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第75話 名前で呼ぶ声

 夜明け竜胆の光が収まると、森は急に暗くなった。


 夕暮れではない。

 眠りが濃くなったのだ。


 木々の影が伸び、足元の黒い花弁が水のように揺れる。竜の気配が近い。森の奥で眠っていたものが、こちらへ意識を向けている。


 リディア様が白い顔で言った。


「長く留まるのは危険です。得たものを持って戻りましょう」


 私も頷こうとした。


 その時、アシュレイ陛下が倒れた。


 膝から崩れ、片手を地面につく。


 眠りが限界まで来ていた。


「陛下!」


 私は駆け寄る。


 彼は顔を上げようとしたが、まぶたが重そうに落ちる。


「近づくな」


 声がかすれている。


 眠れば、記憶を奪う。

 その恐怖が、今も彼を縛っている。


 でも森は眠りを返そうとしている。

 彼一人にではなく、道へ。


 ここで眠りを完全に拒めば、また鎖になる。


「一人で眠らないでください」


 私は白い契約花を出した。


 半分以上開いた蕾。

 母の白い花弁を抱え、夜明け竜胆の光を受けた花。


 陛下は首を振る。


「君の記憶を」


「奪わせません」


「保証は」


「ありません」


 正直に言うと、彼の目が少しだけ開いた。


「でも、一人で耐え続ける保証ももうありません」


 リディア様が保留糸を準備する。


「短い共眠補助なら可能かもしれません。眠りを完全に落とすのではなく、入口を共有して戻る」


「危険です」


 アシュレイ陛下が言う。


「はい」


 リディア様は認めた。


「ですが、眠りを敵にし続ける危険も同じくらい大きい」


 森の影が濃くなる。


 私は陛下の前に座った。


 触れない距離。


 でも、契約花を間に置く。


「アシュレイ様」


 彼が息を止める。


 名前で呼んだのは、熱の夜以来だ。


 でも今度は朦朧としていない。

 選んで呼んだ。


「ミラ」


 返ってきた声に、胸が震えた。


 陛下が初めて、私の名をただの呼びかけではなく、助けを求める声として呼んだ気がした。


「怖い」


 彼は言った。


 短く。

 ようやく。


 眠らない竜王が、眠りを怖いと言った。


 私は頷いた。


「はい」


「君を失うのが怖い」


「私も、自分を失うのは怖いです」


「なら」


「だから、一緒に入口まで行って、戻りましょう」


 リディア様が保留糸を契約花の周りへかける。


 灰色の糸が白い花を支え、夜明け竜胆の花粉が淡く光る。


 アシュレイ陛下のまぶたが落ちた。


 完全な眠りではない。

 眠りの入口。


 私も目を閉じる。


 深い水の縁に立つ感覚。


 陛下の記憶が流れ込もうとする。

 私の記憶も揺れる。


 白い契約花が、その流れを一度受け止めた。


 奪うのではなく、映す。

 押しつけるのではなく、分ける。


 私は母の手を感じた。

 陛下は王妃の声を感じた。


 どちらも失わない。


 眠りの水面で、私たちは向かい合っていた。


 アシュレイ様。


 声に出したのか、心の中だったのか分からない。


 彼は答えた。


 ミラ。


 その一言が、眠りの中で道標になった。


 戻れる。


 私はそう思った。


 次の瞬間、森の奥から竜の目が開き、眠りの水面が大きく揺れた。


 試しはまだ終わっていなかった。


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