第74話 母の花
母の記憶は、花冠院の地下にあった。
夜明け竜胆が見せた光の中で、私は若い母を見ていた。彼女は今の私より少し年上で、髪をきつく結び、胸に小さな白い誓約花を下げている。
その花は、私の契約花に似ていた。
王妃エリシアが母に言う。
「あなたの花は、壊れた眠りを逃がせる。だから狙われます」
母は唇を結ぶ。
「では、私は花冠院を辞めます」
「逃げてもいいのです」
王妃は優しく言った。
「ただ、もし残るなら、記録を隠すのではなく、未来へ渡す形にしてください」
未来。
その言葉が、記憶の中で私へ刺さる。
母は何を渡そうとしたのか。
場面が変わる。
母は小さな家で、壊れた婚約花を前に座っている。父の姿はない。机の上には、王妃から託された紙片と、白い花弁。
黒い封印糸が窓から伸びてくる。
母は幼い私を奥の部屋へ隠した。
「ミラ、ここにいて」
私は泣いている。
母は笑おうとした。
「花が壊れても、終わりじゃないの」
黒い糸が母の婚約花へ絡む。
花が割れる。
その瞬間、母は自分の花を完全に守るのではなく、割れた花弁の一枚を幼い私の道具箱へ隠した。
私は息をのむ。
道具箱。
今も使っている、母の古い道具箱。
底板の裏に、何かがある。
現実の私の手が震えた。
夜明け竜胆の記憶は続く。
母は黒い糸に膝をつきながら言った。
「この子には、選ばせて」
王妃と同じ願い。
一人に背負わせない願い。
でも母は、私に何も言わずに逝った。
いや、言えなかったのだ。
黒い糸が記憶を裂いたから。
光が戻る。
森の中で、私は夜明け竜胆から手を離した。
息が荒い。
頬が濡れている。
アシュレイ陛下も膝をつき、片手で額を押さえていた。リディア様は青ざめながらも記録を取っている。
「見ましたか」
私が聞くと、陛下は頷いた。
「君の母上は、私の母の協力者だった」
リディア様が震える声で続ける。
「白い花弁。おそらく共眠誓約の補助花です。ミラさんの道具箱に」
私は道具箱を開けた。
いつも使っている針、糸、布、古い鋏。
底板を外す方法など知らない。
でも母の記憶を見た今なら分かる。
角の小さな傷に銀針を入れ、押す。
底板が浮いた。
中から、白い花弁が出てきた。
乾いているのに、柔らかい。
私の契約花と同じ光を持つ花弁。
触れると、胸の奥で何かがほどけた。
母の声が聞こえる。
選んで。
壊れた花を直すかどうかも。
誰かのために痛むかどうかも。
あなたが選んで。
私は泣いた。
声を出さずに泣こうとしたのに、無理だった。
アシュレイ陛下は近づきすぎず、ただ隣に膝をついた。
「ミラ」
「私は、母に背負わされたのだと思っていました」
言葉が途切れる。
「でも違いました。母は、選べるように隠してくれていた」
陛下は静かに聞いていた。
痛みを奪わず、そばにいる。
その在り方が、王妃の言葉を思い出させる。
白い花弁を契約花の蕾へ近づけると、蕾がもう一枚開いた。
完全な開花までは、まだ遠い。
でも、私の花は私だけのものではなかった。
母から、王妃から、そして私自身の選択へ続く花だった。
森の奥で、竜が静かに息を吐いた。
それは怒りではなく、長く待っていたものを見つけた息に聞こえた。




