花だけではない。
布花、乾花、空の鉢、保留糸。
それぞれが、自分の形で。
トマは陛下に小さな布花を渡した。
「王様、これ、花がない花」
陛下は両手で受け取った。
「ありがとう」
トマは少し照れた。
「眠れた?」
周囲が固まる。
陛下は少しだけ笑った。
「少し」
「じゃあ、よかった」
子どもの素直な言葉に、私は涙が出そうになった。
馬車が動き出す。
フロレアの街が遠ざかる。
森で得た記録。
王妃と母の真実。
夜明け竜胆。
白い花弁。
共眠補助の手応え。
そして、王都で燃えた旧記録庫。
帰還の朝は、終わりではない。
ここから、隠してきた人々と向き合う時間が始まる。
アシュレイ陛下は馬車の中で、ほんの少しだけ目を閉じた。
眠ってはいない。
でも、眠りを敵として睨んではいなかった。
私はそれを見て、静かに息を吐いた。
朝は、来る。
たとえ遅くても。




