第73話 一輪だけ開く
森の奥で、夜明け竜胆は一輪だけ待っていた。
それは花畑ではなかった。
巨大な竜の骨のような根が地面を覆い、その中心に青い花が一つだけ咲いている。花弁は朝と夜の境目の色をしていた。近づくほど、眠気ではなく目覚めの痛みが胸に刺さる。
アシュレイ陛下は花の前で立ち止まった。
「これが、母が開けようとした道か」
リディア様が慎重に観察する。
「おそらく。夜明け竜胆は眠りを返す花ですが、ここまで強い個体は記録にありません」
私は花を見つめた。
触れなくても分かる。
この一輪は、十年分の朝を抱えている。
王妃が届かなかった朝。
兵士たちが取り戻せなかった朝。
無花者たちが道具にされた朝。
アシュレイ陛下が眠れなかった朝。
すべてが、青い花弁の内側で震えていた。
「触れば、何かが起きます」
私は言った。
陛下がこちらを見る。
「危険か」
「はい」
「必要か」
「はい」
短い答えしか出ない。
怖い時ほど、言葉は簡単になる。
リディア様が道具を広げる。
「三人で行います。ミラさんが花の感情を読み、私が封印糸を処理し、陛下が眠りの流れを受け止める。ただし、受け止めるだけです。一人で抱え込まないでください」
陛下は頷いた。
以前なら、ここで一人で背負うと言ったかもしれない。
今は言わなかった。
私たちは花の周りに膝をつく。
森の空気が静まり返った。
遠く、夢抜け道へ向かったノア様たちの気配はもうない。ここにいるのは、私たち三人と、竜の眠りだけ。
私は夜明け竜胆へ手を伸ばした。
「危なくなったら」
陛下が言う。
「止めてください」
私が先に答えると、彼は少しだけ目を細めた。
そして、私の手ではなく、白い契約花の蕾に手を添えた。
直接触れない。
でも同じ花を支える。
私は夜明け竜胆に触れた。
朝が流れ込んできた。
まぶしいほどの青。
眠りから覚める子どもの息。
戦場で目を閉じる兵士。
森の奥で竜が見る長い夢。
王妃エリシアの手。
そして、母の声。
私の母。
なぜここに。
驚く間もなく、景色が変わる。
花冠院の片隅。
若い母が、壊れた婚約花を抱えている。隣には王妃エリシアがいた。
「あなたの花は、眠りを逃がす性質があります」
王妃が言う。
「もし私が戻らなければ、この技術を隠してください。子どもにまで届かないように」
母は青ざめて頷く。
私の母は、王妃の協力者だった。
壊れた婚約花は、ただの家庭の不幸ではなかった。
共眠誓約に関わる花だった。
記憶が揺れる。
母の花が壊された日。
家の中に黒い封印糸の気配。
幼い私を抱きしめる母。
「ミラ。壊れた花を、怖がらないで」
あの言葉は、私を慰めるだけではなかった。
託していた。
私は息ができなくなった。
母の痛みが、王妃の痛みと繋がっている。
アシュレイ陛下の声が遠くから聞こえる。
「ミラ、戻れ」
戻りたい。
でも、夜明け竜胆の奥にまだ続きがある。
母が隠したもの。
王妃が託したもの。
私は手を離さなかった。
その瞬間、白い契約花が強く光り、陛下の眠りが私へ流れ込みかけた。
違う。
一人に集めない。
私は叫んだ。
「一緒に、見てください!」
夜明け竜胆の光が三つに分かれた。
私、アシュレイ陛下、リディア様。
朝の記憶は一人ではなく、三人に分かれて降りた。
一輪だけ開いた花が、初めて道を分けた。




