第72話 燃える旧記録庫
王都の旧記録庫に火が入ったのは、夕刻だった。
セレスティアは、花冠院の白い塔から煙が上がるのを見た。
その瞬間、父の応接室で聞いた言葉が頭をよぎる。
王家の古傷を掘り返されては困る者も多い。
困る者たちは、火を選んだ。
彼女は走った。
令嬢らしくないと叱る侍女の声も、廊下で驚く貴族の視線も無視した。胸元の蕾が痛む。緑の筋がさらに濃くなり、息をするたび刺すようだった。
旧記録庫の前には、花冠院の職員が集まっていた。
オルド院長は冷静な顔で指示を出している。
「古い紙が自然発火した。危険だ、近づくな」
自然発火。
そんな言葉で、燃える記録が黙ると思っているのか。
パウルとニナが裏口の方で水桶を運んでいる。若い修復師たちは、顔を煤で汚しながら必死に動いていた。
「セレスティア様!」
パウルが叫ぶ。
「三番棚の写しは半分出しました。でも奥に王妃記録の続きが」
セレスティアは燃える扉を見た。
熱が肌を刺す。
父なら止めるだろう。
令嬢のすることではない。
王妃候補の品位ではない。
だが、彼女はもう署名欄に従うだけの娘ではない。
「水を」
ニナが驚く。
「中へ入るのですか」
「入れる場所まで」
その時、オルド院長が近づいてきた。
「ヴァーン嬢。危険です。お下がりください」
「危険なら、なぜ記録を避難させないのですか」
「古い記録です。すでに価値のあるものは」
「価値があるかどうかを、燃やす側が決めるのですね」
院長の目が冷えた。
「王妃候補が修復師の真似事をなさる必要はありません」
「そうですね」
セレスティアは微笑んだ。
いつもの、整えた笑み。
「ですから、候補者本人として記録保存を求めます。王妃選定の適性資料が含まれる可能性がありますもの」
院長の顔がわずかに歪む。
候補者本人確認。
彼女が時間稼ぎに使っていた盾が、ここでも効いた。
パウルがその隙に裏口へ走る。
ニナが水をかけ、イオの代わりに記録板へ救出した箱の番号を書き込んでいく。
セレスティアは煙の中へ一歩踏み込んだ。
胸元の蕾が激しく痛む。
その痛みが、進む方向を教えた。
奥の棚。
王妃候補花冠試作記録。
咲かない蕾の異常報告。
封印糸再利用申請。
彼女は布で口元を押さえ、手近な箱を抱えた。
熱い。
指先が焼ける。
でも、箱は離さない。
誰かが背後から腕を掴んだ。
父だった。
「何をしている」
「記録を守っています」
「くだらん」
公爵の声は低い。
「お前は王妃になるために育てた。煤まみれで箱を運ぶためではない」
セレスティアは父を見た。
煙の向こうで、父の顔は初めて少し遠く見えた。
「わたくしは、箱も運べない王妃にはなりません」
父の手が強くなる。
胸元の蕾が痛み、緑の筋が光った。
咲かない。
でも折れない。
その時、裏口から王宮近衛の声が響いた。
「王命特任修復班の記録保全です! 道を開けてください!」
ノア様ではない。
王都に残った近衛だった。
パウルたちが呼んだのだ。
公爵の手が一瞬緩む。
セレスティアは箱を抱えて煙の外へ出た。
咳き込みながら見上げると、旧記録庫の上部は燃えていた。
すべては救えない。
けれど、若い修復師たちが次々に箱を運び出している。
花冠院の白い壁が、炎で赤く染まる。
オルド院長は、初めて焦りを隠せない顔をしていた。
記録は完全には燃えない。
閉じた蕾は、その日、火の中で折れずに残った。




